抱腹九死 6
一体何の用だろうか。先程とは違って、ノックもなしに入って来たことに、少しの違和感を覚えながら、振り返――
――目線の少し下を、銀色の線が走った。
それに付随し、遅れてやって来た、腹部の痛み。何事かと思い、手を当てる。
「……血……っ!?」
それは紛れもなく、血液。特有の鉄臭さ、重い色が、暗い闇の中でいやに強調される。
手についた血液が俺のものであることに気付いたのは、その直後、喀血がきっかけだった。
「がっ、ぷっ」
食道を逆流した血液が、出口を求めて俺の口から噴き出す。出口なら、すぐ傍に、俺の腹にあるというのに。
腹部を襲う激痛と熱さから、俺は前のめりになって崩れ落ちる。そこにはちょうど、レイのものであると思われる足があった。ここに来て、俺は漸く、この傷がレイによって与えられたものだと気付く。
しかし不思議なものだ。重傷を負っている自覚はある。なのに、それをどこかで客観的に見ている。これは、俺が今の今まで、裂傷を負ったことがないという経験のせいだろう。確かに痛い。ああ、それも気が遠のく程。視界もぼやけている。呼吸も湧き上がる血液のせいでままならない。激痛のせいで体を上手く動かせない。なのに、だのに。
「まだ、生きていらっしゃるのですか。いえ、意識があるのですか。一般人と聞き及んでいた割には、思いの外にしぶといですね」
「……あ、ごふっ」
何故、とは思わない。思い当たる節はある。何せ、主の目の前ですら、客人に殺意を向ける二人だ。こうして、夜に襲われるのは、ある種当然と言える。今思い返すと、あの場で即座に首を刎ねられなかったことが不思議とまで思える。
俺は、死ぬのだろうか。ここで、まだ、まとも旅も、できていないのに。こんな、ところで。
怠慢だ。自分の弱点を知っていながら、それに対して何の策も講じなかった、怠惰な俺への、罰だ。
だから、仕方ない。防具すら装備していなかった、金を惜しんだ。だから、仕方ない。
「ですが、幸いでした。薬への抵抗があるのが、貴男だけで。クリア様はともかく、他の皆様と正面から戦って、勝つ自信はありませんでしたから」
「……な、にを……」
「夕食に、少し、薬をもらせていただきました。眠くなる、薬を」
なるほど、道理でソピアが眠るわけだ。俺が起きていたのは、きっと、毒物に耐性があるように、薬物にも耐性があるのだろう。毒は薬に、また逆も然り。今回のこれは、薬が毒に転じた、顕著な例だ。
それを俺が、回らない頭で理解すると同時、レイは足先の向きを変えた。
「どこへ……っ!」
「どこへも行きません。貴男は放って置いても、そのうち失血死するでしょうし、先にソピア様を仕留めておくだけです。彼女の方が、面倒ですから」
俺の中で、何かが、とても、ざわついた。
血液滲む歯を食いしばり、激痛走る体に鞭を打つ。腸が散ろうと、という思いが、俺の中に生まれた。
今は、腹よりも頭が熱い。腹よりも胸が熱い。
「っ……あ、ああっ……ぐうぅ……っ!」
地を這う。みっともなく。無様に。滑稽に。
溢れる血など気にするな。走る痛みなぞ幻痛だ。霞む視界は、眠気で涙が湧いているだけだ。俺はいつも通りだ。いつも通り、弱くて、不完全で、それでも、自信を持って。
「何をしようとしているのかは分かりませんが……見苦しい」
「っ! があっ!」
右の足に、足首に、熱が生まれる。まだだ。それでもまだ、俺の胸には炎が灯っている。大丈夫だ。この熱がある限り、俺は生きている。なら、最期に、やりたいことを、やるべきことを。
這って、這いつくばって、辿り着いたのは、何も知らず、規則正しい寝息を立てているソピアが眠る、ベッドの縁。必死に、残る力を腕に込めて、ベッドに体を乗せる。
何も遺せるものはないけれど、せめて最期は。
「見上げた気概です。満身創痍の身で、未だ彼女を守ろうとするとは」
ソピアを庇うようにして抱き締める。あの日からずっと着けているマフラーに、赤い染みがつく。それでも、ぎゅっと、自分が生きていることを確かめるために、ソピアを守るために、抱き抱える。
「……ごめんな、ソピア……」
結局、俺から、ソピアに「好き」とは言ったことがなかった。
ソピアのことは好きだった。でも、それが、恋愛感情なのかが、分からなくて、ずっと、言えなかった。
ソピアは、俺のことを好きだと言ってくれていたのに、俺は、何も言えなかった。
愛する女一人も守れず、挙句、好意すら伝えず死んでいくこの身が恨めしい。
熱が引いていく。胸の熱も、頭の熱も、腹も、足も。体が冷えていく。熱を求めて、一層強く、抱き締める。
「……いいでしょう。一思いに、殺して差し上げましょう」
俺の腹を捌いたナイフが、俺の足首を貫いたナイフが、銀色が迫る。視界には、俺の血でところどころ赤くなった、ソピアの顔しか見えないが、感覚的にそう思った。
力が、抜けていく。手から、腕から。力が、抜けていく。意識すら、もう、
「――ライブッ! ソピアさん!」
途切れる――……、。
◆
目が覚めたわけではない。
空虚、虚空。そう形容すべき空間に、何の変哲もない、とってつけたような扉がぽつんと。
踏むべき地は在らず。しかし、俺はその扉に引きつけられるようにして、一歩、また一歩と歩みを進める。
扉は視覚で感じた距離より近かったようで、数歩歩けば、もうノブに手が届く距離だった。それに手をかけ、扉を――
「駄目だぜ。君にそこは、まだ早い」
声がかけられる。男か女かの区別がつかない、諭すような声。誰が止めたのか。振り返る。
「初めまして、だな。ライブ・ラウンド君」
そいつは、いまいち形を掴めない。確かに人の形はしている。けれど、靄がかかったように、それそのものが影であるかのように、真が見えてこない。少なくとも、きっと、人間ではない。そう、俺は直感で察した。
「うんうん。僕の姿は見えてねえな。安心だ、安泰だ、ああ、良かった。彼が期待した君が、こんなところで終わってもらっちゃあ困るんだよ」
彼、とは誰だろう。とは思わなかった。こいつが言う、「彼」に、どこか懐かしさを感じたからだ。その「彼」は、俺に近しい誰かだろうと。
「さあ、早く戻れ。彼が愛した彼女を、あまり待たせないでやってくれ」
また、意識が薄れる。急速に睡魔が俺の意識を蝕んでいく。俺がまだ、意識を手放さないでいられるうちに、ひとつだけ、聞いておきたいことがあった。
「お前は、何だ」
そう言うと、影は俺に背を向けた。まともに姿が見えていないのに、前後が分かるとはおかしな話だ。
影は、そのまま歩き出す。
「僕は、与え、導き、示す者。君たちで言うところの、神、というヤツだ。……もう、死にかけるんじゃあないぜ?」
そして、俺は、目を、覚ます。




