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第2話 不眠症の王太子と、震える黄色の塔

 カチ、カチ、カチ。


 店内に響くのは、規則正しい時計の針の音と、小鳥のさえずり。

 そして、私が丁寧に焼き上げた生地から漂う、焦げたバターとバニラの香り。


「……ん」


 カウンターの隅で、死体のように突っ伏していた「お客様(元婚約者)」が、ようやく身じろぎをした。

 重たげに瞼を持ち上げ、ぼんやりと天井を見上げている。

 豪華な王宮の天蓋ではなく、うちの店の安っぽい木の天井を見て、状況が飲み込めていないらしい。


 彼は体を起こそうとして、バランスを崩してよろけた。

 毒による麻痺じゃない。あれは、ただの寝すぎだ。

 張り詰めていた糸が切れて、泥のように眠っていた人間の動きそのものだ。


(よく寝るわね、本当に)


 この数ヶ月、まともに寝ていなかったと本人は言っていたけれど、まさかここまでとは。

 無防備すぎるその姿に、昨夜までの「氷の王太子」の面影は微塵もない。


「おはようございます。ようやく起きましたか」


 私はカウンターの中で、わざと低く、抑揚のない声をかけた。

 ヘリオス殿下がお化けを見るような顔で首を巡らせる。

 朝日を背負った私は、彼にとって救いの女神か、あるいは死刑執行人に見えているかもしれない。


「……今は、何時だ?」

「朝の10時です。開店時間はとっくに過ぎてるんで、正直邪魔なんですけど」

「10時……!? 12時間も寝ていたのか!?」


 殿下の顔からサーッと血の気が引いていくのが見えた。

 そりゃそうだ。王太子が半日も行方不明になれば、今頃城は大騒ぎだろう。近衛騎士団が血眼になって捜索しているに違いない。


 彼は慌てて立ち上がろうとしたが──


 グゥ〜。


 間の抜けた音が、シリアスな空気をぶち壊した。


「……あ」

「素晴らしい腹時計ですね。モーニング、食べていきます?」

「い、いらん! 私は急いで……」

「『スフレパンケーキ』焼きたてなんですけど。余っちゃうんで、捨てようかな」


 私が顎でしゃくった先を見て、殿下の動きがピタリと止まる。


 カウンターの上に置かれた皿。

 そこに鎮座するのは、彼が知る「パンケーキ(薄くて硬いボソボソした焼き菓子)」とは似ても似つかぬ物体だ。


 分厚い円筒形の生地が三段重ねになっている、黄色い塔。

 私が皿をトンと置いた衝撃で、その塔は「フルン、フルン」と、まるで生き物のように頼りなく揺れた。


 殿下の目が釘付けになっている。

 漂うのはメープルシロップと、熱を持った卵の香り。

 あらあら。王太子の警戒心よりも、食欲が勝ってしまったようだ。彼はフラフラと吸い寄せられるように席に着いた。


「……毒見はしていないが」

「毒なんて高いもの入れませんよ。原価が上がるんで」


 私はそっけなくナイフとフォークを置いてやった。

 彼はゴクリと喉を鳴らし、ナイフを入れる。

 抵抗なく沈む刃を見て、彼は一瞬「えっ」という顔をした。


 一切れをフォークに刺し、口へ運ぶ。

 

 ──瞬間、殿下の目が驚愕に見開かれた。


 まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔だ。

 噛んですらいない。舌の上で生地が解け、濃厚なカスタードのような風味と、焦がしバターの塩気が広がっているのだろう。


「う……」

「う?」

「……美味い」


 王族としての語彙力を失ってるわね。

 普段の彼なら「子供の食べ物だ」と一蹴するだろう甘さだが、疲弊しきった脳には劇薬のように染み渡っているはずだ。

 二口、三口。止まらない。

 あの厳格で知られる殿下が、口の端にクリームをつけ、リスのように頬張っている。


(こいつ、こんな顔するんだ)


 私はその様子を、洗い物をしながら冷めた目で観察した。

 前世の記憶にある「ギャップ萌え」というやつだろうか。いや、今の私には「金づる確保」という感想しか湧かないけれど。


「……ふぅ」


 あっという間に皿は空になった。

 彼は夢から覚めたような顔で、空の皿と自分の手を見比べ、コホンと咳払いをした。いつもの「尊大な王太子」の仮面を慌てて被り直す。


「……礼を言う。悪くない味だった」

「それはどうも。ではお代を。コーヒーとセットで金貨1枚です」

「うむ」


 殿下は優雅な動作で懐に手を入れ──そして、固まった。


 ガサゴソ。

 反対のポケット。ズボンのポケット。マントの裏。

 探れば探るほど、彼の顔色が再び青ざめていく。


(……あ、察し)


 当然だ。彼は王太子。支払いは常に侍従が行うため、現金を持ち歩く習慣などないのだ。

 沈黙が店内に落ちる。

 私の目は、きっと今、最高に冷たい「ゴミを見る目」をしている自信がある。


「……あの、店主?」

「はい」

「ツケで頼めるだろうか」

「はあぁぁぁぁ……」


 私は、今日一番の深いため息をついた。

 そのあからさまな落胆ぶりに、殿下が少し縮こまる。国中の令嬢が彼の微笑み一つで失神するというのに、ここでは「無銭飲食の不審者」扱いだ。


「……わかりました。ツケでいいです。その代わり」

「な、なんだ? 領地か? 爵位か?」

「次に来る時、利子をつけて払ってください。倍額で」


 私は伝票にサラサラと『金貨2枚』と書き込み、彼に突きつけた。


「あと、次はもっと静かに入ってきてくださいね。うちは隠れ家カフェなんで」

「……君は、私が誰か分かっていないのか?」

「お金を持ってないお客さんですよね」


 にべもない返答。

 殿下は呆気にとられ、そして──低く笑い出した。


「く、くく……! そうか、私はただの『金のない客』か!」


 腹を抱えて笑う彼を、私は不審そうに見る。頭でも打ったんだろうか。

 彼は笑い涙を拭うと、伝票を受け取り、今まで見せたことのない少年のような笑顔を向けた。


「いいだろう。必ず払いに来る。……この借金の分は、働いてでも返すさ」


 そう言い残し、王太子は店を出て行った。

 背筋を伸ばし、嵐の待つ王城へと戻っていくその背中は、来た時よりも幾分か軽やかに見えた。


 私は閉まったドアを見つめ、肩をすくめる。


「……ま、ちゃんと払ってくれるなら誰でもいいけど」


 このとき、私はまだ知らなかった。

 この日を境に、王太子が「公務の合間の逃亡先」としてこの店に入り浸り、やがて騎士団長や暗殺者までもが引き寄せられてくることになる未来を。


 私の平穏なスローライフ(予定)は、まだ始まったばかりである。

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