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前妻  作者: 佐伯琥珀
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後編




「イヴァンは嘘を付くときに笑うのです」





 母からの手紙はその一文で締めくくられていた。




 僕は、母の三回目の追悼ミサに出席するため乗り込んだ汽車の中で、母が最後に遺した手紙を読んでいた。


 遺品を整理していた途中に父が見つけたのだという母からの手紙。その手紙は綺麗な封筒に入っていた。



 母からの、長々とした僕と父の体を気遣う手紙。

 なぜ、母はこの手紙の最後をこんな風に締めくくったのか。そう思いながら、封筒の中に手紙をしまった。



 父は、母が居なくなった今も母の実家で暮らしている。

 どうにも南部の雰囲気がやけにお気に召した様子。


 母の追悼ミサの度に、僕は母の実家を訪れる。

 おじさんやおばさん。おばあちゃんにおじいちゃん。どれも明るく驚くほど気さくな人たち。



 そんな中に父はひとり。

 それでも、母方の親戚は皆良い人ばかりなので、それなりに楽しくやっているそうだ。

 あちらとしても、畑作業に男手は必須だから父という存在を重宝しているのだろう。よく分からないが。



 ……ああ、母の実家で出てくるあのコッテリとした料理を思い出すだけで胃が……なんて思いながら、僕は膝の上にある「ルカへ」と書かれた封筒に目を落とす。


 母からの手紙の最後の一文がやけに心に残った。

 母は一体、僕に何を伝えたかったのだろうか。



 車窓から見える、綺麗な森林。

 ぼくは肘をついてぼんやり外を見ながら、母と父の事を思い返していた。






 自分の父と、母が「愛し合っていない」という事は幼い僕からみても明白であった。


 毎晩喧嘩をしていた訳でもない。

 お互いを無視していた訳でもない。


 それでも、この二人の間に愛情はない。と僕は小さな頃から確信していた。





 父は、美しい男であった。

 金髪に青色の眼。北部の良家出身。「金髪の王子」なんて子供が出来ても、もてはやされていた。


 それに比べて母は典型的な南部の女であった。

 自分の親ながらどうして父親を射止められたのだろうと思っていた位である。



 父さんと母さんはどうやって出会ったの。なんて問いかければ、父はいつも困ったように笑いながら「神様の思し召しかな」なんて曖昧な言葉を口にした。

 その質問に、母も「どうしてだろう」とこれまた曖昧な言葉を口にしていた。



 この質問に対して、曖昧な言葉を口にする夫婦とは違い、父方の祖母は眉をぎゅっと寄せながらこう言った。「イヴァンはばかだからよ」と。




 父方の祖母は非常に僕の事を可愛がってくれていて、僕の事を「リューク」と呼んだ。

 僕の名前は「ルカ」という名前だが、どうにも隣国出身の祖母からすれば「リューク」なのらしい。


 そんな祖母は僕が生まれた時、青い瞳であった事を多いに喜んだそうだ。僕が大きくなっても、会うたびに「リュークはイヴァンに似て良かった」と言っていたくらいに。


 昔は「まぁ父は格好良いし」なんて思っていたが、今思えば祖母が言いたかった事はこうだろう。

 「南部の女になんか似なくてよかった」と。



 この国は、南北格差が激しい。

 第一次産業が中心の南部と、第三次産業が中心の北部。



 父と母を昔から知る友人達は集まれば、いつも話題になるのは「リサは本当にシンデレラだよなぁ」という事であった。

 典型的南部人間な母が、北部の金髪の王子と結婚した。なんていうシンデレラストーリー。


 友人たちは大きな食卓を囲って、チーズなんかつまみながら「本当に羨ましい」と漏らしていたが、僕から見れば母はどう見ても魔法にかけられていない灰かぶりのままであった。

 父という皆が羨む金髪の王子と結婚しているというのに。




 今になってようやく理解できるが、父にとってこのシンデレラストーリーは厄介なものであったのであろう。

 祖母の話によれば、昔の父は「リサ以外と結婚するつもりはない」とほぼ駆け落ち状態で家を出ていったらしいのだ。

 周囲にはシンデレラストーリーだと憧れられ、実家に背を向けてまで行った結婚。それなのに、のこのこと別れますなんて言えるものであろうか。


 結婚生活を支えているのは、父のプライドと、母の辛抱強さと、二人の僕への愛であった。


 昔の父はなぜ母を選んだのか。その問いに答えてくれる者はいない。

 当の父ですら答えられないのだから。



 友人たちの前では、にこやかに笑っていた二人も、友人達が帰ればいつもの二人に戻る。

 お互いを無視するわけでもない。だからと言って愛し合う訳でもない。


 お互いがお互いに気を使っているような。仮面夫婦ともいえないような不思議な空気。



 二人の間に愛情は無かった。

 それでも、父も母も僕へは沢山の愛情を傾けてくれた。

 成長すればするほど、この二人は僕が居なくなればどうするのだろう。と恐ろしくもあったが。





 僕が9歳の頃のバカンスは、今でも笑えない思い出だ。


 母の故郷で一か月ほど過ごす予定だった。しかし、父は直前になって「行けなくなった」と言ったのだ。

 バカンスを家族と過ごさないなんて。一番そう思っていたのは母に違いない。



 母と見た、海の色は美しい青色だった。

 この海の色は、父さんの瞳の色みたいだ。と僕が言えば母は少し泣いた。


 母の実家に行けば、僕は王子様かと勘違いする程もてなされた。

 明るく、優しく、そして笑顔に溢れた食卓。


 父は新聞を読んで。

 母はただ黙々と食事をすすめて。

 僕だけがこの2人の会話の糸口になろうと必死になっている、あの食卓とは違う。



「母さん、父さんもこれたらよかったのにね。こんなにも楽しいのに」


 そう呟くと、母さんは困ったように笑った。


 母方の親戚は、父さんが来ていない事を、誰も口にしなかった。

 ただ、僕をみたおじさんが「ルカはイヴァンの野郎に似てるなぁ」なんてベロベロに酔った勢いで言った、それだけだった。





 父さんは南部嫌いなのかな。なんて思っていたバカな僕。

 今となっては、父が違う人とバカンスを過ごしていたのだろうと察せるが。


 子供の無知さ、というものは時折役に立つものである。

 父から時折香る、甘い匂い。僕はそれをお菓子の匂いだと勘違いしていた位なのだから。

 大人になるという事は、知らなくても良い事まで知ってしまう。という事だ。

 今でも、時折父の言動を思い出しては、母の不憫さに胸が痛む日々である。




 僕が18歳の頃、母が病に倒れたという知らせが届いた。



 久々に母の実家に向かえば母は、ベッドからただぼんやりと外を見つめていた。


 その頃、僕は違う街で暮らしていたのだが、母の為にこの街へやってきた。

 父が母の面倒をみるとは思えなかったからだ。



 母は、その細い手で僕の手を握り「ありがとう」と何度も何度も言った。

 僕は、その母の言葉と同じ位涙を零した。


 そして久々に見る、父はやはり美しかった。

 まだ白髪も混じらない金髪。少しだけ、目じりにしわが増えていたが、こんな年の取り方ができれば、と自分も思ったくらいだ。


 最後に会ったのは、確かカフェで会ったあの日か。

 母の実家へ二人で帰る。なんて僕に相談もなく、相変わらず自分勝手な事を父さんは口にしていた。



「ルカ、帰ってきてくれてありがとう」

「……母さんが心配だから」


 が、という文字を強調しながらそう言うと、父は母と同じようなか細い声でもう一度「ありがとう」と言った。


 父が、母の部屋に入れば母は「イヴァン」と微笑む。

 そして父も「リサ」と母の名前を呼んだ。


 父は母の枕元にある椅子に腰かける。

 僕にもおいで、と手招きをしたが僕はふるふると首を横に振った。

 コーヒーを飲んでくる。なんて嘘を付きながら、こっそりと開いたままのドアから部屋の様子を覗いていた。


 母と父は、談笑していた。……僕は、こんな風に楽し気に話す二人を初めて見たので少し驚いてしまった。

 僕がいなければこの二人は、もうそれこそ離婚の危機ではないか。と思っていたがそうでもないらしい。


 南部マジックのお陰であろうか。

 僕にはよく分からない。


 それからの数か月間、母が死ぬまで僕は母と父と一緒に過ごした。

 僕は長い時間をこの両親と過ごしたというのに、南部の風に吹かれる父と母はまるで別人のようであった。






 母と父は、出会った時の話をよくしていた。

 母も父も、お互いの名前を何度も何度も呼んでいた。


 父が母の面倒をみないと思っていたのはどうにも僕の思い込みであったようだ。

 父も、最後くらいは。なんていうやさしさがある人間だったのだ。




 その頃の父は、よく泣いていた。

 僕が18年間見る事の無かった涙である。


 そして母が僕に何度も感謝の言葉を述べると同じ位、父は母に謝罪の言葉を述べていた。

 何を今さら。なんて思っていたが母が病に倒れてからようやく父は、母を見るようになったのかもしれない。






 母が死んだのは、よく晴れた日の事であった。



 納棺の際、母を覆った黒い布。

 それは母の髪色を思わせた。



「母さんみたいな黒色の髪に生まれたかった」


 二人きりになった食卓で、父の作った料理を見ながら僕がそう呟けば、僕の目の前の父はゆっくりと視線を落とした後に口を開いた。

 


「綺麗な黒髪だった」


 俯きながらそう言う父。そんなとき、僕の地毛が少し視界に入った。

 それは、父さんによく似た金色。



「父さんは、あの街に帰るの?」


 僕と、母さんと、父さんが暮らしたあの街に。

 父は、数秒ぼくの顔をじっと見た後にゆっくりと口を開いてこう言うのだ。「帰らない」と。


 どうにも父さんは、この母さんの実家に残るらしい。

 相変わらず、自分勝手という言葉がびっくりするくらいに似合う人だ。










 母の三回目の追悼ミサも終わった。



 追悼ミサ後の食事であるというのに、相変わらずのドンチャン騒ぎっぷり。まぁこれくらい騒いでくれるほうが余計な事を考えないで済むからいいけど。


 僕は「ルカもこっちに住みなよ」なんてゲラゲラ笑いながら言うおばさん達を適当にあしらいながら、斜め前に座る父を見た。


 頬を染めて、おじさんと楽しげに大きく口を開けて笑う姿。

 あの、北部に三人で暮らしていた時からは想像できない父の姿がそこにはあった。

 いつも静かに新聞を読みながら食事をとっていた、そんな人だったのに。









 夕食の後、父はバルコニーでタバコを吸っていた。


 父がタバコを吸う人だとは知らなかった。

 僕が子供の間は、僕の前で吸わないようにしていたのかもしれない。


 父は、僕を見つけたようでタバコを口から離した後に眉を下げて僕を手招いた。僕は何故か、わざとらしくムスッとした後に父の横に立つ。


 母の家の畑を見下ろす事ができるこのバルコニー。父はタバコをふかしながら、一体どんな気持ちでいるのだろうか。



「父さん、変わったね」


 僕が、嫌味ったらしくそう言えば父さんはまた眉を下げて「僕は元々こういう人間だ」なんてよく分からない言葉を口にした。



 父さんは、本当にいつも自分勝手なんだ。

 ずっとずっと、母さんとは違う女性を愛して。母さんには愛情を傾けなかったのに。

 母さんが死ぬ直前には、優しくしておくってか。本当になんて自分勝手な男なんだ。


 そう言ってやりたかった。

 なのに、父さんがやけにもの悲しげな顔をするから。何も言えなくなってしまう。


 僕はこの人がよく分からなかった。

 


「手紙には、何が書いてあった?」


 父さんは煙を吐きながらそう言った。

 父はどうにも、母から僕に宛てられた手紙の中身を読んでいないらしい。別に読んでもよかったのに。なんて思いながらむすっとしていると、父は黙って僕をじっと見た。



「別に。体調に気を付けてって感じの事だけ……父さんのには何が書いてあったの?」


 父は何も答えなかった。

 ……相変わらずだな。なんて思いながら僕は心の中でため息をついた。


 南部の、生暖かい風が僕と父の髪を揺らす。

 父は口からタバコを離した後に、少し目を細めて風の音を聞いていた。

 何かを思い出したのだろうか。父は切なげに眉を寄せる。


 僕はそんな父の横顔を見ながら、母からの手紙の最後の一文を思い出していた。



 母は、僕に一体何を伝えたかったのだろう?



 父はゆっくりと白い煙を吐く。

 闇に溶けていく白い煙をぼんやりと見ながら、僕は口を開いた。



「……母さんが死んで少し経つね」

「ああ、そうだな」

「父さん。父さんは今どんな気持ちでいるの」


 そう問えば、父は何も答えなかった。

 ただ、黙ってタバコをふかすだけ。

 父の煙によって、肺胞がゆっくりと灰色に染まっていくような感覚に眉を寄せながら、僕はずっと聞けずにいた事をようやく口にした。



「……父さんは母さんを愛していなかったの?」


 そう言えば、父は僕の方を見た。

 父がどのような表情をするのか、少し怖かったが僕は目を離さずにしっかりと父を見た。

 父の青い瞳の中には僕がいる。


 父は、タバコの灰をとんとんと人差し指で落とした後に口を開いた。



「そうさ」


 そう呟く父は、笑っているのである。

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