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偽物聖女と呼ばれた私は、奇跡ではなく医術で王国を救う  作者: sixi


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第二十八話 言葉

西棟の朝は、もうすっかり“始まる前から始まっている”場所になっていた。


裏門が正式に開くより少し前から、外には人の気配が集まり始める。まだ列と呼ぶほど整ってはいない。けれど誰もが、どこへ立てばいいか、誰に声をかければいいかを、前より少し知っている。


門番は慣れた様子で具合の悪そうな者から目を配り、エルザは廊下の先で使用人へ短く指示を飛ばす。マティアスは帳面と筆を抱えて机につき、下働きの娘たちは布を運ぶ。


人が増えただけではこうはならない。


場に言葉ができ始めたからだ。


どう並ぶか。


何を伝えるか。


何を見ておくか。


何を先にやるか。


そういうものが、少しずつ共有され始めていた。


レティシアは机の上の帳面を開きながら、それをぼんやり思う。


最初はただ、自分が忘れないために書いていた。


次に、教会に飲み込まれないために書いた。


そして今は、この場所の中で言葉を揃えるためにも書いている気がした。


「レティシア様」


マティアスが新しい頁をめくりながら言う。


「今日は、最初に来た方から“どう伝えればいいですか”って聞かれました」


「どう答えたの?」


「ええと……」


彼は少し気まずそうに頭をかく。


「“最初に、一番困ってることからでいいです”って」


レティシアは少し目を瞬いたあと、小さく笑った。


「いい答えだと思う」


「本当ですか」


「全部を順番どおり話せなくても、一番困ってることが見えればそこからほどけることが多いから」


マティアスはほっとしたように頷いた。


少し前まで、彼はただ書き取るだけだった。


今はもう、来訪者が話しやすいように最初の言葉を渡せるようになっている。


それもまた、この場に言葉が育っている証だった。


最初に通されたのは、五歳くらいの男の子を連れた母親だった。


子どもは熱があるらしく、目の下が少し赤い。だが歩けているし、呼びかけにも答える。緊急ではない。けれど母親の表情は切実だった。


「一番困ってることからで大丈夫です」


マティアスが先にそう声をかけると、母親は一瞬、驚いた顔をした。


「……一番、困ってること」


「はい」


レティシアも頷く。


「熱そのものでも、夜のことでも、教会で言われたことでも」


その最後の言葉に、母親の肩が少し震えた。


「昨夜、教会で……“まだ大丈夫そうだから家で見ていなさい”って言われたんです」


やはり、そこからだった。


「でも、何を見ていればいいのかわからなくて」


「わかりました」


レティシアは男の子の顔を見ながら言う。


「今日はまず、“大丈夫そう”を自分で少し判断できるようにしましょう」


そう言った瞬間、母親の表情が目に見えてほどけた。


治ります、とは言っていない。


大丈夫です、とも言っていない。


ただ、判断できるようにしましょうと言った。


それだけで人は、少し踏ん張れるようになる。


そのやり取りを帳面へ書きつけながら、マティアスが新しく足した欄の見出しを指でなぞった。


来訪時の困りごと。


この欄は本当に役に立っていた。


熱、咳、吐き気だけでは見えないものが、ここには出る。


夜が怖い。


様子見の線がわからない。


教会で言われたことに納得しきれない。


家族にどう伝えればいいかわからない。


そういう“言葉にならない困りごと”が、ようやく少しずつ言葉になってきていた。


二人目は、病人を連れていない父親だった。


背は高いが、妙に縮こまっている。部屋へ入るなり帽子を握りしめ、どこへ立てばいいかわからないように視線を泳がせた。


「座ってください」


レティシアが言うと、男は慌てて頭を下げる。


「すみません、俺みたいなのが先に話していいのか……」


「いいです」


「子どもじゃなくて、妻なんです」


「はい」


「それで、その……昨日ここへ来た近所の者に、“まず困ってることから言え”って言われて」


レティシアはほんの少し笑ってしまった。


もう外で使われ始めているのだ、その言葉が。


「では、一番困ってることは何ですか」


父親はすぐには答えなかったが、やがて観念したように口を開いた。


「夜になると、息が苦しそうに見えるんです。でも本人は“平気”って言うし、俺が騒ぎすぎなのかどうかもわからなくて」


「なるほど」


それはよくある困りごとだった。


病人本人が弱音を小さく言い、付き添いの方が判断に迷う。


その時に必要なのは、あなたが気にしすぎだと突き放すことではない。


見るべきところを渡すことだ。


「では、“苦しそう”をもう少し分けてみましょう」


レティシアは帳面の余白へ小さく線を引く。


「息が速いか。浅いか。横になった時と起きた時で違うか。呼びかけに返事が遅くないか。水は飲めているか」


父親は真剣に聞き、何度も復唱した。


その横で、セラが少し誇らしそうに見ている。


彼女もまた、最初はこうして言葉を渡された側だった。


今では時々、来たばかりの母親へ「その言い方だと伝わりにくいから、まず飲めてるかから話すといいよ」などと、小さく助け舟を出している。


西棟で育っているのは、施療だけではない。


伝え方そのものなのだ。


昼前、エルザが少し面白そうな顔で戻ってきた。


「裏門で、こんなやり取りをしていました」


「どんな?」


「“まず一番困ってることから言うんだよ”って、先に来ていた母親が後ろの人に」


思わずレティシアは笑った。


マティアスも、さすがに吹き出しそうになる。


「広がるの、早いですね」


「ええ」


エルザは静かに頷く。


「でも、その方が列が乱れにくいです。皆、自分が何を伝えるべきかを少し考えて待てるので」


その言葉を聞いて、レティシアははっとする。


ただ優しいだけの言葉ではないのだ。


言葉が共有されると、場が回りやすくなる。


不安が少し整理され、伝えるべきことが早く見える。


それは結果として、より多くの人を見られることにも繋がる。


奇跡とは違う。


でも確実に、人を助ける形だ。


午後、少し落ち着いた時間に、マリアがユリウスの記録紙を持ってやってきた。


今日は顔色がだいぶよかった。


「自分でお水を欲しがったあと、少しだけ本を読みたいと言ったの」


「本当に?」


「ええ。ほんの少しだけだけれど」


その報告に部屋が明るくなる。


ユリウスの回復は、この場にいる者にとっても希望だった。奇跡のように一瞬で治るわけではない。でも、小さく持ち直していく姿は確かにある。


マリアは紙を渡しながら、机の上の帳面を見た。


「前より、ずいぶん項目が増えたわね」


「はい。病気のことだけじゃ足りなくなってきて」


「今日は何を書いているの?」


レティシアは少し迷ったが、正直に答える。


「“どう伝えればいいかわからない”って来る人が増えてるので、その言葉も残そうかと」


マリアは少し驚いたように、それから深く頷いた。


「大事なことね」


「そうでしょうか」


「ええ。言葉が持てないと、人は自分が何に困っているのかも見失うもの」


その言葉は、侯爵夫人自身の実感なのだろう。


奇跡の前で沈黙していた頃の自分を思い出しているのかもしれない。


「今のわたくしがそうだもの」


マリアは苦笑した。


「前なら“苦しそうです、どうにかしてください”しか言えなかったわ。でも今は、“今日はこれだけ飲めました”“呼びかけにはこれくらい返ります”“夜はこの時間が一番つらそうでした”って言える」


レティシアはしばらく黙った。


それはすごく大きな変化だった。


病気そのものが軽くなるのとは別に、人が自分の見たものを言葉にできるようになる。


それだけで、誰かに届く情報の質が変わる。


「……やっぱり、言葉ですね」


ぽつりとそう言うと、マリアが優しく笑う。


「ええ。たぶん、この場が人に渡しているのはそれよ」


夕方近く、前に来たことのある老女がまた顔を出した。


今日は病人の付き添いではなく、近所の様子を見に来たらしい。


「面白いこと言っていいかい」


「どうぞ」


「最近、井戸端で“奇跡がどうこう”って話をする人より、“で、ちゃんと様子は話したのかい”って聞く人の方が増えてきたよ」


レティシアは目を瞬く。


老女はにやりとした。


「皆、あんたのとこで覚えたんだろうねえ。“熱がある”だけじゃ足りないって」


マティアスがその言葉を帳面へ残そうとしたので、レティシアは頷いた。


残すべきだと思った。


井戸端で使われる言葉が変わる。


それはこの場の外で、確実に何かが育っている証だ。


夜、来訪者が引いたあと、レティシアは今日の頁を見返した。


困りごと。


判断の不安。


夜の見守り。


どう伝えるべきか不明。


そして余白に、小さくいくつも書かれた言葉。


まず一番困ってることから。


大丈夫そう、を自分で少し見る。


息が速いか、浅いか。


飲めているか。


返事があるか。


どれも地味だ。


地味で、華やかさはない。


でも、それらの言葉があることで、ここへ来る人は少しだけ話しやすくなり、少しだけ自分で見やすくなり、少しだけ待つ時間に耐えられる。


帳面を閉じる前に、レティシアは一行だけ書き足した。


本日、来訪者間で“まず一番困ってることから伝える”との言葉、共有されつつあり。


それを書いてから、しばらく眺める。


西棟で育っているものに、ぴったりの名前はまだないかもしれない。


でもたしかに、それは言葉だった。


奇跡より先に手渡され、薬より先に人を落ち着かせ、記録と一緒に残っていくもの。


この場は、知らないうちにそういう場所になっていた。

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