視察の終わり
視察最終日の朝、領主館の車寄せには、出発を待つ公爵家の豪華な馬車が停まっている。
昨日までの緊張感が嘘のように、朝の光は穏やかで、別れの時間を優しく包み込んでいる。
「シェラ、貴女が一緒じゃないのは本当に寂しいけれど……でも、私たちはお友達。これからも仲良くしてね! 王都に来る時は必ず真っ先に私のところへいらっしゃい、待っているわ。あと、お手紙もたくさん書くわね!」
エレオノーラは、少女らしい無邪気さと、貴族令嬢としての気品が混ざり合った晴れやかな笑顔で私の手を包み込んだ。
「はい。エレオノーラ、こちらこそよろしくお願いいたします。お身体に気をつけて……それから、石鹸で毎日しっかり手洗いしてくださいね。それが一番の健康の秘訣ですから」
「ふふ、心得たわ!」
私がお別れの言葉を伝えている隣で、アルベルト閣下と公爵閣下も硬い握手を交わしている。二人は何やら低い声で話し込んでおり、私には断片的にしか内容が聞こえない。
「アルベルト、世話になった。今回の視察、実に有意義だった」
「いえ、こちらこそ、共同事業の件ありがとうございます。……それから、昨夜は不躾な態度をとってしまい、申し訳ありませんでした」
アルベルト閣下の謝罪に、公爵はフッと可笑しそうに口角を上げました。
「何、構わんよ。……ただアルベルト、私からの最後の助言だ。その天使をどこへも飛び立たせたくないのなら、もう少し強固な鎖で繋ぎ止めておいた方がいいぞ」
その言葉に、アルベルトは苦笑いを浮かべ、「……そうですね。肝に銘じます」と返す。
エレオノーラが馬車に向かおうと歩き出した時、彼女はふと立ち止まり、私にだけ聞こえるような小さな声で耳打ちをした。
「……お父様の右腕、治してくださったのね。ありがとう、シェラ」
私は目を見開き、驚いてエレオノーラを見つめました。彼女はイタズラが成功した子供のような、それでいて全てを見通しているような慈愛に満ちた笑顔を浮かべていた。
「……気づいて……おられたのですか?」
「親子ですもの。お父様がずっと痛みを隠して無理をしていたこと、力になれないかとずっと考えていたの。……視察に来て本当に良かったわ」
エレオノーラは最後に一度、私にウィンクをして馬車に乗り込んだ。
動き出した馬車の窓から、彼女が手を振る姿が見える。
(……あの父にして、この娘あり、ね)
私は隣に立つアルベルト閣下と共に、馬車が見えなくなるまでその背中を見送った。
肩の荷が下りた安堵感と、大切な「お友達」ができた高揚感。辺境の朝風が、とても心地よく吹き抜けていった。
公爵親子を乗せた馬車が、辺境の街道へと消えていく、その背中を見送った後、アルベルトは重い足取りで執務室へと戻った。
その後ろを、ユーリとヴォルクスが追っていく。
シェラには今日は休息を命じた。
「……それで。公爵閣下は最後になんと?」
執務室の扉が閉まるなり、ヴォルクスが問いかける。
アルベルトは執務机に手を突き、深刻な面持ちで唸るように答えた。
「『天使を飛び立たせたくないのなら、もっと強固な鎖で繋ぎ止めておけ』……と、忠告された」
その言葉を聞いた瞬間、執務室に沈黙が流れる。
最初に口を開いたのは、ユーリだった。
「鎖……。それは、比喩ではなく物理的な拘束の話ではありませんよね、閣下?」
「当たり前だ。……だが公爵は、シェラの価値が王都で知れ渡りつつあると言っていた。あいつを失いたくないのなら、誰にも手出しさせない公的な『繋がり』を持てということだろう」
アルベルトが真剣な瞳で二人を見つめる。
「……つまり、それは『婚約』あるいは『婚姻』……貴族令嬢という立場だけでは足りないと…」
「……っ、おそらく、そういうことだろう」
閣下の返答に、ユーリ先生の眉間がピクリと跳ねた。
「……だが、彼女はまだ11歳だ」
アルベルト閣下は、絞り出すような声で呟いた。
その瞳に宿っているのは、公爵への対抗心ではなく、自分自身の内側にある「独占欲」への嫌悪感のようにも見える。
「精神は私達と対等に語り合えるほどに成熟し、その能力も王国の至宝と言っても過言ではない。だが……肉体も、社会的な立場も、彼女はまだ守られるべき子供だ。そんな彼女を、こちらの都合で『婚約』という鎖に縛り付けることが、果たして正しいのか……」
閣下は机に背を預け、天井を仰ぐ。
「自由に生きてほしい。その翼を、俺が折るような真似はしたくない。……だが、同時に、あいつが自らの意志で、俺を選んでくれる日が来るのを、どうしても待ってしまうのだ」
「……閣下」
ユーリが、目元を押さえる。
11歳という年齢。本来なら王都の学園に通い、友人たちと無邪気に遊んでいるはずの時期。そんな彼女に「辺境伯夫人の座」を突きつける重みを、誰よりも理解しているのはこの3人だ。
「今の彼女に愛を説いても、それは『信頼』や『親愛』としてしか受け取られないでしょうね。……閣下、貴方の戦いは、魔獣を倒すよりもずっと過酷な『忍耐』の戦いになりますよ」
ユーリの少し意地悪な、けれど同情の混じった言葉に、閣下は力なく笑った。
「ああ、分かっている。あいつが大人になるまで、あるいはこの地を『自分の居場所』だと確信してくれるまで……私は、領主として、守り続けるしかない」
ヴォルクスが、低い声で付け加える。
「……ですが、閣下が動かなければ、他人が動くことになります。11歳だろうが、その価値に気づいた者は手段を選ばない。……守るための『婚約』が必要になる事は遠くないですよ」
「ああ。わかっているつもりだ」
アルベルトは恋なのか愛なのか執着なのか。
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