第二十二話 偽物聖女の帳面は、母親たちの反抗まで書き残してい
朝の騒ぎがようやくひと段落した頃、西棟の一室には、妙に張った空気が残っていた。
修道女たちが去っていったあとも、その場にいた誰もが、さっきのやり取りを胸の中で反芻しているのがわかった。布を畳む手が少しだけ遅い。湯を運ぶ足音がいつもより静かだ。マティアスに至っては、帳面を前にしたまま、まだ何度か瞬きを繰り返している。
無理もない。
教会の人間に向かって、一人の母親が真正面から「もう頭は下げません」と言ったのだ。
この領で、それは小さな出来事ではない。
「マティアス」
レティシアが声をかけると、彼はびくりと肩を震わせた。
「は、はい」
「さっきの続き、書けますか」
「……やります」
その返事には、少しだけ熱があった。
怖がっているだけではない。今の場を、自分も見た一人として残さなければならない、という気持ちが生まれているのだろう。
レティシアは机へ向かい、自分でも別の紙を引き寄せた。
まだ整っていない字で構わない。
今は残すことの方が大事だ。
夜間来訪、一名。
女児、高熱、反応鈍い。教会にて朝まで待つよう告げられる。
母親、侯爵家へ移動。
夜明け後、教会側の確認あり。
母親、自ら経緯を説明し、待てなかった理由を述べる。
“もう頭は下げません”――。
そこまで書いたところで、筆が一瞬止まった。
言葉としてそのまま残していいのか、迷いが生じたのだ。
帳面は記録だ。
感情の勢いで脚色してはいけない。
だが、今の言葉はただの感情ではなかった。昨夜から今朝にかけて何が起きたか、その結論でもあった。
レティシアは小さく息を吐き、言葉を整えた。
母親、教会へ一方的に従う意思を示さず。
昨夜の対応について異議を述べる。
それを書きながら、少しだけ物足りなくも感じた。
リタのあの声の強さが、記録の上ではだいぶ丸くなってしまう。
だが帳面は、誰かを煽るためのものではない。
読み返した時に、何が起きたかを追える形でなければならない。
「難しい顔をしていますね」
ルシアンの声に顔を上げると、彼はいつの間にか机の向かいへ立っていた。
「言葉をどこまでそのまま残すべきか考えていました」
「ええ。それは迷うところです」
彼はレティシアの書いた行をのぞき込む。
「ですが、今の書き方でいいでしょう。“反抗した”と書くより、“異議を述べた”の方が、後で読み返した時に事実へ寄っています」
「……反抗って、やっぱり強すぎますか」
ルシアンは少しだけ笑う。
「気持ちとしては正しいかもしれません。でも記録は、読む相手によっては武器にも、口実にもなります」
その言葉に、レティシアは頷いた。
その通りだった。
教会がこの帳面を敵意の証拠として扱う可能性もある。ならば、こちらは感情ではなく経緯を残すべきだ。
「でも」
セラがぽつりと口を挟んだ。
トーマの寝台の脇に座ったまま、少しだけ唇を尖らせている。
「反抗って言いたくなる気持ちはわかる」
リタが、困ったように笑った。
「そんな立派なもんじゃないよ……ただ、もう無理だっただけで」
「それがすごいんです」
セラは思いのほか強く言った。
「前なら、教会の人に何か言われたら、私たちみんな、すぐ“すみません”って言ってた」
その言葉に、部屋の空気が静かに揺れる。
誰も否定しなかった。
たぶん皆、思い当たるのだ。
教会の前では謝るものだ。
順番を待たされても、見てもらえなくても、祈れと言われても、そういうものだと思ってきた。
だが今朝、リタは違うことをした。
そしてその違いは、もう見なかったことにはできない。
マリアが静かに言う。
「だからこそ、残すべきなのよ」
全員の視線が侯爵夫人へ向く。
彼女はユリウスの記録紙を手に持ったまま、落ち着いた目で帳面を見ていた。
「母親たちが何を言われ、何を見て、どう変わったか。病気の様子だけでなく、それも大事な変化でしょう」
レティシアは少し驚いた。
マリアがそこまではっきり言うとは思っていなかったからだ。
だが考えてみれば、彼女自身も変わった一人なのだ。
奇跡を信じて閉め切った部屋に息子を寝かせていた人が、今は記録を取り、夜の母親へ湯を持っていく。
変わっている。
だから、他の母親たちの変化にも気づくのだろう。
ルシアンも頷く。
「ええ。施療の技術が広がることと、民の側の態度が変わることは、別のようでいて繋がっています」
「繋がっている?」
マティアスが尋ねる。
「はい」
ルシアンは穏やかに説明する。
「“何をすればいいか知っている人”は、“ただ待て”と言われた時に前より疑問を持ちやすい。昨夜の母親もそうでしょう。“待つしかない”ではなく、“この子は今こういう状態だから待てない”と、自分で判断した」
レティシアはその言葉を聞きながら、胸の奥で小さく納得する。
そうか。
やり方を知ることは、ただ助けになるだけじゃない。
自分で判断する力にもなるのだ。
だから教会は嫌がる。
民が、完全に従うだけの存在ではなくなるから。
扉の向こうで、また新しい来訪者の気配がした。
今日は朝から切れ目がない。
エルザが顔を出す。
「次の二組を通します。おひとりは母親と子ども。もうおひとりは、昨夜のことを聞いて来たという婦人です」
「昨夜のことを?」
レティシアが眉を上げると、エルザは少し呆れた顔になった。
「広いようで狭いですから、この辺りは」
そう言って下がる。
やはり噂は速い。
しかも今度は、病気そのものだけでなく、“母親が教会へ言い返した”ことまで広がり始めているのだろう。
先に入ってきたのは、三十前後の女だった。連れている娘は熱があるらしく、頬を赤くして母親の腰へしがみついている。
母親は部屋へ入るなり、あたりをぐるりと見回し、それからレティシアを見る。
「……本当に、帳面つけてるんですね」
最初の言葉がそれだった。
レティシアは少し面食らう。
「はい」
「隣の家の人が言ってたんです。ここは、来た人の様子も、何をしたかも書いてるって」
そう言いながら、女は少しだけ声を潜めた。
「今朝、教会の人に言い返したお母さんのことも……書くんですか」
部屋の空気がまた少し変わる。
リタが目を丸くする。
もうそこまで伝わっているのか。
レティシアは慎重に答えた。
「必要なことは残します」
「必要なこと……」
女はその言葉を繰り返し、それからぽつりと言う。
「じゃあ、嘘にされにくいんだ」
その一言は、静かだった。
けれどとても重かった。
誰かが見たこと。
言われたこと。
断られたこと。
助かったきっかけ。
それらが口伝えだけなら、あとからいくらでもねじ曲げられる。
でも、帳面に残れば、少なくとも“なかったこと”にはしにくい。
女は娘の頭を撫でながら続けた。
「教会の人って、後になると“そんなつもりじゃなかった”って言うことあるでしょう」
セラが苦く笑う。
「ある」
「だから、書いてあるって聞いて、少し安心して来たんです」
レティシアはその言葉に、少しだけ息を止めた。
帳面が守るものは、施療の中身だけではない。
人の言葉や立場までも、少しは守りうるのだ。
ルシアンが横で静かにメモを取っている。
彼もまた、この変化を逃す気はないのだろう。
やがてその女は、娘の様子を見てもらい、家での飲ませ方や様子の見方を聞き、何度も復唱してから帰っていった。帰り際、帳面へちらりと視線を向けていたのが印象に残った。
次に入ってきた婦人は、病人を連れていなかった。
年は四十を少し越えたくらいだろうか。近くの商家の妻らしい身なりで、しゃんとした雰囲気がある。
「娘さんを診ていただきたいわけではなくてね」
そう前置きしてから、彼女は椅子にも座らず言った。
「今朝の話を聞いて、確かめたくて来たの」
「何をでしょう」
レティシアが尋ねると、婦人ははっきり答えた。
「本当に、教会へ異議を唱えた母親のことまで書き残すのかを」
リタが小さく身じろぎする。
婦人は彼女へ一礼した。
「あなたを見世物にしたいわけじゃないのよ。ただ……必要だと思ったの」
「必要?」
「ええ。誰か一人が言い返しても、“感情的になっただけだ”で終わらされるでしょう。でも、それが記録に残るなら、“そういうことが起きた”になる」
その理屈は、妙にまっすぐだった。
ルシアンが興味深そうに婦人を見る。
「あなたは商いをされている方ですか」
「ええ。夫が布を扱っています」
「なるほど。帳簿に慣れておられる」
婦人は少しだけ笑う。
「帳簿にない話は、後でいくらでも変わりますもの」
その一言に、レティシアは目を瞬いた。
それは施療にも、まったく同じことが言える。
「だからね」
婦人は続けた。
「もし本当に書き残すなら、私はそれを支持したいわ。病気そのものもそうだけど、言われたこと、待たされたこと、母親がどう動いたか。それはもう、ただの家の中の話じゃないもの」
レティシアは少し迷ってから答えた。
「……残します」
婦人は満足したように頷いた。
「なら、そのうちこの部屋はもっと嫌われるでしょうね」
「教会に、ですか」
「いえ」
婦人ははっきり言う。
「“都合よく忘れたい人たち”全員に、よ」
その言葉は部屋に長く残った。
都合よく忘れたい人たち。
教会だけじゃないのだろう。
見て見ぬふりをしたい者。
順番があるから仕方ないで済ませたい者。
誰が困っていたかを曖昧にしたい者。
そういうもの全部にとって、帳面は面倒だ。
でも面倒だからこそ、必要なのだ。
婦人が帰ったあと、マティアスがぽつりと呟いた。
「この帳面、思ってたよりずっと怖いものなんですね」
「怖い?」
「はい。病気のことだけ書くものじゃないんだなって……」
レティシアは机の上の紙を見下ろす。
水が飲めた、吐いた、眠れた、反応が弱い。
そういう言葉の横に、母親の異議や、教会の言葉や、持ち帰った説明が並び始めている。
たしかに、最初に思っていた帳面とは少し違うものになってきた。
「でも」
レティシアは静かに言う。
「だからこそ消されにくいのかもしれない」
「どうしてです?」
「病気だけなら、“たまたま”で片づけられることもある。でも、何人もの母親が同じように待たされて、同じように困って、同じようにここでやることを覚えて帰るなら……それは偶然じゃなくなる」
ルシアンが小さく頷く。
「ええ。個別の噂が、傾向になります」
傾向。
国や制度を動かす者にとっては、その言葉の方が大きいのだろう。
誰か一人が助かった、ではなく。
同じことが何度も起きている。
同じ不満が、同じ場所に集まっている。
同じやり方が、人から人へ渡っている。
そこまで見えてしまえば、もう無視しにくい。
午後、リタがようやく少しだけ眠った時、レティシアは新しい頁を開いた。
本日、近隣住民より確認あり。
帳面に教会とのやり取りを残すことへの関心、高し。
記録が“嘘にされにくい”との認識あり。
商家の婦人より、言動の記録の必要を示す意見あり。
書きながら、自分でも少し不思議だった。
こんな記録をつける日が来るとは思わなかった。
病気の帳面のはずなのに、そこにはもう人の態度や、町の空気まで入り始めている。
けれどたぶん、それでいい。
偽物聖女の帳面は、症状だけを残すものでは足りなくなったのだ。
ここで何が起き、誰がどう変わり、何に異議が出始めたのか。
そこまで書いて、初めて今の現実に追いつく。
夕方近く、マリアがユリウスの記録を持ってまた顔を出した。
「今日は自分で水を欲しがったわ」
「本当ですか」
「ええ。昨日よりずっとはっきり」
その知らせに部屋が明るくなる。
だがマリアはそのまま、レティシアの書いていた頁にも目を落とした。
「……ずいぶん増えたわね」
「はい」
「病気のことだけじゃなく?」
「もう、それだけじゃ足りないみたいです」
マリアは少しだけ笑った。
「そうね。変わっているのは身体だけじゃないもの」
その言葉に、レティシアも小さく笑う。
そうだ。
変わっている。
患者も、母親も、使用人も、侯爵夫人も。
そしてたぶん、自分自身も。
帳面は、その変化まで飲み込みながら厚くなっていく。
夜、最後に頁を閉じる前、レティシアは今日のまとめとして一行を足した。
母親たちの異議、単発にあらず。
記録への期待、広がりつつあり。
その文字を見つめながら、彼女は思う。
偽物聖女の帳面は、もうただの補助ではない。
母親たちの反抗まで書き残していく。
そしてそれは、教会にとって、きっと病そのものより厄介な広がり方を始めていた。




