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解説

1 時代背景


17世紀,教会の地位が宗教改革により失墜し,キリスト教共同体としてのヨーロッパは崩壊した。政治史としてみれば,主権国家誕生の準備が整ったことを意味する。しかし,分裂の危機に晒されたのは,学問も同様であった。それまでヨーロッパの知を担っていたスコラ主義もまた,教会とともに没落したのである。このことは,一方では諸科学が神学から解放され,自然科学の発達および近代社会科学の成立を可能ならしめたが,他方では学問の基礎付けが失われることにも繋がる。同時に,古代の哲学者ピュロンの著作が再評価され,これによって一大懐疑主義ブームが巻き起こった。かくして,「いかなる懐疑にも耐えられる,確実な知は存在するか?」という問いが,17世紀の哲学者たちにおける主要課題となる。様々な学者がこれに回答を与える中,決定的な影響力を持つ人物が登場した。ルネ・デカルト(1596-1650)である。哲学史的にみると,デカルトの「我思う,故に我在り」自体は,既にアウグスティヌスやイスラーム哲学によって発見されていた反懐疑論の論法であり,独創的なものではなかった。しかし彼は,幾何学的方法を用いることにより,哲学の体系的構築を試みる。これが,当時としては革新的であり,スピノザなどもこれに従うことになる。そのときにデカルトが用いたのが,「自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である」という,いわゆる明晰判明の規則である。そして,これが本稿におけるライプニッツの反論対象となる。


2 ライプニッツの主張


(1) デカルト批判


ライプニッツの反論は,要約すると極めて単純である。明晰判明の基準が分からない,というのだ。ある事柄が「明晰判明」であると,なぜ言えるのか。ライプニッツは,デカルトですら曖昧なことを明晰判明扱いしていると非難する。その一例が,デカルトにおける神の実在性に関する証明である。これは非常に面白い議論なのだが,それだけでひとつ解説が書けてしまうため,本稿では割愛する。


(2) 「明晰判明」の定義


そもそも,「明晰」(clara)とか「判明」(disticta,筆者は「整序」と訳した)とは何なのか。ライプニッツは,順番に定義を与える。「明晰」とは,ある概念が,現実の対象を同定可能なときを言う。例えば,1年前に1匹の犬を見たことがあり,その犬をもう一度見たとき,「これは1年前に見た犬と同じだ」と言えるときである。したがって,同定可能性が,明晰の基準になる。次に,「判明・整序」とは,その概念の構成要素を全て,順番に説明できるときを言う。つまり,説明可能性が,整序の基準である。かくして,「明晰判明」(clara et distincta)とは,ライプニッツの場合,現実と比較可能であり,かつ言葉によって説明可能なものという定義になる。


言葉によって説明可能でないものの例として,ライプニッツは単純な感覚を挙げる。例えば,色がそうである。目の見えない人に「赤とは何か?」と訊かれたとき,それは回答不能である。少なくとも,ライプニッツはそう考えたし,現代でもそう考える哲学者は見られる。例えば,ケンブリッジ学派のムーアがそうであった。ムーアは,「黄色とは何か?」と問われたならば,黄色いものを現に示す以外に答えようがないと考える。そしてここから分かるのだが,「整序されていない」(confusa)というのは,言葉によって説明できないという意味であり,概念が混乱しているという意味ではない。私たちが「赤」という概念を有しているのは明らかであり,そしてその概念は全く混乱していないのである。むしろ「動物」や「野菜」という概念と比べて,ずっと明晰である。「トマト」が「野菜」かどうかを悩む人はいても,「青」が「赤」かもしれないと悩む人はいないからである。


(3) 理論的批判:明晰判明=十全ではないこと


さて,ライプニッツはここで,ある重要な指摘をする。仮にある概念が明晰かつ整序されたものであるとしても,すなわち現実対象と比較可能でかつ言葉によって説明されうるものであるとしても,それではまだ不十分である,と。なぜか。ここでキーポイントになるのが,複合的な概念という考え方だ。複合的な概念とは,複数の概念が組み合わさったものに他ならない。例えば,「赤い車」は,「赤」と「車」の組み合わせである。そしてこの「赤い車」は,明晰かつ整序されている。なぜなら,「赤い車とは何か?」と訊かれたならば,私たちは「車輪によって動く乗り物で,かつ赤いもの」と答えることができるからである。これは現実に同定可能であり(明晰),特徴を言葉で説明できている(整序)。ところが,ここからさらに「では『赤いもの』とは何か?」と問われると,先ほどの盲人の問題に立ち返ってしまう。つまり,概念Aをその構成要素a1,a2へと分解したとき,a1あるいはa2が「整序されていない」可能性が存在する。A自体は明晰かつ整序なのだが,その構成要素が整序ではないのだ。


そこでライプニッツは,「十全である」(adaequatus)と「十全でない」(inadaequatus)という区別を設ける。例えば,いくつかの概念の組み合わせから成る概念Aがあるとする。そして,この概念Aが,下位概念a1,a2,a3から成っているとする。このとき,a1,a2,a3の全てが整序された概念であるとき,概念Aは十全であると言い,そのうちのいずれかが整序されていないとき,概念Aは十全ではないと言う。とはいえ,十全な概念ないし認識を挙げることは,ライプニッツ自身が述べているように,非常に難しい。なぜなら,彼の考えによれば,感覚に特有なもの,すなわち色,匂い,味は,整序されていない認識だからである。つまり,五感が基礎になっているものは,どれも十全ではない。したがって,非十全・十全というのは,感覚的・非感覚的と重複するところがある。かくして問題は,「一切の感覚にもとづかない純粋思惟的な認識があるか」ということになる。そしてそれに最も近いものとして,「数」の概念が挙げられる。この「数」の概念を巡る問題はその後,フレーゲやデーデキントなどの,数学者たちが取り組むことになった。


概念の十全性に関する問題は,そのままデカルト批判になっている。なぜならデカルトは,概念は明晰判明であれば真であると言うのだが,それでは不十分だからである。それに加えて,十全でなければならない。すなわち,分析を繰り返してみて,全ての構成要素が整序されているかを検証しなければならない。デカルトの提示した明晰判明の規則に,理論的な綻びが見つかった瞬間である。


(4) 実際的批判:人間は複雑な概念を直観できない


もうひとつの批判は,理論的というよりはむしろ実際的である。人間は,ある複雑な概念を扱うとき,それをある単語で言い表し,深く考えないことがある。これを象徴的認識と言う。ライプニッツが例として挙げているのは「正千角形」である。「正千角形」について考えるとき,私たちはいちいち「千本の辺」を思い浮かべない。「正千角形」という言葉を使い,それで了解が取れているかのように振る舞う。そしてまさにこれが,誤謬に繋がるのである。すなわち人間は,ある単語を適切に使っていないかあるいは理解が不十分であるにもかかわらず,自分はきちんと認識していると誤解しうる。したがって,デカルトが「明晰判明」と述べることも,実際にはただの誤解かもしれないのである。


3 ライプニッツに対する疑問


以上がライプニッツによるデカルト批判であり,これ自体は的を射たものであると,訳者は考える。しかし,ライプニッツは,デカルトの問題意識を正確に把握していなかったのではないかと思われる節がある。ライプニッツはパスカルに賛成しながら,真理の基準として,全ての諸前提が証明されていることを要求する。そして,論理の規則を持ち出す。けれども,懐疑論者の主張は,その論理の規則が疑わしいのではないか,ということであり,デカルトが取り組んだのもまさにそのような疑問についてであった。「論理の規則をも疑いうる」という主張に対して,「論理の規則に従って証明されたものが真である」と答えるのは,明らかに行き違いである。この点でライプニッツは,17世紀懐疑論の問題を克服できていないか,あるいはそもそも気にしていなかったのではないかと推測される。

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