プロローグ
会議室のドアが閉まる音は、思ったより軽かった。
誰も、こちらを見ない。
資料を片付ける音だけが、ばらばらに響いている。
「では、この方向で進めます」
そう言って会議を締めたのは、年下の部長だった。
かつて、私の部下だった男だ。
私は軽くうなずいた。
それで十分だった。
いや――それ以上、何も求められていなかった。
以前なら、違った。
「部長、いかがでしょうか」
そう水を向けられ、最後に口を開くのは私だった。
会議を締めるのも、責任を引き受けるのも、私の役目だった。
今は、その役目は、別の人間にある。
しかもそれが、かつて自分の指示で動いていた部下だという事実は、
思っていたよりも静かに、そして確実に、胸に残る。
――承知しました。
その一言を、私は口にしなかった。
言えなかったのではない。
必要だと思ってこなかったのだ。
四十二歳で、初めて部長になった。
最年少だった。
自分の力で勝ち取ったと、信じて疑わなかった。
引き上げてくれた常務がいた。
だが当時の私は、こう考えていた。
――あの人は、仕事を知らない。
だから、頼ることも、合わせることもしなかった。
数字で証明すれば、それで十分だと思っていた。
三年後、私は外された。
理由は、最後まで腑に落ちなかった。
そして十年後、五十二歳で、再び部長になった。
今度は違うと思った。
私を見ている上司がいた。
この人は分かっている。
そう思えた。
だが、その人が去ったとき、状況は一変した。
気づけば、部長の顔ぶれは入れ替わり、
その中に、かつての部下の姿があった。
彼は、私を知っている。
だが同時に、今の私しか見ていない。
過去は評価にならない。
実績も、肩書きも、ここでは意味を持たない。
あるのは、今どう振る舞うかだけだ。
私は、その振る舞い方を、知らなかった。
会議室を出る。
誰とも目を合わせずに、廊下を歩く。
「担当部長」という肩書きは、軽い。
形はあるが、どこにも力がかからない。
――承知しました。
その言葉を、私は今でも、うまく使えない。
だが、ようやく分かり始めている。
あれは、相手に従うための言葉ではなかった。
この場所に、自分の居場所をつくるための、
最低限の作法だったのだ。




