光の祭りに
祭りの夜は、雲ひとつなかった。
日が沈む前から、水路沿いに灯籠が並び始めた。橋の欄干に結ばれた花飾りが夕風に揺れ、石畳の上に人々の足音が重なっていく。神殿の広場には去年と同じように、街の人々が思い思いの灯りを持ち寄って集まってきた。
アルテは今年、尖塔の灯りを点ける前に一度、広場を見渡した。
ミラが、ナヤの隣に立っていた。ナヤは人の多さに少し緊張した顔をしていたが、ミラが何か声をかけると、少しだけ肩の力が抜けた。ソルテは去年とは違い、広場の端ではなく、二人のそばに立っていた。ロアンは回廊の柱の陰にいつも通りいたが、今夜は写本を持っていなかった。カトが警戒のため広場の外縁を歩いているのが見えた。ベルトとエダ老婆が隣り合って、なにやら話していた。フレンツが人混みの中に、今年もお忍びで混じっているはずだった。
エランだけが、いなかった。
でも夏の終わりには、戻ってくる。
アルテは前を向いた。セレーヌが隣に立っていた。いつものように背筋を伸ばして、静かにアルテを見ていた。
「準備はいいですか」セレーヌが囁いた。
「——はい」
◆ ◆ ◆
まずセレーヌが、長年の祈祷文を読んだ。
その声は今年も変わらず、静かで、深く、広場の端まで届いた。アルテは隣でその声を受け取りながら、去年との違いを感じていた。去年のセレーヌは、待ちながら祈っていた。今年のセレーヌは、繋がりながら祈っていた。その差は、言葉では見えなかったが、アルテには確かに聞こえた。
そしてセレーヌが終わった後、アルテの番が来た。
広場が静かになった。去年まではなかった間だった。人々がそれに気づき、また静けさが深くなる。アルテは一度、深く息を吸った。
精霊たちの気配が、波のように寄せてきた。光芒妖精が尖塔から降りてきて、アルテの周りを漂い始める。葉陰妖精も、どこからか集まってくる。そして——ずっと遠く、根域の方角から、白い光の脈動が、かすかに届いてくる気がした。
シロが、聞いていた。
アルテは口を開いた。
「光よ。今年も、あなたのそばで一年を過ごしました。
この街で、たくさんの人に出会いました。帰る場所を探して来た人、道を見失っていた人、ずっと一人でいた人、自分の場所を探していた人。みんなが少しずつ、前へ進みました。
精霊たちも、一緒にいてくれました。根域の奥で、長い間眠っていた光にも、会うことができました。名前をつけました。シロ、という名前を。まだ完全には目覚めていないけれど、もう一人ではない。
光は、忘れられても消えない。道を見失っても、消えない。誰かが手を伸ばせば、また繋がることができる——それを、今年わたしは教えてもらいました。
だから今夜、感謝を伝えます。この街に光があること、精霊たちがいること、そして——帰る場所があることへの、感謝を」
広場が、しんとした。
それからすぐ、尖塔に灯りが点った。白い光が上から下へと広がり、水面に映って街全体が揺れるような輝きに包まれる。去年と同じ光景だった。けれど今年は——その光の中に、根域の方角からの、細い白い脈動が混じっている気がした。シロが、応えていた。
広場から歓声が上がった。
◆ ◆ ◆
祈祷の後、ナヤが走り寄ってきた。
「光芒妖精」ナヤは言った。「いっぱいいる。見えた。全部」
「全部見えた?」
「街の上全部に、いた」ナヤは目を輝かせていた。普段の無表情が、今夜だけ、子供の顔をしていた。「こんなにいるんだ。知らなかった」
「去年も同じだったよ。去年は広場の端からだったから」
「来年も来る」ナヤはぼそりと言った。「もっとよく見たい」
来年も来る。それは、来年もここにいる、ということだった。アルテはナヤの頭に手を乗せた。ナヤは嫌がったが、逃げなかった。
ミラが隣で笑っていた。ソルテは光芒妖精の一体を目で追いながら、静かに立っていた。
「ソルテ、今年は大丈夫だった?」アルテは尋ねた。
「大丈夫。——人の気配が多いのは、まだ慣れないけど」ソルテは正直に言った。「精霊の気配は、今夜は嬉しい。だから、来れた」
「来てくれてよかった」
「うん」ソルテは短く言った。「——来てよかった」
◆ ◆ ◆
夜が深まる頃、水路に花が流された。
今年も、白い花、淡紅の花、黄色い小花が、灯籠の光の中をゆっくりと流れていく。アルテは橋の上から、その流れを見ていた。隣にセレーヌが来た。
「今年の祈祷、よかった」セレーヌは静かに言った。「シロのことを、皆に伝えてくれた」
「名前を出してよかったかどうか、迷いました」
「よかった。名前を出すことで、シロはもう一人ではなくなった。街の人たちの中に、いる」
アルテは水面を見た。花弁が光の中を漂い、やがて橋の下に消えていく。
「来年の祭りには」アルテは言った。「シロが、もっとはっきり目覚めているといい」
「そうなるように、また根域へ行きましょう」セレーヌは静かに言った。「わたしも、今度は少し早く歩けるよう鍛えておきます」
アルテは思わず笑った。「セレーヌ様が鍛える」
「何がおかしいの」セレーヌは少し笑いながら言った。「わたしだって、もう少し動けるようになりたい」
水路の向こうから、ロアンが回廊の方へ戻っていくのが見えた。その背中が、来た時よりほんの少し軽い。カトが橋の端で立ち止まり、水面を見下ろしていた。フレンツが人混みの中で誰かと話している声が、遠くから聞こえてきた。
全部が、この夜の中にあった。
夜明け近く、部屋に戻ったアルテは、手記を開いた。今年も、祭りの夜は長かった。窓の外ではまだ水路に花が流れ、灯籠の光が揺れていた。
「今年の祈祷で、シロの名前を言った。光の中に、根域の方角から白い脈動が混じった気がした。シロが、聞いてくれていた。
ナヤが『来年も来る』と言った。それは、来年もここにいる、ということだった。ソルテが『来てよかった』と言った。セレーヌ様が『鍛えておく』と言った。
今夜、この街に光が集まった。精霊たちも、人も、遠くにいるエランも、眠りの中のシロも——全部が、この夜の光の中にあった気がする。
来年の祭りが、もう楽しみだ」
炉端妖精がいつものように現れた。今夜の妖精は、祭りの余韻でいつもより大きく揺れていた。アルテはその温かさに手を近づけながら、囁いた。
「おやすみ。——今年も、いい祭りだった」
妖精はゆっくりとひとめぐりして、暖炉の奥へ消えた。窓の外では夜がまだ続いていて、水路の音と、遠くで誰かが歌う声が、静かに響いていた。




