雪解け待ちの春呼び魚
季節が、急にゆるんだ。
毎日毎日、飽きるほど降りしきっていた雪がある日突然に緩くなり、柔らかくなり、そして細くなっていく。
雪の欠片が水気を含むのは、光が温かいためだ。水を含んだ雪は雨のようになり、葉の隙間からぽとりぽとりと大地をぬらす。
天を見上げれば、そこには確かに春の気配が見えた。
「ねえ、リン。魚釣りにつきあってよ」
キャッツがそんなことを言い出したのは、雪が止んだ朝のこと。
この雪が完全に雨へと変われば、この森に春がくるのだ。
「勘違いしないでほしいんだけど」
嬉しそうに歩くキャッツだったが、ふと大人びた口調でリンを振り返る。
「別に猫だから、魚が好きなわけじゃないよ。魚より俺はお菓子の方が好きだからね。でもさ、長い冬の間、魚は乾燥させた塩辛いやつとか、薫製にした臭いやつとかばかり。だから新鮮な魚を思うと、嬉しくなるんだ」
キャッツは釣り竿を振り回しながら、リンの前を跳びはねるように進んでいた。背には使い込まれた木の桶、腰にはたくさんの皮袋。この皮袋は彼の虎の子で、様々なものが詰まっている。
乾燥させた木の実に、チョコレート。いたずらするための玩具に、さびた方位磁石にチビた炭の棒。
たぶん、彼は三人の子供の中で一番冒険心が豊かである。
「そろそろ、新鮮な魚を食べたくなるだろう? ねえ、リン」
その背を見つめて、リンは苦笑する。三人の子供のうち、猫の名を持つこの子が一番俊敏で言葉も乱雑だ。
しかし、性根は優しい。今もまた自由気ままに進むように見えて、実のところリンと歩調を合わせてくれているのだ。
「そうねえ。もうずいぶんと、新鮮な魚なんて食べてない」
地面にはまだ雪がたんまりと残っていた。
木に近づけば、上から雪の固まり落ちてくることもあるし、木の氷柱も健在だ。しかし、日差しが溜まる道の真ん中の雪は溶け、大きな水溜まりになっていた。
柔らかいグズグズの道も、春の予感だ。足に泥がついても、春が近いと思えば心が躍った。
「シンプルにさっと焼くのも美味しいし、スープにいれても、グラタンでも……」
想像するだけで、リンの口の中においしい魚の味が広がる。
この森の冬はとんでもなく長い。北風が吹き付ければすぐに冬。冷たい雪が姿をみせれば、あとは積もる一方だ。豪雪は、飽きもせず延々と続く。
その間、森も町も人も動物も魚も、身動きもできない。皆、家や巣に閉じこもり、春がくるのを今か今かと待ち続けるのだ。
動物たちは冬眠してしまうが、人はそんなわけにはいかない。それは、命の無いブッディや三人の子供も同じ事。空腹では暮らせない。
だから冬の間、人々は薫製や干し魚、干し肉を食べ続ける羽目になる。
「でも私は別に薫製が嫌いってわけじゃないのよ。シチューにするとおいしいし、削いでクリームを付けてパンに挟むのもおいしいでしょ。あとはオイルで煮込んで、パンにつけて食べるのも……」
「はいリン、足下気をつけて。その穴は蛇の穴だよ。もう、半分くらい蛇も蛙も目を覚ましてる。噛まれたらつまらない」
「ありがと。でもここ数日、薫製だって残り少ないでしょ? 今年の冬はずいぶん長かったから。食べきってしまうと大変って思っていたのだけど……」
リンは顔をあげた。口からは白い息がふう。と漏れる。しかしその白さは淡い白さだ。
白さの向こうに、木々の緑が見えた。その隙間から見えるのは、青い空だ。青い空なんて、久しぶり。とリンは思う。
「こうして、やっぱり春はくるのねえ」
思えばこの世界へつれてこられた最初の冬。それは驚いたものだ。
見たことのないほど、雪が降る。毎日毎日雪、雪、雪だ。音もすさまじい。ごうごうと家が揺れ、がんがんと屋根をたたく音がする。
あまりの驚きに、リンは一人で眠ることができなかった。
そんなリンを抱きしめて眠ってくれたのはブッディであり、寒さから守ってくれたのは家であり、冬の寂しさを紛らせてくれたのは三人の子供たちだった。
いつの間にか、リンは冬に怯えなくなった。毎年毎年、いつもの繰り返し。
冬になるまえに食材を整える。台所を食べ物でいっぱいにしておく。そして冬が終われば、冷たい香りが満ちた戸棚を全て開け放ち、そこに新鮮な食材を詰めておく。
そうだ。毎年毎年の繰り返し。それは、リンを大人にさせた。しかし、冬の訪れの恐怖、春への感謝は年々薄くなる。いけないことだ。と、リンは自分の頬を軽くたたく。
特に今年のように、長い冬を味わうとそう思う。
「ところでキャッツ、釣りなんてどこでするの?」
「リン、しっかりついてきてね。最高の釣り場があるんだ。たぶんこの空気だと、日がかげるとまた雪になる。だから早く釣って早く帰ろう。みんな、腹を空かせて待ってるだろうしね」
キャッツはうれしげに道を駆けていく。雪が止んだとはいえ、本格的な春にはまだ早い。
こんな風に雪が止んだかと思えばまた大雪が降り、雨になり、雪が降る。
これを繰り返すうちに、雪は止んで雨だけとなる。大地から緑が茂り、花が咲く。動物たちが、起き出してくる。
短い春、短い夏。その間もこの森は雨が降る。その雨は冬の雨よりずっと優しく温かい。
「でもまだ池は凍ってるし、魚はみんな冬眠中でしょう? 魚なんて釣れるの?」
「毎年この時期になると、俺が魚をもって帰ってくるだろ。あれは買ってるわけじゃない、俺がとりに行くんだ。秘密の場所を教えてあげる」
キャッツはうれしそうにリンをふりかえる。その頭に小さな猫の耳がぴょん、とはねた。興奮すると生えてくるのだ。彼らはそこまで変化がうまいわけではない。
「キャッツ、耳」
彼の頭を軽くなでるとキャッツは柔らかい髪の毛を勢いよく振る。
「いいよ。どうせ、こんな奥深くには人間なんて誰もこない。そもそも、鳥だって、ほかの動物だって、まだ起きてもない。春はまだ先だ」
さあ。と、キャッツはリンの手を強くひいた。
「……さあ、ここだ」
深い森は、日が射し込んでもまだ薄暗い。晩冬ならなおのこと。しかし、キャッツがリンの手を引いて一歩かけだせば、そこは一気に光の世界。
「すごいだろ。ここはクロウにも、バットにも、ブッディにも教えてないんだぜ」
木々が突然、とぎれた。光が目を射した。それは久々に感じる、あたたかな日の光。
「まあ……」
リンはぽかんと、目の前をみる。
そこにあるのは、巨大な湖だ。青い水をたっぷりたたえた湖だ。いや、水が青いのではない。水の底に散らばる石が、青いのだ。それは天よりも青く、澄み渡っている。
不思議なほどに周囲には木々はない。森は湖を遠慮がちに囲んでいる。
そのせいで、天から振り落ちる太陽が、まっすぐそこに注ぎこんでいた。
ゆったりと揺れる湖面の光は、青になり緑になり赤になり、取り囲む木々の葉に反射する。美しい、なんて美しい風景なのだろう。
近づいてよくよくみれば、湖の表面はまだ凍っている。しかし、折からの光でそれもずいぶんと薄い。つつけば割れそうだ。
キャッツが無造作に石を放り投げると、湖の表面に小さな穴が開く。泡をたてて逃げていく魚が氷の下にちらりと見えた。
「魚がいる」
「そりゃいるよ。今回は当たりの日だよ。まだ目覚めてすぐだから動きが緩い」
舌なめずりをしてキャッツは湖を覗き込み、そしてリンを急かすように座らせた。
「はい。リンには釣り竿を貸してあげる。先にこれをつけるんだ」
そしてポケットから指先ほどの茶色な固まりを取り出す。それは一見すると丸い虫である。
「虫?」
掌にぽとりと落とされたそれを光にすかせて、リンはみる。どうみても、干からびた芋虫だ。子供のころは虫なんてみるたびに悲鳴をあげた。
しかし、いまではすっかりと、そんな恐怖もなくなってしまった。
「木の実だけど、虫にみえるだろ。木虫っていって、食べるとすっごくまずい、どう調理してもね。だからそれを食べる鳥も人もいない。でも何でそんな形に実るとおもう?」
キャッツは黒い耳を勢いよく動かし、大きな目をキラキラ輝かせる。
「なぜかしら」
「それは、この魚が食べるからさ。そして魚に食べられたこいつは、水の中に根付いて、水の中で成長し、水草みたいな小さな草になって、また実をつける」
キャッツは自慢げに胸を張り、木虫をひとつ、湖に投げ込む。と、落ちた先に一気に泡が立った。
それをみてキャッツは耳をぴん、とのばす。気がつけば尾まで生えた。それを振り振り、よだれでもたらさんばかりに、言うのだ。
「やあ。やっぱり腹をすかせてやがる。ここの魚は目がいいけど鼻がきかないから、これでいいんだ。本物の虫はこの時期、掘り返して見つけるのに、苦労するから」
水の中をのぞき込めば、そこには何十匹という魚の尾鰭がある。
それは鮎のような銀色の体をもつ魚だ。ぷりぷりと太った腹に、ぴんとそり立った尾。晩冬の魚といえば痩せているのが普通なのに、ここの魚はみな、ぱつぱつと丸くてはちきれそう。
ひさびさに、柔らかい魚の味が思い出されて、リンの腹が鳴る。
「すごい。みんな喜ぶわ」
そんなリンも、幼い頃は魚をさばくこともできなかった。
手の中で魚が死んで行く感触が、恐ろしかった。命のない人々に囲まれていることで、命が消えることがたまらなく怖かった。
怯えるリンの手を取って、魚をさばく方法を教えてくれたのはブッディだ。
この感触に、慣れろとはいわない。しかし、覚えなければいけない。あなたと同じ、命があることを。
彼は幼いリンの耳に、囁いた。
「釣り竿の使い方、分かるよね」
キャッツの明るい声に、リンははっと顔を上げる。ここにいるのはもう幼い頃のリンではない。
「……ええ、キャッツはどうするの?」
「俺?」
キャッツは尾をぶん、と振って水の中につけた。
「俺はこれでじゅうぶん」
彼はそれを器用に、みぎへひだりへと振る。それだけで、魚は翻弄されるようにみぎへひだりへと揺れるのだ。
「はい。一丁あがり」
早速彼は、一匹をつり上げた。光が反射して、銀の腹がきらきらと輝く。
それを眺めてリンは首を傾げた。確かに春になる頃、毎年キャッツがこの魚を仕入れてくれたものだ。
こんな風に天気がよく、雪の止んだ日を狙って一日だけ。そして彼は夜遅く、魚を持って帰ってくる。
普段は子供達の遠出を心配するブッディも、キャッツの魚釣りだけは許しているようだった。
しかしそれも、キャッツだけの楽しみだったはず。なのになぜ、今年はリンを誘ってくれるのか。
「これまでずっと連れて行ってくれなかったのに、なぜ今になって教えてくれるの?」
「リンが最近、落ち込んでいるから」
釣り上げた一匹を背負ってきた桶の中に放り込む。桶には水がたっぷりすくわれており、その中で魚は元気よく泳ぎはじめた。
水を覗き込み、リンは思わず苦笑した。
水に映るリンの顔は、どこか物憂げだ。これでは、誰にだって落ち込んでいることが知られてしまう。
「だめね。私、すぐに顔にでる」
「大丈夫。他の二人は気付いて無いよ、あいつら馬鹿だもん」
水に映る自分の顔は、もうすっかり年寄りだ。年を取らない人々に囲まれて暮らしていると自分がまだ少女のように思えてしまう。
しかし、実際には自分だけ時が刻まれている。それが最近は妙に悲しい。
あと何度、この冬を春を見られるのだろうと思えば、寂しい。
そして、冬の頃、ブッディに言われた一言を、まだリンは引きずっている。
彼は言ったのだ。あなたを「元の世界」に返したいと。
元の世界といわれても、リンには霞むような思い出しかない。薄ぼんやりと思い出されるばかりの、遠い世界だ。もうすっかりこちらの世界が体になじんでいる。
思い出す昔の世界は、ここよりも冷たくそして寂しい場所だった。
「何があったのかなんて、俺からは聞かないよ」
キャッツは尾の冷たさに眉を寄せつつ、それでも水中を尾でまさぐる。
はねた水が表面の氷にはねて、ぱきぱきと音を立てる。氷の割れる音は、春の音だ。
その音に惹かれるように、魚たちが氷の下で右往左往している。
「……言いたければどうぞ」
「……昔ね。大昔よ。私がまだ人の世界にいたころ」
釣り竿をゆらしながらリンは呟いた。
「私は早くに親を亡くしたから、小さな頃は、施設に預けられていたの」
「施設って?」
「大人が子供たちを見てくれる場所」
父も母もみな死んだ。残されたリンはその冷たい場所にいた。
もう遠い記憶となった今、思い出すのは灰色の床と冷たい壁のことだけ。
「俺等の家のような?」
「そうね。ここよりずっと冷たくて悲しい場所だった」
釣り針はぴくりとも動かない。釣り竿越しに悲しみが伝わるのだろうか。魚はリンを警戒するように離れていく。
「……ねえ。私が、もし、あの世界に戻ることになったら、どう思う?」
勇気を振り絞って口にしたひとこと。キャッツは驚いて、一緒に怒ってくれるだろうとリンはかすかに期待した。
しかし彼は寂しそうな顔をしたあとに、リンから顔を背ける。
「その答えの前に、俺も昔の話をしてもいい?」
キャッツはその場に寝転がり、腕を伸ばす。尾だけは水につけているので、いくらでも魚がかかった。彼はそれを器用に桶へと飛ばしながらシャツの腕をまくる。
そこに、深い深い、赤い傷が光っていた。
「この森の奥で、秋に猫が子供を産んだんだ。でもね、まず猫は秋になんて子供を産まない。冬がくる前に、巣立たせるのが難しいからね。なのに、偶然にも子供が産まれた。しかも8匹だ」
キャッツは森の奥を眺める。その目の奥の瞳孔が、すっと細くそそり立つ。泣きそうなのか、怒りなのか。その声も顔はみじんも動かないけれど。
「そのうち最後に生まれた小さな猫は体が弱くて、生まれた瞬間から死にかけてた。猫の世界は非情でね、生きていけない子猫は乳も貰えない。近づけば兄弟に踏まれて、邪魔される」
その傷はもう血も流していないけれど、なまなましく赤い。腕を曲げると、傷の跡がますます赤く染まった。
キャッツはその傷を見て笑う。
「乳ものめないから子猫はますます弱る。でもある時、ほかの兄弟猫が散策に出て母猫から離れたんだ。小さな子猫は、その隙をねらって母猫にしがみついた。いつもは兄弟猫がくっついてる8つの乳は吸い放題。ようやくおなかいっぱいになるってそうおもった時」
キャッツは傷を服で隠し、魚を釣り上げた。
「母猫は、弱った子猫の腕を噛みちぎった。それでもすがりつく子猫を蹴り飛ばして、うなって、子猫を森の奥にほうりなげた。子猫は、雪の降り始めた森の奥に、放り出された」
桶の中で泳ぐ魚は元気だ。それをつつくキャッツの顔はやはり淡々としていた。
「しかたないよ。母猫だって生きていかなきゃいけない。本来なら生まれない季節に生まれた子だ。いつもより、早く育てあげなきゃ冬がくる。この森の冬は長い。たった一匹の子猫にかまけて、残りの7匹をないがしろにはできない」
「キャッツ」
「その怪我はいまでもずきずき痛むし、跡にもなってる。でもその子猫は生きなきゃいけない。まあ実際は死んでいるんだけど」
キャッツはリンをまっすぐに見た。それだけでリンは悟る。森の奥に放り投げられ死にかけた小さな子猫の血を吸って、ブッディは彼に永遠の命を与えたのだ。
「傷は、なんで」
「傷はなおさなかった。この痛みが、唯一、親と自分をつなげる思い出だから」
5匹目、6匹。キャッツはどんどんとつっていく。しかし、リンの釣り針はひとつも動かない。
それはリンが動きを止めているからである。
「昔からブッディは、いつかリンを『元の世界』に返したいっていってた。ブッディがつくった大勢のニンゲンの墓を見ただろう? あれは、元の世界に戻す前に死んでしまったニンゲンたちだ。そのたびにブッディは傷ついていたし、悲しんでいた。だから今度こそ……」
キャッツはリンを見据える。リンは、かつてブッディの腕の中でみた森の墓を思い出していた。
美しく整えられた、数々の墓。それは、リンの前にここで過ごした人間達の墓だ。皆、ここで死んで行った。
「今度こそ、リンだけは返したいってね。だから俺たちも、覚悟はあった。でもその覚悟は、きっとこの傷を残そうと決意したときと同じ、悲しい覚悟なんだ」
しん。と一瞬二人の間に沈黙が落ちて、やがて風の抜ける音がした。
それは雪を運ぶ風の音だ。今夜、雪が降るタイミングは想像より少し早いかもしれない。とキャッツは呟く。
「俺たち三人をブッディが仲間にしたのは、死にかけていたからだ。でも、リンは違う。リンは生きているから……」
リンの釣り竿がく、と動く。慌てて引き上げれば、魚は器用に木の実だけを食いちぎって水の奥へと逃げた。
「昔、リンが町の市場で、さらわれかけたことがあるだろ?」
キャッツがリンの釣り竿をひいて、その先に小さな木虫を付けた。そしてまた湖へと放りなげる。それは不安そうに水の底へと沈んで行った。
「……そのことだけど、私、本当に記憶になくって」
昔から、皆が口を揃えて言う、市場での誘拐未遂事件。しかし、これはなぜかリンの記憶にはほとんどないのだ。
「あれはこれまで生きてきた中で、一番恐ろしいことだった。あのとき、リンは俺たちとは違うんだってはじめて思った。逃げ出す駿足があるわけじゃない。空を飛ぶ羽があるわけじゃない。噛みつく牙もない」
「だから、私は元の世界に戻ったほうがいいってこと?」
「リンはこの世界にいると危ないことがある。あの市場のときのように、きっと俺は守れない。はね飛ばされる。子猫の時のように情けなく、地面に這いつくばることになる」
「危険なことなんて」
「ブッディが何も言っていないのなら、俺からはいえない。これはブッディと俺だけの秘密だから。きっとブッディも整理を付けて、いつかリンに真実を告げるから。でも分かってほしい、けしてリンを嫌って意地悪してるんじゃないってこと」
キャッツは何かを知っているのだ。とリンは悲しく思った。
キャッツとブッディだけが知る秘密がある。そんな秘密があることをリンに教えたのはキャッツの優しさだろう。
「それまで、無理矢理元の世界に戻すことはしないよ。それは約束する。リンを納得もさせず戻すなんてことは絶対にさせない、俺がね」
そして彼は冷たい手で、リンの手を優しく撫でた。
「それに。元の世界へ帰ってほしいわけじゃない。それが、俺の本音だ……俺たちの」
「そうね……あ」
ぴくり、と釣り竿が揺れたのはそのとき。見れば、とんでもなく大きな魚が、リンの釣り糸にかかっている。
リンは慌ててその細い棒をひく。しかし意外なほどの強い力で、湖へと引き寄せられる。転がりそうになるのを必死に留めると、ちょうどその先に、青い石があった。
「リン!」
それは湖の底に沈む石とおなじものだ。キャッツが魚を釣り上げる際に、一緒に打ち上げてしまったのだろう。
リンの手の先が、石に触れるかどうか。
その直前にキャッツがリンの体を支え、石をはっしと掴む。その勢いで釣り竿は折れて、湖の中に転がり落ちていく。木の実を加えた巨大な魚は、釣り竿を引き連れて悠々と泳ぎ去った。
「何……」
「この石はさわっちゃいけない」
日頃は焦る様子もみせないキャッツの額に、汗が浮かんでいる。それを拭うこともせず、彼は右手に掴んだ石を、湖の真ん中に放り投げた。そして痛そうに、腕を振る。
こん、と軽い音をたてて落ちたそれは氷を割って水の中に沈んだ。湖の中には、そんな石が層のように積もっている。
空の青のように、冗談のように青くて美しい石。
「なんで……」
「これは命を食べる石だ。さわってすぐに死ぬわけじゃないけど、触れると気を失ったり目が見えなくなったり、手がただれたりするよ。だからみてごらん。この周囲には木がないだろう。石を恐れているんだ」
「キャッツは平気なの? それに、ここの魚は……」
「俺だって痛いけど、毎年さわってるからずいぶん慣れた。それに、ここの魚はこの石のおかげで冬を越せる」
キャッツは桶の中を泳ぐ魚に、手を触れる。魚は元気だ。冬を越したとは思えないほどに、ぴちぴちとはねている。
「この魚は冬眠ができない種類だから、冬の間、石に触れて仮死状態になるんだ。石に触れると神経が鈍って寒さを感じない。そのせいで本格的な春になると死んでしまうけど……でも、この石のおかげで、こいつらは卵を産む体力を残したまま冬を越せる」
ふつう、冬眠から明けたばかりの動物はやせ細り、体力はほとんどない。しかしここの魚は死の予感など感じさせないほどに元気だ。ぱんぱんに太って、跳ね回っている。
「それにあの石。リンも見たことがあるだろ、家の中で」
そしてキャッツは呆れたように肩をすくめてみせた。
「ブッディの部屋にあるじゃないか。文鎮で」
「あ」
リンが思い出したのは、ブッディの薄暗い部屋で見た巨大な石である。文鎮代わりにおいてあったその石は、確かに薄く青く輝いていた。
あまりに美しいので、触れようとした途端、これまでにないほど彼は怒った。
彼の怒りが恐ろしく、もう何十年も彼の部屋へと足を運べなかったほどである。
(あの石は)
命を吸う石だったのだ。だからあれほど怒ったのだ。
ブッディは言葉が足りない。と、リンは思う。同時に、自分はどうなのだろうかと振り返る。
ブッディの秘密を言ってほしいと、すがって怒って泣けばいいのだ。全て吐き出してほしいと懇願すればいいのだ。
しかし、言えなかった。それは、ブッディの悲しすぎる赤い目を見たせいである。
「よし。これだけ釣れたらもういいよね。ね、リン。ここで何匹か食べていこうよ」
釣り竿を無くしたリンが木の虫で遊んでいる間に、キャッツは手慣れた様子で10数匹も釣り上げた。いまや桶の中は魚でみちみちだ。
それを見て、キャッツの腹が鳴る。よくよく考えて見れば、日はもう頂点。朝から何も食べていないし、お弁当といっても小さなパンと乾燥リンゴが二欠片あるばかりだ。
「そういうと思って」
リンは笑って鞄から、小さな瓶を取り出してみせる。それは薄いピンクのスパイスだ。塩と胡椒と、かすかに山椒に似た刺激臭を持つ。
「魚用のスパイスを持ってきたの」
「さすが」
そう言うと、キャッツの動きは速い。枯れ木を集めると、皮袋から火打ち石を取り出して火をおこし、ナイフと木の板の用意を調える。
リンは魚をそこに横たえると、素早くナイフで貫く。魚が動いたのは一瞬のことで、そのあとはもう動かない。
「昔はね、さばいたばかりの魚が怖くて食べられなかった」
掌の中で死んで行く魚も、燻製にされた魚もみな同じだと気がついたのは少し大きくなってからだ。そのどちらも自分の命の土台である。
リンは魚の体にスパイスを丁寧に擦りつけて、体に枝を通すなり火の側にたてかける。やがて、美味しそうな香りが辺り一面に漂った。
「美味しい」
リンもキャッツも待ちきれず、同時に手を出す。腹から思いきりかぶりつけば、口の中で白い肉がほろりと崩れる。もう長い間口にしていなかった、柔らかい味わいだ。
「これこれ……」
キャッツはよほど腹が空いていたのか、骨ごとかみ砕いて尾まで飲み込んだ。そして早速、もう一つに手を伸ばす。
リンも負けじと柔らかい腹をかみしめる。スパイスの塩気が、焦げ味によくなじんで口の中いっぱいに脂のうまみが広がった。
そんなリンの顔をみて、キャッツが苦笑する。
「……謝るよりさ、そうやって笑っていてよリン」
「私、笑ってた?」
「その方がずっといい」
そういって笑うキャッツの顔は優しい。触れれば冷たい皮膚だ。命のない体だ。それは、様々な悲しみを乗り越えてきた体だ。
しかしリンはそれがない。あの家に、あの家族に暖かく守られて育った。ただひとり、命を持つものとして。
その事実が、幼い頃からリンに疎外感を与え続けている。
リンは魚から口をはなし、呟くようにいった。
「私も……猫だとか、コウモリだとか、カラスならよかった。それなら、きっと」
「リン。リンはだめだよ。だってリンは」
「じゃあ。人じゃないものにしてあげようか?」
リンの言葉にキャッツが声をあらげる。その声に重なるように聞こえてきたのはもう一つの声。
最初は風のささやきに聞こえた。しかし悪意のある声は耳に刺さる。そうだ、それには悪意がある。
はっと顔を上げれば、そこに少年がいた。
「僕ならそれを、かなえてあげられるけど?」
「おまえ、誰だ」
キャッツは食べかけの魚を放り投げ、リンをかばうように立つ。耳も尾も大きく膨らんでいる。目が、細く鋭くとがる。
しかしリンは、キャッツのはやる手を押さえた。
リンは、その子を知っている。
「まってキャッツ、その子は」
「そうだ。前にも、会った。ずいぶんこけにされたものだけど」
それは、冬のはじまりの頃。町の市場で出会った子である。黒いコートに白いシャツ。黒でぴかぴかに光る革の靴。大人びた格好なのに、顔立ちは幼い。白い肌、赤い目。その目をまっすぐにみて、リンは思い出す。
以前、出会った時もリンは確信した。これはどうみても、ブッディと同じ血族である。見間違うはずがない、赤い宝石のような美しい目の色も、絹のように白い肌も。
吸血鬼以外、このような容姿を持つものはいない。
「二度目ね。残念だけど正直アイスはここにはないの。うちまで食べに来てくれるなら、話は別だけど」
「別に必要ないよ。どうせ僕の話す言葉は真実しかない。やはり人間っていうのはイライラする。本当に、バカで、いやだ」
キャッツを押しのけて、リンは前へ出た。二人を遮るものはなにもない。赤い瞳がにらみつけてくるが、不思議とリンはこの子供を恐ろしいと思えないのだ。
「あなた誰? 私になにかご用?」
「ご用ってほどでもないけどね。そうだよ。ああもう面倒だ、端的に言おう。不死にしてあげようって、そう思ってね」
ゆるりと少年の手が伸ばされる。その指先が、リンの首に触れた。それは、ぞっとするほどに冷たい指だった。
「……なぜ?」
「君がそう、望んでいるから」
「リン」
ふ。と耳元に温かな声が聞こえる。それは血の通った声だ。血など持たないはずなのに、誰よりも優しい声だ。
(……きっと私は)
その声の主は、リンの体を抱きしめるなり後ろへと引き寄せる。少年の手はあっと言うまに払われた。
リンを包むのはいつも香りの黒いコート、大きな手。すぐ間近で見つめてくる、心配性な赤い瞳。
何十年たっても、その視線の柔らかさはかわらない。手の優しさは変わらない。
(この声が助けに来ると、知ってた)
だからリンは、自分のあまりの浅ましさに涙があふれそうになるのである。
「ブッディ!」
キャッツが歓喜の声をあげる。その声で時が動き始めたようだ。
少年は突然リンが後ろにさらわれたことで、たたらを踏んだ。なぜリンに避けられたのか、彼は理解したのだろう。その小さな赤い目が、これまでにない怒りに燃える。
「それ以上近づけば、私は本気であなたを殺す」
怒っているのは、少年だけではない。
「脅しではありません」
リンを後ろ手にかくし、ブッディは低く呟いた。それはリンがこれまで聞いたこともない恐ろしい声である。
「どう殺すのさ。知っているだろう、分かっているだろう。僕は、殺されない、死なない」
少年はせせらわらう。
「おまえと同じだ。死ねない、殺せない」
そして白い指をつい、とブッディにつきつける。
「せっかく久々に会った仲間に、ずいぶんな挨拶だな」
リンの握り拳に汗が浮かんだ。リンを支えるキャッツの手もいつもより、冷たかった。
「リン、危ないからさがって」
キャッツはリンの体を引き寄せる。しかしその手が小さく震えているのに気づき、リンは思わずその体を抱きしめた。
「さあ。やってみないと分かりませんが」
ふ。ブッディが動いた。それはささいな動きだ。しかし、風をきった空気の音は冷たい。ブッディはなにか、細いものを少年へと投げつけたのである。
「……っ」
はじめて少年の声に、焦りがでる。一歩、二歩。下がる足が震える。
みれば、彼の頬に赤い傷がみえた。そこから血が、一滴二滴と滴り落ちる。
「おまえ」
「だから言ったでしょう、私は本気だと」
ブッディが投げつけたのは、青い石だ。それは、湖の底に沈むあの石だ。
それを見てキャッツが息をのむ。そしてリンの手を強く掴んだ。
「だめだよ、リン。絶対に近づいちゃだめだ」
「おまえ、その石、なんで」
「私たちの命を奪う、唯一の石です。しかし、何十年も何百年もかけて側におけば、触れるくらいはなんでもない」
ブッディの手の中には、青い石がつぶてのようにいくつも転がる。石に触れた掌は赤く染まっていた。石は、まるで炎のようにブッディの手を傷つけている。
「ブッディ。だめ」
リンは思わず、その手にすがりつく。
「その子は、あなたの種族」
触れた手は冷たい。その手に、ちらりと雪が舞い落ちた。
「あなたは自分のことを、最後の吸血鬼と言ったけれど」
雪の一滴は、あっというまに豪雪となる。気がつけば青空は隠れ厚い雲が広がる。冷たさに目を細めたとたん、目の前から気配がきえた。声もなく音もなく、少年が姿を消したのだ。
ブッディとキャッツが慌てて周囲を探ったが、しかし、そこに少年の気配も姿もない。雪が目隠しをした瞬間に、彼は逃げたのだ。
リンは人知れず、小さく息を吐く。
あの少年から溢れ出るものは、悪意だ。しかしその悪意は、すねて甘える子供の意地の張り方に似ている。切ない悪意である。
「……ねえ、ブッディ、あなたは、一人じゃなかった」
そして、何よりもその事実がリンの心を揺るがせている。
「知っています」
振り返ったブッディの目は、雪の中でも分かるほどに赤く輝いていた。
美しい赤の瞳に、白い肌。それを持つ吸血鬼は、不死を与えられる唯一無二の存在だ。たった一人になってしまった。と、いつかブッディはリンに語ったことがある。
不死の体を持ち、たった一人で生きて行かなくてはいけないブッディ。そう聞かされていたし、信じていた。しかし、ブッディは、隠していたのだもう一つの存在を。
「全ては、私のせいなのです」
ブッディは、リンの肩に積もる雪を優しくはらう。触れた手は、雪よりも冷たい。
「思い上がりが、過ぎました」
彼はそのまま、リンの肩を抱きしめる。しかし、言葉はもう語られない。何かをこらえるように彼は言葉を飲み込んだ。だからリンはあきらめて、その肩をなでるのだ。
「あなたは言葉が少なすぎるわ、ブッディ」
そして、リンもまた言葉が足りない。
「まだ何もいえないのね」
「はい」
「じゃあ、待ってるから。だから今日はひとまず、帰りましょう。帰って、おいしい魚のシチューに、魚と野菜を挟んだサンドイッチ。それに魚のチーズグラタン……ところで、この魚はなんていうの?」
「春呼び魚」
ブッディの肩越しに、キャッツの呆れ顔がみえた。
「春のさえずり、春の声ともいわれてるけどね。でもだいたい、この魚が食べられる時期はまだ冬だ。春への期待を込めて、春呼び魚って呼ぶ。ほら、また雪が強くなる。道に迷う前にかえろう、二人とも。ああいやだ、こんな恐ろしいことに巻き込まないでおくれよ、ブッディ」
ブッディの情けない顔を見ない振りをして、キャッツは彼の右手を握る。だからリンも、ブッディの左手をそっと握った。
雪はどんどんと強くなる。春になるのはもうすこし先。
春になるころ、氷と一緒にこのわだかまりは溶けてなくなりますように。とリンは願った。