表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

41/42

第41話 長い1日

5月18日 総選挙当日 

午前9時。


各局の朝の報道では、民政革新党が全国的に有利との見方が相次いだ。

南市でも与党候補が序盤から順調に票を伸ばしているとされ、テレビの速報テロップには「民政革新党・優勢」の文字が並ぶ。


市民の多くは、早々に勝負が決したと感じ始めていた。


***


午前11時。


都内のシンクタンク《ネオポリティカ》は、SNS動向・出口調査・期日前投票の傾向をもとに、午前11時の時点での『暫定予測』を公表。


民政革新党(甲斐宗一)が57.8%、言志会(蓮見瑛士)が38.1%、無所属・その他が4.1%と報じられていた。


前日までは、言志会(蓮見瑛士)が民政革新党(甲斐宗一)をわずかに上回る情勢だった。

だが、一夜にして、情勢は急変した。


民政革新党圧勝──誰もが、そう確信していた。


それでも、街の空気はどこか張り詰めていた。


「どうせ、変わらない」

「結局、いつも通りさ」


そんな諦めの声が、カフェや通勤電車の中で交わされていた。

一方で、誰かが呟く。


「でも、もし、何かできるとしたら?」

「諦めたままで、本当にいいのか?」


そのささやかな疑問が、少しずつ広がっていた。


広場には、静かにプラカードを掲げる市民たち。

「私たちは知りたい」

「声を聞いて」

小さな声が集まり始め、やがて、それがうねりに変わっていく。


検閲と規制が強まるSNSでは、同時に『逆流』のような動きも起きていた。

出雲の告発をもとに、自作の解説動画や図解、翻訳付き投稿が一気に拡散。

ミラーサイトが立ち上がり、「#私は知りたい」が再浮上していた。


***


午前11時30分。


そして、灰翼のアジト──廃工場を改装した仮設拠点でも、その速報が中継されていた。


「……ここまで来て、やっぱりダメか……」


技術班の一人がつぶやく。

同じ空間で、情報班の若手・湊が無言でデータログを追っていた。

出雲の告発以降、一時は逆転の兆しも見えたが、

それを押し返すかのように、姫野が仕掛けた報道攻勢は強力だった。


それでも、湊は希望を捨てきれずに、情報の潮目を追い続けていた。


「市民の声も、タグも、まだ動いてる……でも、このままじゃ時間が足りない……」


そのときだった。


──ドォォォォンッ!


外から爆音が響いた。

地鳴りのような振動が床を揺らし、蛍光灯が一瞬だけ明滅する。


「っ……何だ!? 空爆か!?」


叫んだのは、警戒担当の仲間だった。

モニターに切り替えられた外部カメラの映像には、施設周辺に展開する装甲車両と機動兵の姿が映っていた。


それは、南市警備隊の名を冠した特別機動部隊。

表向きは「市内の混乱に対する治安維持作戦」。

だが、実態は──カナンの支援を受けた『統制部』所属の準軍組織だった。


装備も動きも、明らかに軍事的すぎる。

通信装置や使用機材の規格は、見慣れないものが多く、

灰翼の技術班は即座に気づいた。


「これ……カナン式だ。あの装備、日昇国の正規警備じゃない」

「襲撃だ……! 民政革新党の手が、ここまで──!」


仮設拠点は旧地下鉄の整備場跡地。

入り口は廃ビルの地下通路を通じて複雑に分岐しており、一見して拠点とは分かりづらい構造になっている。

しかし、今その外周部に複数の火の手が上がっていた。


「くそっ、場所を特定されたか……!」


そのとき。


「灰武班、配置につけ」


低く、だが芯のある声が響く。

日比谷誠司──元灰武副隊長、いまや実質的な隊長代理。

彼は既に防弾ベストを着込み、仲間に指示を飛ばしていた。


「正面は無理だ。だが『穴』はある。地下ルート、煙幕、攪乱。

俺たちは『戦う』んじゃない。時間を『稼ぐ』」

「5人で止めるつもりか!?」


「違う、『止める』んじゃない。『通さない』時間を稼ぐんだ」


日比谷の目は静かだった。だがその声には、確かな覚悟が宿っていた。


「今ここで折れたら、晃たちが仕掛けた『言葉』まで、全部潰される」

「……行くぞ。灰武は、仲間の背中を守る」


その言葉に、晃は静かに目を閉じた。

負傷からまだ完全には回復していない彼は、それでも、拠点奥の簡易モニター前に立っていた。

ゆっくりと目を開くと、芯のある声で言った。


「……頼んだ。あとは、俺たちが繋ぐ」


並べられた機材と、臨時に設えられた指示ボード。周囲では情報班のメンバーたちが、次々と端末に向かい始めていた。

沙耶が心配そうに隣で支えていたが、晃はそれでも前を見据えていた。


「灰武を信じよう。奴らが時間を稼いでくれるなら、俺たちは『最後の一手』を繋げる」

「……負けられない。ここで折れたら、全部……消される」


アジトの奥で、日比谷たち灰武が次々と装備を整えながら出撃準備に入っていく。

その背中を見つめながら、残された情報班と技術班は、黙々とそれぞれの持ち場へと散っていった。


そのとき、複数のメディアが一斉に緊急テロップを走らせた。


──『南市にてテロリスト集団による拠点籠城か』

──『治安維持軍、灰翼の本拠と見られる施設を制圧へ』

──『民政革新党、国民の安全を最優先とした対応を発表』


報道の語調はあくまで「秩序維持」の名のもとに整えられており、

その裏で起きている攻防や、灰翼の真の目的には一切触れられていなかった。


一方で、灰翼メンバーが中継した襲撃の動画もネットで拡散されていた。

周囲で瓦礫が弾け、火花が散る。遠くで銃声が連なり、誰かの悲鳴が混じった。

コメント欄には「これが治安維持か?」「灰翼はテロリストじゃない」「戦争じゃん」の文字が並ぶ。


選挙速報の下部テロップで、攻防の様子が短く報じられる。

『軍事テロ集団・灰翼を制圧するため、治安維持軍出動』


報道、世論、現場──三つ巴の戦いが、いま始まっていた。


晃は頷き、モニターを見つめながら呟いた。


「……負けられない。ここで折れたら、全部……消される」


嵐のような音が、すぐそこまで迫っていた。


***


午前11時45分。


言志会 選挙事務所の一角。

画面の前では開票速報が更新され続けていた。言志会の得票数は、伸び悩んでいる。

重い空気が事務所を覆っていた。


出雲のリークにより、第三者機関による監視体制を甲斐に認めさせることができた。

票の改ざんは、もうできない──そう確信できる一手だった。


……だが、それでも世論は依然、民政革新党に傾いている。


そんな中、出雲は喧騒から少し外れた壁際で、静かに電話をかけていた。


画面の奥、端末越しに応答があるまでのわずかな数秒が、永遠のように感じられた。


「──出雲だ」


呼吸の浅さを押し隠して、いつものように冷静に名乗る。


『……ここにはかけるなと言った』

「緊急事態だ。灰翼への攻撃を止めてほしい。せめて、攻撃を緩めて欲しい。君の立場ならできるはずだ」


電話の相手は、秦月チン・ユエ

カナン本国出身であり、本国と日本の駐屯軍(占領部隊)をつなぐ「軍事顧問」である。

彼女には、その権限があった。


『借りは返したはずだ』


チン・ユエの言葉はそっけない。


「君自身、この命令には納得していないはずだ」


しばしの沈黙。

その向こうで、かすかに風の音がした。


やがて、ユエがぽつりと答えた。


『……軍人である私が、納得は必要ない。もうかけてくるな』

「おいっ…」


プツッ、と音を立てて、通話が一方的に切れた。


出雲は、数秒間その場に立ち尽くした。


「……くっ」


音になりきらない、小さな声が漏れた。

そして、乱暴に前髪をかき上げる。

整っていた髪が崩れ、額が露わになる。


少し離れた場所にいた蓮見が、ふと目を向ける。

何かを察したように、眉をひそめる。


「出雲、どうした?」

「……南市に行く」


蓮見が、意外そうな表情を浮かべ、そしてそれは小さな笑みに変わる。


「そうだな、君ならきっと、成し遂げるだろう」


***


午前12時30分。


灰翼の地下拠点、狭く暗い一角に、緊張が走っていた。

襲撃の衝撃はまだ収まっておらず、地下通路には微かな振動が残っている。

外では、灰武が時間を稼いでいるはずだった。

情報班の湊がモニターを睨みながら、息を飲む。


「……地下ルート、まだ一つだけ、生きてるかもしれません」


その声に、部屋の空気がざわめいた。


「どこに通じてる?」

「旧市電の保守通路です。廃駅の方まで抜けられれば、あとは市街地に出られる」

「使えるのか?」

「保証は、ありません。でも……可能性はあります」


一瞬、沈黙。

晃が座ったまま、重い声で言った。


「行ける者は、行け。記録を、繋いでくれ」


その言葉に、誰かが小さく息を呑む。


「ここで全滅したら、全部が無駄になる。……『生きて伝える』のが、灰翼だ」


若手の技術班員である相馬晴人が、迷いながらも立ち上がる。

「俺……行きます」

相馬は、一月に合流したばかりの新人だった。


続いて、情報班の女性リーダーである中原真理が一歩踏み出す。


「ここが潰されても、外で情報を繋ぎます。逃げた先で、発信を続ける」


中原は、活動初期から灰翼を支えてきた『古参』の一人だ。

だからこそ、彼女にはわかっていた。


──今ここで動かなければ、すべてが途切れる。


沙織が歩み寄り、晃の手首に触れて脈をとる。


「……熱もあるし、移動は楽じゃない。けど……」


晃の姿を見つめてから、柔らかく笑った。


「晃くんなら、大丈夫だと思う」


その言葉に、晃は軽く頷く。

傷の痛みを抱えながらも、揺るがぬ足取りで立っていた。


「俺は残る」


一瞬、沙耶が何かを言いかけるが、晃がそれを制するように続ける。


「発信を止めたら、選挙に負ける。……出雲の声だけじゃない。俺たちの言葉を届ける」

その目に、静かな意志が灯っていた。


「お兄ちゃんが残るなら、私も残る」

沙耶が、迷いのない声で言った。


「……ダメだ」

晃が小さく首を振る。


「ダメじゃないよ…。決めるのは、私の意思。あなたのそばにいたいの」

強い意志を持った瞳と言葉に、晃はしばらく──まぶしそうに、彼女を見つめた。


沙織が、やれやれと肩をすくめた。

「──はい、晃くんの負けね」


晃は苦笑だけを返し、沙耶をそっと抱き寄せた。

「……強くなったな」


低く、震えるような声だった。

それ以上、言葉は続かなかった。


「それで、あんた達はどうする?」


沙織の目が、柿沼と仁科に止まる。

柿沼と仁科が目を見合わせ、同時に肩をすくめた。


「…覚悟は決めたといった」

「こいつを1人にすると、また前みたいに後味の悪い思いが続きそうだからな」

その軽口は、言葉以上に重く、決意に満ちていた。


湊が地図を持ち上げる。

「出口、誘導します。装備は軽く。外での拡散と記録のバックアップは、僕らが受け持ちます。ここでの発信は、頼みます」


晃が、立ち去る仲間たちを見送る。


誰も泣かなかった。

誰も振り返らなかった。


けれど、その背中には確かに、託された『言葉』が刻まれていた。


***


午後2時3分。


旧地下鉄整備場跡地――治安部隊側の仮設指令拠点。


壁面モニターには、旧地下鉄整備場跡地を包囲する治安部隊の配置が、断続的な監視映像として映し出されていた。

映像はときおり切れ、ノイズに揺れながらも、外周の通路や遮蔽に身を寄せる兵の動きが映る。


扉が開き、ひとりの男が無言で足を踏み入れた。

出雲だ。


警備兵たちの目が一斉に彼へと向くが、ユエが手を上げて制する。


「いい、通せ」


出雲はそのまま、ユエの前へと進み、静かに立った。


「時間がない。単刀直入にいこう」


ユエは無表情のまま、出雲を見つめている。


「今のお前がここに来るとはな……命が惜しくないのか」


出雲は応えなかった。

その沈黙は、肯定でも否定でもなく、ただ一つの意志を語っていた。


「我々が提出した告発文書、内容を確認したな。世論の空気も、国際報道も変わってきている。今日、このまま彼らを全滅させれば──カナン軍の正当性そのものが問われる」

「……ここは私の管轄だ」

「だが、君は政治将校だ。任務とは別に、『国家の顔』であることも知っているはずだ」


ユエの目がわずかに細められる。

出雲は一歩、踏み込んだ。


「撤退命令を出せとは言わない。

だが、このままではカナン本国が『虐殺国家』と報じられる未来が来る。

国際世論は動き始めている。

かつて、君たちの国が人権侵害で国際社会から糾弾されたとき、何が起きたか

──君は苦い教訓として知っているはずだ」

「……」


ユエは無言を貫いたが、出雲の言葉を慎重に噛みしめているようだった。


「君はかつて、『三号区事件』で命令を遅らせ、無用な被害を防いだ。

それを越権行為として咎められたが──今、状況は違う」

「本国の意向に応じるのは当然だ。

しかし、現場判断で『手段の緩和』を行うことは、

排除命令を実行しながらリスクを最小化するための『合理的判断』として正当化できる」


ユエの眉が動く。

出雲は、わずかに口角を上げた。


「つまり、手段の選択に幅を持たせれば、『排除命令』も『現地情勢』も両立できる。

そして──君は、現場を救った軍事顧問として名を残す」


沈黙。


ユエはゆっくりと視線をモニターに移す。


「……制圧速度を、段階的に下げる。現場の判断ということにする」

「感謝する」

「勘違いするな。これは軍人の判断だ」


出雲は深くうなずくと、すぐに背を向け、制令室をあとにした。


***


15時30分


「──@蒼風、7日ぶりの投稿。」


その一文が、SNSのタイムラインにひっそりと浮かんだ。

最初は誰も気に留めなかった。

映像でもスピーチでもない、それは——詩だった。


淡々としたリズムで綴られた短い詩が、まるで祈るように、一節ずつ投稿されていく。


正しさは ときに刃となり声を呑み込む

だけど 耳をすませば聞こえる埋められたはずの声が火種となって 息をしている


最初の投稿が100RTを超える頃、誰かが呟いた。


「え、これ何……? ずっと増えてる」


次の瞬間、タグ付きの引用が止まらなくなった。


#蒼風の詩 #これは物語じゃない #それでも生きていた声


詩が、次々と投稿されていく。そのいくつかは、灰翼の映像を添えていた。

中継の切り抜き。拷問された被写体の記録。攻撃を受ける灰翼の拠点。


──その異変に、姫野の端末が反応した。


「拡散源、蒼風……?」

「規制ワード未検出ですが、拡散指数が異常です」


室内がざわつく。姫野は即座に命じた。


「削除を。詩でも記録でも構わない。拡散速度が異常すぎる。止めて」


部下たちが一斉に操作を始める。


「……不可能です。サーバー側で削除要求が拒否されています」

「このアカウント、民間端末からのアクセスです」


姫野は眉間に皺を寄せる。


「わかったわ。管理画面に直接入って、止めなさい」


だが次の瞬間、システムが淡々と告げた。


「ログイン不可。管理者権限がバイパスされています」

「……どうして」

「拡散閾値を超えたため、システム保護が作動しています」


姫野は、画面を見つめたまま黙り込んだ。

モニターの中で、詩はなおも増え続けていた。


風は 眠っていた火をさがす

火は 風に焚きつけられる

そして 燃えるのは 欺きの街だ

煙の向こうに 本当の声が見える


言葉が、止まらない。

マウスを握っていた指が止まった。

次の瞬間、システムが自動的にログアウトした。

再ログインは、許可されなかった。


***


午後3時47分。


灰翼アジトの一室。


無機質な照明の下、残留したメンバー、晃、沙耶、沙織、仁科、柿沼が、それぞれ無言で、できることに取り組んでいた。


仁科が通信ログを解析し、沙耶が再編集した動画を投下し、晃が暗号化された地図をにらむ。手元には、それぞれ別々の端末と通信機。動きは静かだが、全員の頭はフル回転している。


壁の向こうではまだ時折、爆発音が響く。

だが、それもさっきより遠い。


画面には、投票速報のインターフェースが映っている。


大きな見出しで「日昇国議会 総選挙・中間開票速報」とある。

上部には、全国平均投票率「52.8%」と、南市単独の投票率「42.3%」が並んで表示されていた。


中央の棒グラフには、主要政党の得票率が並ぶ。


民政革新党・甲斐宗一(現職首相):51.3%(▼)言志会・蓮見瑛士(元官房副長官):45.2%(▲)無所属・その他候補:3.5%


開票率「68%」。

総投票数は過去最低水準。


仁科が、それにちらりと目を走らせて呟いた。

「……だいぶ追い上げてる」


「でも……まだ、届かないわ」

沙織の声は低い。

疲れと苛立ちと、どこか諦めに似た色が滲んでいる。


出雲の告発。蒼風の投稿。SNSのトレンドは塗り替わり、関連ワードが加速度的に拡散されている。


#蒼風の詩 #選挙に行こう #もう声は消させない


それでも、投票率はまだ、半分に届かない。


「攻撃……緩まった?」


ふと、柿沼が顔を上げた。眉をひそめ、外の静けさに耳を澄ます。

誰も答えない。

だが、それは確かに感じられた。

一瞬だけ、張りつめていた空気が緩んだような、そんな気配。


そのとき、扉の向こうから声がした。


「……チン・ユエに制圧速度を下げてもらった。しばらくはもつだろう」


銃を構えかけた柿沼を、晃が手で制した。

そして、扉が開き、出雲が姿を現した。


「出雲……なんで?」

ぽかんと口を開けて、仁科が問う。


「必要だから来た。……それ以上でも以下でもない」

当然というように答える出雲に、仁科が黙りこむ。


「チン・ユエって誰だ?」

晃が問う。


「治安部隊の軍事顧問で、カナンの将校。君たちも一度会っているはずだ」

「ああ…」


数秒の沈黙の後、晃が小さく呟く。

過去の記憶が脳裏をよぎった。

南第七矯正センターで点検口から彼らを導いた、カナンの制服を着た女性。

やはり、『問いかけることをやめていない人間』というのは出雲だったのだ。


「それで、必要っていうのは?」

「見ての通りだ。あらゆる手段は講じている。だがまだ足りない」


出雲が、モニターの速報値を指さした。

晃が目を伏せる。


「それは……わかってる。でも、これ以上は……」

「まだ、手は残っている」


全員の視線が出雲に向く。

それには、希望といくばくかの疑いがあった。

出雲が、晃と沙耶に向く。

まっすぐに、射抜くような真っ直ぐさで。


「君たちだ。君たち兄妹が、もう一度呼びかけるべきだ」


沙耶が小さく息を呑む。

心臓の鼓動が一瞬だけ強く跳ね、喉の奥がきゅっと締まる。


「……だけど……」


その声は震えていた。それでも、逃げた声ではなかった。

出雲は一歩、彼らに近づいて言った。


「君たちの声はきっと届く。間違いない」


確信に満ちた出雲の声に、少し驚いた顔をしていた晃が、頷く。

そして、勇気を出してというように、そっと沙耶の肩を抱いた。


沙耶が無言でうなずく。

その眼差しは、もう迷ってはいなかった。


「――僕にも届いたのだから」


その声は先ほどよりも小さく、気付いたものはほとんどいなかった。


***


午後4時23分。


中継が始まった。

照明の角度を調整し、端末のマイクにノイズフィルターをかける。

仁科が黙々とセッティングを進める中、沙耶が端末の前に立った。

足元が少し震える。

けれど、視線は外さない。


「……灰翼の山﨑沙耶です。私はいま、灰翼のアジトにいます。……ここは、ほんの少し前まで、治安部隊の攻撃を受けていました」


その一言で、空気が変わった。

画面の向こうにいる無数の『誰か』が、息を止めて聞き耳を立てる気配がした気がした。


「私はただの女子高生でした。普通の学校に通って、普通に暮らしていた。

……でも、ある日、気づいたんです。

普通だと思っていたものが、『檻』だったことに」


「授業で歌わされたカナン語の歌。文化交流という名の矯正。

……教室で、何も言えなかった。

笑うしかなかった。……怖かったからです」


「矯正施設では、髪を切られ、服を奪われ、薬を打たれ……それに」

沙耶の声が震える。


「…それに、もっとひどいこともされていた。誰かが泣いていた。誰かが消えていった。

名前すら呼ばれないまま、誰かが『次の段階』に送られていった。

それが、どういう意味か……私たちは、知っていた」


沙耶が目を落とす。

けれど、それでも言葉は止まらない。


「救い出してくれたのは、兄と灰翼でした。

兄は……知らない人にひどいことを言われたり、殴られたりした。

それでも私を守ってくれた。そして、銃で撃たれて……意識が戻らない時は──」


沙耶は、少しだけ声を震わせながら、続けた。


「……ずっと、こわかった。

兄がもう、目を覚まさなかったらって。

毎日、名前を呼んで……お願いだから、って……」


小さく息を吸い、

沙耶は、それでもまっすぐ顔を上げた。


「それから、灰翼の人たちも……私たちを救うために、戦ってくれました。

……亡くなった人も、います。」


沙耶は、拳をぎゅっと握りしめた。


「だから、私は──自分の意志で、ここに来ました。

 今、こうして……ちゃんと、話しています。」


「前は……できなかったけど。

でも、今なら、できます。」


一瞬だけ、沙耶はカメラから視線を外し、晃の顔を見た。

晃が、頷いた。


「だから、お願いです。あなたの目で見て、耳で聞いて、考えてください。

誰かの言葉じゃなくて、自分の言葉で……どうか、判断してください」


それきり、沙耶は深く一礼し、カメラの前から身を引いた。


続いて、晃が立った。


「山﨑晃です。俺は……この街で、南市で、普通に働いて、生きてきた。

行政系ベンチャーで、言われるままにモデル統制都市に協力して──

政治のことなんて、どうでもよかった。

誰がやっても同じだって、思ってた。」


晃は、小さく息を吐く。


「でも、無関心でいたら、大変なことになってた。

言葉が消され、仕事を失い、目の前で妹が連れていかれて……。

そして、矯正施設で、沙耶のような子を何人も見た。

きっと『次の段階』に送られた子もいる。助けられなかった子たちも……」


晃が、少しの間、目を伏せた。

握りしめた手が、小さく震えた。


「……俺は、かつて東都で、公開討論の場に立ったことがある。

その場で、矯正施設の実態を伝えようとした。

SNSでは炎上して、街では知らない誰かに殴られた。

怖かった。悔しかった。

何よりも……沙耶を侮辱されたことが辛かった。」


「――今回も、同じことになるかもしれない。

それでも……伝えなければならないことがある。」


晃の声が、静かに、しかし確かに、

モニターの向こう側へと広がっていく。


「全員には届かないかもしれない。

それでも、伝えようとしたら、伝わる人がいる。」


言いながら、晃は自分を見守る視線に目をやる。

みんなが、頷いていた。

出雲すらも、神妙な顔で小さく頷くようなそぶりを見せた。


「そして、例え、自分が倒れても、彼らが希望をつなぐ。

それを、俺は知っている」


晃の声は、力強かった。


「選挙は、全部を変える力じゃない。

けれど、選挙には、暴力も、奪われた声も、止める力がある」


最後に、晃はカメラの向こう、その先にいる『誰か』を見据えた。

その背後では、遠くで爆音が重なり、瓦礫の落ちる音がした。

けれど、彼の瞳は微動すらしなかった。


「あなた達一人一人が、それを持っている。

どうか、考えてください」


画面の中で、二人の言葉が終わった瞬間。


SNSには、再び新たなタグが浮上し始めていた。


#山﨑兄妹の声を聞いて

#もう逃げない

#選挙に行く


それは、確かに誰かに届いていた。


***


午後5時。


選挙戦は佳境を迎えていた。民政革新党が有利と見られる中、しかし澱んだ不信感も国中に渦巻いていた。


生放送されているのは、民政革新党と言志会による公開討論会──「国民対話フォーラム」。


注目度は、かつてないほど高い。


会場には、150人ほどの市民代表や報道関係者たちが座り、硬い沈黙が流れていた。


午後五時の直前、最新の速報が伝えられた。

民政革新党(甲斐宗一)が46.5%、言志会(蓮見瑛士)が44.7%、無所属・その他が8.8%。


差は、わずか約1.8ポイント。

──事実上、両陣営が横一線に並ぶ、超接戦だった。


甲斐宗一──カナンの影を背負う総理。

蓮見瑛士──国を救わんと立ち上がった若き国士。


この論戦の行方が、そのまま日昇国の未来といえた。


甲斐は、内閣官房副長官補 兼 民政革新党広報官の姫野京子を通じて、裏から世論操作を試みた。姫野京子──元テレビ局の人気キャスターであり、政権の『顔』として民意を操るプロフェッショナル。


彼女の手腕で空気を誘導し、世論を完全に支配する──それが、甲斐と姫野の描いた勝利の筋書きだった。だが、それだけでは足りなかった。


姫野は、この討論で、すべてを決めるつもりだった。


「公開討論」という劇場を設計し、国民の前で「勝利の姿」を見せつけ、支持を決定的に引き離す──それが、彼女の仕掛けた最後の賭けだった。


冒頭、スタッフに静かに告げていた。


「──私が指示したら、カメラを止めなさい」


負けるようなら、すぐにカメラを切り、被害を最小限に抑える。生か死かを賭けた、最後の舞台。


用意された議題に従い、経済政策、環境・エネルギー政策について意見が交わされた。互いに譲らず、しかし表面的には冷静に進む討論──


だが、安全保障の議題に入った瞬間、空気が変わった。

蓮見が、静かに、だが明らかに攻勢に出た。


「ところで、甲斐現総理──」


静かに、だが鋭く。


「現在、モデル統制地区とされている南市において、

 文化政策の名のもとに、言論を封殺し、

 さらに、矯正施設では臓器移植を行い、

 そして──証拠隠滅のために、三千人を殺そうとした疑いがある」


会場の緊張が高まる。何人かが小さく息を呑み、支持率のグラフがわずかに揺れる。


甲斐の顔が動いた。


「何の証拠がある」


甲斐が問う。


蓮見は答えず──ただ、モニターにApple Watchのデータを投影した。そこには確かに、「三千人の消息処理」を指示するログが残されていた。


そのApple watchは、出雲隼人が制限速度を振り切って南市から東都へと持ち込んだものだった。


観客席で、小さく押し殺したようなどよめきが広がった。


***


姫野はすぐにインカムに指示を飛ばした。


「……カメラ、止めなさい」


だが、カメラは止まらなかった。

レンズの向こうで、カメラマンが一瞬だけ迷い──

それでも、RECランプは灯り続けていた。


誰も知らないところで、国の未来をつなごうとした者たちがいた。

たった一人のカメラマンも。

たった一人の若者も。


生中継。

今この瞬間、国民全員が見ている。


姫野は顔色を変えた。

だが、その動揺を悟らせまいと必死に表情を取り繕った。


***


蓮見も止まらない。


「さらにあなたは──」

「矯正施設から子どもたちを救おうと立ち上がった者たちを、武力で押し潰そうとした。」


蓮見はまっすぐ甲斐を見据えた。


「──灰翼と呼ばれる、ただ必死に声を上げた市民たちを。」


ざわ……と、小さな波が走る。記者たちが顔を上げ、市民代表たちがざわめきを飲み込む。


甲斐は、少し声を荒げた。


「テロリストだ。」


その言葉を受けて、蓮見はわずかにモニターを操作した。


スクリーンに映し出されたのは──


討論会。

晃がまっすぐにマイクを握り、矯正施設の実態を訴える。

その声は、傷だらけでも、決して折れていなかった。


公開フォーラム。

包帯姿で立つ晃が、誤魔化しのない言葉で真実を告げた。

彼のまなざしは、痛みを超えて、確かに未来を見据えていた。


白の裂界。

灰翼の仲間たちが命がけで記録した映像──

処置室の少女、監視カメラに映る矯正施設の惨状。


灰翼アジト襲撃。

爆音と煙の中、灰武たちが時間を稼ぐ。

負傷しながらも、晃と沙耶は発信を続けていた。


そして──


灰翼アジトからの中継。

山﨑沙耶が、震えながらも、世界に向かって語る。

「どうか、自分の目で見て、耳で聞いて、考えてください」


山﨑晃。

痛みを押し殺しながら、未来へ言葉を託す。

「選挙には、奪われた声を止める力がある。あなた達一人一人が、それを持っている」


映像が、すべてを繋いでいく。

灰翼の言葉が、国中に──世界に──届いていく。


一連の映像は、言葉以上に、

この国で何が起きていたかを雄弁に物語っていた

モニターの光だけが、暗い空気を静かに照らしていた。


蓮見の声が、静かに落ちた。


「──これが、あなたの言うテロリストですか?」


ざわ……と小さな波が会場を駆け抜ける。

誰かが席を動かす。誰かが目を伏せる。誰かが拳を握り締める。


討論会が進む中、最新の支持率グラフが更新された。


言志会(蓮見瑛士)が51%、民政革新党(甲斐宗一)が47%。


壇上ではなお言葉が交わされていたが、姫野京子は、もはやそれを聞いていなかった。

手元のタブレットに映る支持率グラフが、今まさに


──ついに、逆転が起きた。


指先が震えた。どうにか取り繕おうとするが、体が動かない。

初めて、心の奥底で認めた瞬間、姫野は椅子に沈み込むように、静かに座り込んだ。

肩を震わせ、手元の資料をぐしゃりと握り潰す。それでも、誰にも崩れ落ちた姿を見せまいと、必死だった。


──それは、ただの一戦の敗北ではなかった。


政権の顔であること。言葉で空気を支配する者であること。

それを失った瞬間、姫野は理解していた。


政権の傘の下にいた者たちは、失脚すれば、ただでは済まない。


──臓器移植。

──消息処理。


密かに制度化された「粛清」。


生かされず、殺されず、ただ、部品として利用される未来。


名前も、声も、痕跡も残らない。


姫野は、静かに目を閉じた。

誰にも、見せられない顔だった。


***


午後7時45分。


街は、夜の色に沈みかけていた。

居酒屋の暖簾をくぐった男が、ポケットからスマホを取り出す。

画面には、速報の見出しと並んで、灰翼の中継動画が流れていた。


最初は、ただ流し見するつもりだった。

──だが、ふと画面に映った顔に、足が止まった。


感情を必死に押し殺して、マイクを握る若者。

顔にはもう包帯はない。

けれど、唇の端にはかすかな青アザが残っていた。

あの日、己の拳で刻んだ、あの痕だった。


男は、無意識にスマホを握りしめた。


あのとき、姫野京子の差し出した「謝礼」を受け取った。

「うるさい若者にお灸を据えろ」

理由なんて、深く考えなかった。

ただ、与えられた金と、与えられた敵意に、流された。


──だが。


画面の中で、晃はなおも語っていた。

静かに、だが確かに、誰かの心に届こうとする声で。


「選挙には、奪われた声を止める力がある。

あなた達一人一人が、それを持っている」


心臓が、ずしりと重くなる。

後悔でも、罪悪感でもない。

もっと、深い場所に沈んでいた何かが──疼き始めた。


男は、荒く息を吐いた。


「……まだ、間に合うか」


スマホをポケットに押し込み、走り出す。

夜風を切って、振り返らずに。


***


投票所前。


「締め切り5分前でーす!お急ぎくださーい!」


係員の声が飛ぶ。


男は、全力で最後の角を曲がった。

足元がもつれそうになるのも構わず、駆けた。


過去をすべて取り返すことはできない。

それでも、ほんの一歩だけでも。


小さな紙片が、静かに箱へと沈んでいく。

それは、ささやかな祈りだった。


胸の中で、何かが小さく弾けた気がした。

それは、かつて自分が踏みにじった「声」への、小さな痛みを伴う償いだった。


***


午後7時45分。


開票速報のテロップが、各局の画面を埋め尽くし始めた。


──出口調査・言志会優勢。

──逆転の兆し、民政革新党に動揺。

──南市暴露動画、SNSで急拡散。


スタジオの空気が、目に見えてざわつく。


キャスターが手元の原稿をめくりながら、小声で隣のアナウンサーと何かを確認し合う。

イヤモニに飛び込んでくる速報に、解説員が思わず顔をしかめる。


「速報です──ただいま入りました情報によりますと、

出口調査で言志会がリードに転じた模様です!」


キャスターの声が、かすかに震えた。


スタジオ内のスタッフたちも、交錯する視線を交わす。

緊迫した空気の中、ニュースモニターには、次々と別の速報が割り込んできた。


──南市矯正施設暴露、国際メディアも報道開始

──国連人権高等弁務官事務所、緊急コメント発表へ

──主要各国、民政革新党への懸念表明か


「えっ……」


キャスターの表情が、一瞬だけ凍りつく。

原稿には、まだ記されていない『現実』が、SNSの海から押し寄せていた。


──#灰翼の声を聞け

──#山崎兄妹

──#南市矯正施設の真実

──#日昇国の未来を取り戻せ


関連ワードが、次々と世界トレンド入りしていく。


南市暴露動画の再生数は、数時間で数百万を突破。

再生グラフは火山の噴火のように跳ね上がり、止まる気配はなかった。


スマホを手にした市民たちが、選挙管理委員会へ向かう姿が各地で目撃され始める。

終了直前に投票所に押し寄せる人で行列ができていた。


SNSのタイムラインには、次々と投稿があふれていく。


──「こんなの見たら、行くしかない」

──「未来を奪われたくない」

──「黙ってたら、消されるだけだ」


スタジオモニターに映る地図上では、言志会の色が各地に広がっていく。

誰かが、はっと息を呑む音が、マイクに拾われた。


「……これは、潮目が変わりましたね」

解説員の声も、抑えきれない興奮をにじませていた。


もはや、誰にも止められない。


夜の街を、言葉が、怒りが、祈りが──静かに、だが確実に、走り出していた。


***


午後7時45分。


言志会・選挙対策本部。


ざわ……ざわ……

事務所全体が、目に見えて熱を帯び始めた。


選挙速報を映すモニターには、言志会の得票数がじわじわと伸びていく。

重苦しかった空気が、微かな光に満ち始める。


「逆転した……」

誰かが、震えるような声で呟いた。


「本当に……!?」


後方に詰めかけた支援者たちも、モニターに食い入る。

指先が、拳が、震えている。


そんな中、蓮見瑛士は、ただ静かにモニターを見つめていた。

周囲の歓声にも、ざわめきにも動じず──

ただ、淡々と、勝利の瞬間を見据えていた。


その隣に立つ男も、また同じだった。

出雲隼人。

表情一つ動かさず、ただ静かに、国の行方を見据えていた。


選挙参謀が駆け寄り、声を潜める。


「……速報です。出口調査、逆転確定。全国区でも、急速に追い上げています!」


蓮見は、わずかに目を伏せた。

そして、静かに拳を握った。


(──届いた)


胸の奥で、静かな確信が灯る。


晃たちが繋いだ映像。

沙耶が震えながら訴えた言葉。

灰翼が命を賭して守った希望。


そのすべてが、国の空気を変えた。


──まだだ。


油断はしない。

勝利は確定していない。

だが──


「……ここから、世界を変えるんだ」


蓮見は小さく呟いた。


彼の横顔は、どこまでも静かで、どこまでも強かった。


後方のモニターでは、SNSのトレンド一覧が次々と切り替わっていく。


──#未来を取り戻せ

──#言葉で戦え

──#諦めない


ざわめきの中、蓮見はまっすぐに前を見据えていた。

まだ誰も知らない、未来の景色を──


***


午後7時45分。


南市保健安全センター──

通称「白の裂界」。

かつて絶対の支配を誇ったこの施設も、今は地下深く、奇妙な沈黙に包まれていた。


矯正棟・通常拘束エリアにある拘束室の片隅で、二人の男が座っている。

かすかに腫れた頬、服の裾には泥と血の跡。

何日もろくな食事も与えられず、それでも、彼らは折れていなかった。


シゲルが、薄暗い天井を見上げながら、ぽつりと呟いた。


「……俺の推しキャラたち、元気にしてっかなぁ……姐さんとか、沙耶ちゃんとか……」

「……推しキャラ?」


石田が、疲れた顔をしかめる。

それでもシゲルは、にやにやと笑った。


「ああ。姐さんは激レア副隊長枠、沙耶ちゃんは正統派ヒロイン枠。……イシダ、知らねえの?あの子たち、命がけで物語を作ってんだぜ?」

「……こんなときに、そんな例えしますか」


石田は呆れたように言ったが、その頬には、かすかに笑みが浮かんでいた。


そんなとき──


部屋の外、警備員たちのどよめきが聞こえた。


「おい、お前、速報見たか!?」

「言志会、逆転してるぞ」

「討論会の映像が拡散されてる……灰翼の、あの映像だ!」

「…おい、俺たち大丈夫か?」


ざわめきが、まるで別の空気の流れを作った。

支配者の側にいた者たちの焦りと恐れが、かすかに壁越しに伝わってくる。


石田が顔を上げた。

シゲルも、口角を上げる。


「──俺らの推し、バッチリ世界救ってんじゃねぇか」

「……俺たち、世界をちょっと動かしましたね」


二人は、肩を並べたまま、黙って笑った。

地下のこの暗い空間にも、確かに、外の光が届き始めていた。


***


午後7時45分。


地下鉄の非常口を抜け、外に出た灰翼の脱出組、中原、相馬、湊らは、治安部隊の動きを警戒しながら灰翼の別拠点で発信を続けていた。そんな中、テレビのニュース速報が流れた。


──「灰翼の訴えに、国民の声が動き始めた」

──「#山﨑兄妹の声を聞いて」「#もう逃げない」「#選挙に行く」


次々と流れるSNSのハッシュタグ。


相馬が、ぼんやりと画面を見上げた。


「……届けたんだ……」


その言葉に、自然と皆の胸が熱くなる。

ここからだ。これからもっと、声を広げていくんだ──


誰もがそう思った瞬間だった。


──速報:言志会支持率、逆転。

──蓮見瑛士51%、甲斐宗一47%。


画面のテロップが、鮮やかに光った。

一拍の静寂。そして、


「うおおおおおおおおお!!!!」


誰ともなく叫び声をあげる。

湊が拳を突き上げ、若手たちが飛び跳ねる。


「やった……! 本当に……!」

「俺たち、生き延びたんだな……!」


喜びの渦の中で、誰かが叫んだ。


「──行こう!選挙に!」


相馬が、顔を上げた。


「そうだ。俺たちも、最後までやり切ろう!」


日が傾き、選挙の締め切りまであとわずか。

汗と埃にまみれたまま、彼らは駆け出していく。

握りしめたスマホに、まだ温かい希望を灯して──。


***


午後7時45分


灰翼地下拠点の空気が、かすかに震えた。


非常灯の下、簡素なモニターに速報テロップが走る。


――言志会支持率、逆転。


誰も声を上げなかった。ただ、胸の奥で、何かが爆ぜた。


柿沼が、そっと拳を握り締める。

沙織も、沙耶も、目に涙を滲ませながら必死に堪えていた。


そして、その背後では──


灰武の面々が、静かに立っていた。

傷だらけの腕。泥にまみれた制服。裂けた防弾ベスト。

それでも彼らは、何も言わなかった。 誇り高く、胸を張り、仲間たちの勝利を見届けていた。


日比谷誠司が、血の滲む額をぬぐいながら、そっと帽子を外した。


「……よく、繋いだな」


誰に言うでもなく、しかし確かに、仲間たちに向けて。

その中心で、晃は──ふらりと、一歩、よろけた。


沙耶が驚いて駆け寄る。


「兄さんっ……!」


晃は、かすかに笑った。


「……よかった……」


その一言だけを残して、力を抜くように、沙耶の胸元に倒れかかった。

あまりにも、静かな倒れ方だった。

沙耶が、必死に呼びかける。


「お兄ちゃん……お兄ちゃん……っ!」


沙織がすぐに駆け寄り、脈を取る。


「大丈夫。……意識を落としただけ。全部、背負ってきたんだもんね」


その言葉に、残った皆が、そっと微笑んだ。

灰武たちも、無言でそれを見守っていた。

まだ外では銃声が鳴っている。 それでも──


彼らの胸には、確かなものが灯っていた。


「……ここからだ」


誰かが、そう呟いた。


***


午後9時05分。


灰翼の地下拠点に、速報のアナウンスが響く。

言志会、逆転勝利。支持率は、たしかに覆った。


それでも、地上ではまだ散発的な銃声が続いている。

制圧は止まりつつあるが、完全には終わっていない。


壁に寄りかかりながら、晃は息を吐いた。


──勝った。だが、まだ何も解決していない。


言志会が政権を取ったとはいえ、本国カナンの意向が残る。

新政府は、すぐには動けないだろう。

この銃声も、宙ぶらりんの現実も、すぐには消えない。


耳に残る銃声に、誰かがぼそりとつぶやく。


「……まだ終わんねぇな」


仁科のぼやきに、沙織が答える。


「終われないのかしらね」


晃は顔を上げた。

まだ、やるべきことがある。そう思った。


「……会いに行く。チン・ユエに──」

立ち上がろうとした晃に、沙耶がゆっくりと首を振る。


「もう、一人で行かせない」


強く、はっきりと。

晃が、目を見開く。


沙織が肩をすくめる。


「ったく、当たり前でしょ。……こっちも、最後まで付き合うわよ」


柿沼が、無言で頷く。

灰武の負傷兵たちも、それぞれ武器を手に取った。


「……いい加減にしろよ、バカ。

お前が1人で張り切ると、こっちまで命がいくつあっても足りねぇんだよ」

仁科が、少し笑いながら晃の頭を小突いた。


「……」


晃は、仲間たちを見渡す。

震えるほど、胸の奥が熱くなる。


(──そうだ)


もう、ひとりじゃない。

小さく、でも確かに微笑んだ。


「……ああ。行こう。みんなで」


瓦礫を踏みしめ、仲間たちが立ち上がる。


行き先は、旧地下鉄整備場跡地――治安部隊側の仮設指令拠点。

未来を取り戻すために──。


***


午後9時23分。


選挙の結果が確定し、言志会の勝利が正式に報じられた直後だった。

各地で散発的に残っていた治安部隊も、撤収の準備に入っている。

それでも、警戒態勢は解かれていない。


晃たち灰翼──沙耶、沙織、仁科、柿沼、日比谷、そして灰武の仲間たちは、

負傷した身体を引きずりながら、仮設拠点跡に現れたチン・ユエのもとへ向かう。


制服の上に薄いマントを羽織り、冷ややかに彼らを迎えるチン・ユエ。

その表情は、戦場の将のように微動だにしない。


晃が一歩、前に出た。

その傷だらけの顔には、それでもまっすぐな光が宿っていた。


「──制圧を緩めてくれて、ありがとう」


チン・ユエは、何も答えなかった。

ただ、わずかに顎を引き、目だけで続きを促す。


「……撤退命令は、まだ出てないんだろ?」


その言葉に、ほんの一瞬だけ、チン・ユエの瞼が動いた。

否定も肯定もせず、ただ沈黙する。


晃は一息、深く吸い込んだ。


「選挙の結果は決まった。民政革新党は負けた。このまま戦闘を続けても。

……現場指揮官のあなたが、全部責任を押し付けられるだけだ。」


静かだった。

けれど、その言葉には、鋭い現実が込められていた。


チン・ユエの眼差しが、微かに鋭さを増す。


晃は、真正面から向き合ったまま、言った。


「だから──お願いだ。引いてくれ。」


周囲に、浅いざわめきが広がった。

一国の軍事顧問に対して、命乞いでもなく、交渉でもなく。

ただ、頼み込む──それは、晃らしかった。


沈黙。


やがて、チン・ユエが静かに口を開いた。


「……撤退する理由が必要だ」


「ある」

晃は即答した。


「俺たち灰翼は、撤退する部隊には攻撃しない。

いや──撤退してくれたことを、むしろ感謝する」


晃の声が、空気を震わせる。

沙耶も、沙織も、仁科も、柿沼も、日比谷も、それに続くように頷いた。


「SNSでも、映像でも、伝える。あんたたちが『引く勇気』を示したって。

そうすれば…本国の名が汚れることもなく、あんたが責められることもない」


チン・ユエは、ほんのわずかに口元を動かした。

それは、笑みとは呼べない。

けれど、硬く冷たかった仮面が、

一瞬だけ──微かに、ひび割れた。


「……悪くない取引だ」


短く、低く、そう答えた。


その声の奥に、確かにあった。

命令に従うしかなかった軍人の、

ほんの一滴の、救いが。


チン・ユエは振り返り、手早く部下たちに指示を飛ばす。

撤退命令。

静かに、迅速に。

誰一人取り残すことなく。


晃たちは、黙ってそれを見送った。

言葉ではない。

それでも、たしかに交わされたものが、そこにはあった。


風が吹き抜ける。

誰もいない廊下の先へ。

やがて、それぞれの道を歩き出すために。


──ありがとう。

そう、誰も口には出さなかったけれど。


その場にいた全員が、確かに受け取っていた。


***


午後9時40分。


旧地下鉄整備場跡地――治安部隊側の仮設指令拠点。


チン・ユエは、冷ややかな瞳で状況を見渡していた。

モニターには、すでに撤退準備を整えた部隊の映像が並んでいる。


彼女は一つ、深く息を吐き、軍用端末に指示を打ち込んだ。


「……日昇国・南市占領部隊。全隊に通達──即時、撤退を開始する」


副官たちが緊張した面持ちで動き出す。

施設内を包んでいた重苦しい空気が、わずかに揺れた。


それでも、チン・ユエの顔には一片の感情も浮かばない。


指を止めることなく、さらに一言だけ付け加えた。


「……それから。『白の裂界』から拘束した者たちが数名、残っているはずだ。保護の名目で、すぐに解放してやれ。家族のもとへ返すとでも──言っておけ」


副官が驚いたように一瞬だけ目を見開き、だがすぐに敬礼して駆け出していった。


チン・ユエは端末を閉じると、誰にも聞こえない声で、ぽつりと呟いた。


「……これ以上、汚れるな。日昇国も、カナンも」


そして、静かに背を向けた。


夜の帳が、音もなく、世界を覆い始めていた。


***


午後10時07分。


南市中央──市庁舎前広場。


大型ビジョンには、「南市占領部隊、全面撤退開始」の速報が繰り返し流れていた。

人々は信じられないような表情で立ち尽くし、やがて歓声が広がっていく。


「やった……!」「勝ったんだ……!」


泣き出す者、笑う者、抱き合う者。

誰もが、長い悪夢から解き放たれたかのように、夜の街に小さな光を灯していた。


晃たちも、広場の隅からその光景を見守っていた。

沙耶が、そっと晃の袖を引く。


「……本当に、終わったんだね」

「ああ」


晃は、静かに答えた。

その顔には、まだ痛みの痕跡が残るものの、どこか晴れやかな光が宿っていた。


沙織、仁科、柿沼、灰武の仲間たち──

皆、疲れきった体を支え合いながら、それでも立っていた。


(……よく、ここまで来た)


晃は、胸の奥で呟く。

そのときだった。


「──あっ!」


沙耶が指さす先。

人混みをかき分けて、二つの影が駆け寄ってくる。


「シゲル……!石田!」


泥と埃にまみれた顔。

破れた服。

それでも、あの懐かしい笑顔で──シゲルが、両手を広げて叫んだ。


「うおおお、姐さんーーッ!! 生きてた!!」


沙織が目を丸くして、それから笑う。


「……ほんとに、無事だったの?」

「そりゃもう、オタ魂で生き延びましたとも!世界に届けた推しの記録、永久保存版ッ!」


石田も苦笑しながら、晃に近づき、小さく敬礼した。


「……戻りました」

「……ああ。おかえり」


晃がそう答えると、皆が小さく笑った。


夜空の下、南市の空気は、少しずつ変わり始めていた。

風が吹き、街路樹を揺らす。

騒ぎも、怒声も、少しずつ祝福のざわめきに変わっていく。


遠く、南市庁舎の屋上に翻る旗が、月明かりに照らされて揺れていた。


新しい夜。

新しい国。

ここからまた、始まる。


晃は、深く息を吸い込んだ。


そして、微笑んだ。


***


選挙から三日後。


南市の某高級ホテル──

その最上階のスイートルームで、甲斐宗一は、ひとり静かにワインを傾けていた。


テレビでは、新政府の成立と、統制政策の縮小が報じられている。


甲斐は、誰にも何も告げずに、手元のタブレットに目を落とした。

そこには、カナン本国からの指令──

「役目は終わった」

「清算を要求する」

無機質な文字が、淡々と並んでいた。


逃げ道はなかった。

全てを失った者に、自由など残されていなかった。


甲斐は、窓辺に歩み寄る。

夜の闇が、遠くまで広がっている。


誰も知らない場所へ。

何も残さない方法で。

この国に、何も、痕跡を残さずに──


静かに、彼は手すりを乗り越えた。


風が吹く。

それは、かつて自ら選んだ運命の、冷たい手だった。


一陣の風とともに、甲斐宗一の影は夜に溶けた。


テレビでは、まだ祝賀ムードのニュースが流れ続けていた。


誰も気づかないまま、

ひとつの時代が、静かに終わった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ