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偽物聖女と呼ばれた私は、奇跡ではなく医術で王国を救う  作者: sixi


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第二十七話 王都の机上

西棟では、その日も朝から人が絶えなかった。


裏門に並ぶ顔ぶれは、もはや見慣れたものになりつつある。子どもを抱いた母親、家族の様子を聞きに来た父親、咳の長引く老人、そして自分の番が来た時に何を伝えればいいのか整理しきれないまま立ち尽くす人たち。


レティシアは一人ずつ話を聞き、マティアスが帳面をつけ、エルザが人の流れを整え、セラが覚えたことを次の母親へ小さく伝える。


いつも通りの西棟だった。


ただひとつ違うのは、ルシアンがもうここにいないことだけだ。


王都へ戻った文官が、あの写しをどう扱っているのか。


レティシアには知りようもない。


知りようはないまま、それでも目の前の水と布と紙に向き合うしかなかった。


一方その頃、王都では。


政務局の建物は、朝のうちから静かな忙しさに満ちていた。


廊下を行き交う役人たちの足音は急いているのに、声は不思議と低い。書類が積み上がる部屋ほど、人は大声を出さないものだ。紙の上の一行で話が動く場所では、かえって沈黙の方が重い。


ルシアン・ベルナールは、自席へ着くなり、持ち帰った革鞄を机の上へ置いた。


上司へ上げる前に、最後の整えをする必要がある。


机の上にはすでに別件の書類も積まれていたが、彼はまず西棟の写しを一番上へ置いた。地方侯爵領における施療運用上の観察事項。題は地味だ。だが中身は軽くない。


「戻ったか、ベルナール」


背後から声がした。


振り向くと、同じ室にいる年上の文官――オーギュスト・レヴェルが、手に書類を持ったままこちらを見ていた。五十近い男で、派手さはないが、読み落としの少ない目をしている。


「ええ、今朝方」


「侯爵家の件か」


「はい」


ルシアンが写しの束を軽く示すと、オーギュストは机の端へ腰を預けた。


「噂は少し聞いている。偽物聖女だの、上級聖女と揉めただの」


「その話にすると、ずれます」


ルシアンは即座に言った。


オーギュストの片眉が上がる。


「ほう」


「問題は、聖女の勝ち負けではありません。待てない者が出る運用になっていることです」


その一言で、年上の文官の目つきが少し変わった。


面白半分の噂ではないと察したのだろう。


「見せろ」


ルシアンは整理済みの最初の数枚を差し出した。


オーギュストは無言で読み始める。


来訪者数。


教会待機指示の重なり。


夜間対応の空白。


付き添いへの説明の効果。


民の実感と教会説話の乖離。


読んでいるうちに、彼の顔から軽い興味が消えていった。代わりに出てきたのは、厄介な話を前にした時の無表情だ。


「……これは」


「ええ」


「個別の揉め事では済まんな」


「そう判断しました」


オーギュストは紙を机へ戻し、短く息を吐く。


「上に回す前に、件名を見せろ」


ルシアンが表紙を向けると、彼は小さく頷いた。


「悪くない。余計な刺激が少ない」


「“偽物聖女”も“聖女の失敗”も避けました」


「正解だ」


オーギュストは即答した。


「そんな言葉を前へ出せば、読む者は面白い方へ流れる。必要なのはそうじゃない」


「はい」


そこで彼は少し考え、机上の紙の端を指で叩いた。


「ただ、このままだと“地方の一例”として処理される可能性もあるな」


ルシアンもそれは考えていた。


「ですので、末尾に補足をつけました。再現可能な要素の整理です」


「見せろ」


補足部分を読むと、オーギュストはうっすら口元を動かした。


「……“待機中の行動指針”か」


「そこが肝だと考えました」


「聖女の代替ではなく、空白を埋める手順として読むわけだな」


「はい」


「いい」


その短い評価に、ルシアンは内心で少しだけ肩の力を抜いた。


少なくとも、この室では通じる。


まもなく、室の奥から呼び出しがかかった。


局内の中位責任者、マルタン主任が戻ったらしい。四十代後半、教会とも貴族とも無用な軋轢を避けたがる一方、数字が揃っている話には案外弱い男だ。


ルシアンとオーギュストは書類を持って主任室へ向かった。


主任室は広くないが、紙の置き方に無駄がない部屋だった。壁際の棚、窓際の机、印章箱、差し込みの封書。物の配置で人柄が知れる。


マルタン主任は椅子に座ったまま顔を上げた。


「戻ったか。侯爵家への届け物だけで済む話ではなかったようだな」


「はい」


ルシアンは一礼し、書類を差し出す。


「地方侯爵領における施療運用上の観察事項です」


主任は題を見て、まずそこに引っかかりを覚えなかったらしい。淡々と表紙をめくる。だが数頁進んだところで、さすがに眉が寄った。


「待機指示……夜間対応の空白……」


紙をめくる指が少し遅くなる。


「これは教会との摩擦事案か?」


最初の問いがそれだった。


予想通りだ。


ルシアンは落ち着いて答える。


「発端としてはそう見えます。ですが中身は、施療運用の受け皿不足です」


「ふむ」


「特定聖女の能力問題として扱うと、対立か噂話で終わります。ですが実態は、“待てる者”を前提にした運用のため、待てない者が夜間や混雑時にこぼれ落ちている、というものです」


主任は書類から目を上げないまま言う。


「言い切るな」


「失礼しました。可能性が高い、です」


「……その方がいい」


数秒の沈黙。


紙をめくる音だけが続く。


やがて主任は末尾の補足へ目を通し、そこで初めて椅子へ深くもたれた。


「侯爵家の西棟でやっていることは、何だ?」


「観察、飲水補助、環境調整、付き添いへの説明、記録です」


「薬ではなく」


「今のところ主ではありません」


「奇跡でもなく」


「はい」


主任はそのまましばらく考え込んだ。


窓の外では、政務局の中庭を横切る役人の影が動いている。


「……妙だな」


「と、申しますと」


「こういう話は普通、“奇跡が効かなかった”だの“教会が冷たい”だのに流れる」


「ええ」


「だがこれは違う。説明不足と待機時の空白が前へ出ている」


「そこが問題の核だと見ました」


主任は机上の紙へ指を落とした。


「“地方施療運用の見直し”」


ぽつりとそう呟いたのは、独り言に近かった。


だがルシアンは聞き逃さなかった。


それは、この件を扱う言葉として初めて出てきたものだった。


聖女の失敗でも、異端でも、地方の騒ぎでもない。


地方施療運用の見直し。


言葉がつくと、問題の居場所が変わる。


個人から制度へ。


噂から行政へ。


主任自身も、その言葉を口にしてから少し考え込んだようだった。


「まだ見直しと言うには早いかもしれんな」


「はい」


「だが、観察事項として棚に上げておくのも違う」


オーギュストがそこで口を挟む。


「まずは整理案件にしておくべきでしょう。教会側への即照会ではなく、類例の有無の確認からでも」


主任は頷く。


「そうだな。いきなりぶつければ角が立つ」


角が立つ、という言い方はこの男らしい。


だが実務としては正しい。


ここで教会へ正面から投げつければ、防御されて終わる可能性が高い。まずは王都側の言葉と枠組みを作る必要がある。


「ベルナール」


「はい」


「この件、単独事案ではなく観察継続でまとめ直せ」


「承知しました」


「件名も少し変える。“施療運用上の観察事項”だけでは弱い」


主任は短く考えてから言った。


「“地方施療運用に関する補助観察”でどうだ」


ルシアンは一瞬考え、頷く。


「よいと思います」


「補助、と入れておけ。教会の本筋へいきなり踏み込む意図ではないと読める」


その配慮も、いかにも王都らしい。


だが必要な処理だった。


主任はさらに数枚をめくり、民の言葉を拾った摘要欄で指を止めた。


「“立派なことを言うが、自分の時には話を聞いてもらえなかった”……」


読み上げる声は平坦だったが、そこだけ微妙に重かった。


「こういう文言は残すべきか?」


ルシアンは答える。


「全面には出しません。ただ、説話と実感の乖離を示す例としては有効です」


「感情的すぎると弾かれる」


「承知しています。ですので摘要扱いに留めました」


「よろしい」


主任は書類を閉じた。


「これは当面、局内整理に回す。関連する地方報告が他にないかも拾え」


オーギュストが頷く。


「私の方でも古い記録を当たってみます」


「頼む」


そこで主任はルシアンを見た。


「侯爵家西棟の娘は、今後どうなると見る?」


問いは直截だった。


ルシアンは少し考えてから答える。


「二つの可能性があります。ひとつは、教会が圧を強め、個人問題として潰しにかかること」


「もうひとつは」


「場として必要とされ、個人を越えて機能が残ることです」


主任は無言で頷いた。


「なら、後者へ寄せる言葉を用意しておくべきだな」


それこそが、今この部屋で生まれつつあるものだった。


西棟ではまだ知られていない。


レティシアも、マティアスも、セラも、あの帳面が王都でどう呼び替えられ始めているかを知らない。


だがこの机の上では、すでに“偽物聖女の騒ぎ”ではなくなりつつある。


地方施療運用の見直し。


補助観察。


待機時空白。


行動指針。


そういう地味な言葉たちが、現場を守るための新しい外壁になり始めていた。


主任室を出たあと、オーギュストが廊下で小さく言った。


「うまく持ち込んだな」


「まだ入口です」


「入口が一番難しい」


それは本当だった。


入口を間違えれば、全部が噂になるか、対立になるか、握り潰されるかのどれかだ。


だが今は少なくとも、王都の一室で“見直し”という言葉が生まれた。


それだけでも十分に大きい。


同じ頃、西棟では。


レティシアが帳面へ、新しく来た子どもの飲水量を書き込んでいた。


マティアスが隣で、来訪時の困りごとの欄に「夜の見守り不安」と書く。セラは母親へ、少しずつ飲ませるやり方を説明している。エルザは裏門の列を見て、具合の悪そうな順を入れ替えていた。


いつもの西棟だ。


誰も知らない。


その裏で、王都の机の上では、自分たちのやっていることが個人の噂ではなく、“地方施療運用の見直し”という言葉へ変わり始めていることを。


レティシアは何も知らぬまま、今日の頁に新しい一行を書いた。


来訪者、父親単独。家族の様子を説明し、判断基準を求む。


そしてその文字の向こうで、物語はもうひとつ別の場所でも進み始めていた。

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