第36話 もう、誰にも一人で走らせない
大均衡から三日後。
中央塔の地下で、封鎖を解かれた断界井が低く唸っていた。
俺は石造りの縁へ左手を置く。
黒い亀裂はまだ手首から肘まで残っている。
アデルが右隣に立ち、フィンが左から保守盤を確認した。
「受領容量、問題なし」
「無理を感じたら離してください」
二人の声へ頷き、《配達》を選ぶ。
腕に残っていた黒が、細い流れとなって石の内側へ吸い込まれた。
市場の車軸。
毒水。
橋。
鉱山。
逃げる途中で拾い続けた、名前のない事故の残り。
全てが手のひらを抜けていく。
【積載率:0%】
黒い亀裂が消えた。
左の指を一本ずつ曲げる。痺れは残っているが、動く。
手首へアデルの指が触れた。
《因果視》で残りを確かめてから、ようやく肩の力を抜く。
「ゼロです。本当に」
「俺の数字も同じだ」
フィンは保守盤へ終了札を差し込み、断界井の蓋を閉じた。
今度の封印は使わせないためではない。次に必要な時、誰が、どれだけ処理したかを記録するためのものだ。
「終わったな」
フィンが大きく息を吐いた。
「第一王国の分は、だ」
俺が答えると、フィンは顔をしかめる。
「そういう余計なこと、今言うか?」
「直人らしいです」
アデルが微かに笑った。
*
三週間後。
中央塔の正面広場から、転移者の処刑告示が撤去された。
代わりに掲げられたのは、新しい法令だった。
《転移者即時処刑令を廃止する》
《召喚、監禁、強制受領を禁ずる》
《全ての魔法利用者へ、利用量と負担量を公開する》
第一天秤塔は《共同衡環》へ改修された。
受領は本人の同意がなければ始まらない。不参加を理由に不利益を与えることも、金銭で困窮者を集めることも禁止された。
国家、教会、魔法施設の運営者が先に安全上限内の負担を受ける。
完璧な仕組みではない。
魔法を減らすべきだという街もあれば、負担を分けて維持したいという村もある。
どちらを選ぶかまで、俺が決めることではなかった。
セヴェランとネルガは、中央広場の公開裁判へ送られた。
転移者召喚、記録改竄、強制注入、脅迫。
押収された財産は、犠牲になった転移者の記録保全と、遺された被害者への賠償へ回される。
審理官が犠牲者を「外界受領器七十四体」と読み上げた時だけ、セヴェランが遮った。
「人だ。記録に残る名を、一人ずつ読め」
だが次の問いでは、自分の判断の必要性を主張し、罪状の一部へ異議を唱えた。
ネルガは映像が偽造だと叫び続けている。
それでも原記録は、すでに国内各地の天告鏡へ複製されている。
一つの塔が消して済む状態には戻らない。
中央塔の記録庫では、歴代転移者の名前を戻す作業も始まった。
「北部を焼いた怪物」「疫病を呼んだ女」とだけ残されていた記録へ、処刑前の救助と本名が追記される。
地球側の家族へ届ける方法は、まだない。
それでも、この世界で何をした人間だったかを、教会の都合だけで決めることはできなくなった。
広場の端で、フィンが落ち着きなく門を見ていた。
西区の治療院から来た荷馬車が止まる。
扉が開き、小さな少女が降りた。
「兄ちゃん!」
フィンの妹だった。
顔色はよく、自分の足で石畳を走ってくる。
フィンは一歩だけ前へ出た後、照れたように鼻を擦った。
だが、妹に腹へ飛びつかれると、そのまま両腕で抱き締めた。
「遅えんだよ」
「兄ちゃんが迎えに来なかったんでしょ!」
少女は兄の腕から顔を出し、俺を見た。
「この人が、おっさん?」
「本人の前で言うな!」
「お前が教えたんだろ」
妹は笑い、次にアデルへ丁寧に頭を下げた。
三人で走ってきた旅が、ようやくこの再会へ届いた。
「負けてますね」
アデルが俺の横で囁く。
「妹には勝てないだろ」
治療師が、フィンの妹の退院証明を持って近づいた。
その後ろから、さらに大きな荷馬車が広場へ入ってくる。
見覚えのない車体だった。
だが、部品には覚えがある。
車軸はカルム鉱山の鉄。
幌布には、火災を救った街の染印。
荷台の縁にはルーデン橋の職人の刻印。
御者台の革張りは、東の村から届いたものだ。
マーラが御者台から降り、鍵を投げてよこした。
「あんたが救った連中からだよ。逃げる時に使った荷馬車は、どれも借り物だったからね」
荷台を覗く。
食料箱、寝具、工具、予備の車輪。
それぞれを固定する場所が決められ、重量は左右へ均等に配分されていた。
「誰が積んだ」
「あんたの話を聞いた連中が、喧嘩しながら決めた」
車体の側面には、新しい名前が彫られている。
《空荷便》
空ではない。
荷物は積まれている。
それでも、一人へ全部を載せないための名前だった。
「おっさん、俺の席は後ろな」
妹と再会したばかりのフィンが、当然のように荷台へ背嚢を置いた。
「妹と一緒にいなくていいのか」
「マーラの宿で暮らす。治療院にも通えるし、俺より面倒見がいい」
少女は兄の外套を掴んだまま、俺を見た。
「兄ちゃんを連れていって。今度は、ちゃんと帰して」
「約束する」
フィンが妹の頭を乱暴に撫で、背嚢の紐を締め直した。
俺の知らないところで、二人は離れている間の話も、これからの暮らしも決めていたらしい。
アデルも銀槍を荷台の専用金具へ固定した。
白い法衣は着ていない。動きやすい灰色の外套だけだ。
「お前も来るのか」
「処刑聖女の資格は失いました」
「仕事だから監視する、とは言えないな」
アデルが一歩近づいた。
「義務ではありません」
俺の左手を取る。
黒い亀裂の消えた指へ、自分の指を重ねた。
「あなたの隣で生きたい。これからも、あなたが一人で背負おうとした時に止めたい。同行を許してくれますか」
「許可じゃない。お前が選んだなら、一緒に来てくれ」
アデルの表情がほどける。
触れるだけの口づけを交わすと、荷台からフィンの大きなため息が聞こえた。
「出発前にやるなよ」
「見なければいいだろ」
「荷台の正面で無理言うな」
俺は御者台へ乗った。
手綱を握る左手には、まだ僅かな痺れがある。
右手を添えれば問題ない。
その時、中央塔の伝令が広場へ駆け込んできた。
「久瀬直人殿。隣国から、至急の密書です」
封を切る。
軍事帝国の紋章が押された短い報告だった。
《十歳ほどの転移者を捕縛》
《三十日後、《狩猟祭》にて公開処刑する》
荷台の空気が変わる。
アデルが銀槍の留め具を確かめた。
フィンは地図を広げ、帝国までの街道を指で追う。
俺は《空荷便》の向きを、隣国へ続く東門へ変えた。
「次は、あの子を一人で走らせない」




