第二十一話 朝まで待てと言った司祭に、母親はもう頭を下げなかった
夜が明ける頃には、西棟の一室はひどく静かだった。
静かといっても、穏やかな静けさではない。誰もが一晩ぶんの緊張を身体の奥に抱えたまま、ようやく声を潜められるようになっただけの静けさだ。
寝台ではエマが浅い眠りを繰り返している。
熱はまだある。
だが、夜の底にいた時のような沈み方ではない。呼びかければ、まぶたがわずかに動く。口元を湿らせれば、ほんの少しだけ水を受ける。
それだけだ。
それだけだが、“朝まで待て”のまま家にいたら見失っていたかもしれない小さな変化だった。
エマの母親――名をリタといった――は、椅子に座ったまま娘の手を握っていた。泣き疲れた目をしているくせに、昨夜より顔つきが崩れていない。極限まで怯えた人間が、ほんの少しだけ「まだやることがある」と思えた時の顔だ。
侯爵夫人マリアは夜明け前に一度ユリウスの部屋へ戻ったが、ほどなくしてまた西棟へ顔を出した。
「ユリウスは眠っているわ。熱も昨日よりは落ち着いてる」
「よかった……」
レティシアが息を吐くと、マリアはエマの寝顔を見て、小さく眉を寄せた。
「こちらはまだ油断できないわね」
「はい。でも、夜の最初よりは」
「ええ。わかるわ」
そのやり取りの横で、リタが遠慮がちに口を開く。
「あの……」
レティシアもマリアも彼女を見る。
「私、朝になったら……教会へ、もう一度行こうと思ってたんです」
その声には迷いがあった。
助けを求めたい気持ちはある。
でも、昨夜“待て”と言われた場所へ戻ることへのためらいもある。
「どうして?」
マリアが静かに尋ねる。
「……一応、司祭様にも伝えた方がいいかと」
レティシアは何も言わなかった。
そう考えるのは当然だ。この領では、病や施療の話は最終的に教会の許しへ行き着く。たとえ夜にここへ駆け込んでも、朝になれば“本来の筋”へ戻らねばならないと思う人は多い。
だが、その時だった。
裏門の方から何やらざわめきが起きた。
朝の来訪者にしては、少し様子が違う。
エルザが早足で入ってくる。
「レティシア様、侯爵夫人様」
「何かあった?」
マリアが問うと、エルザは珍しく露骨に眉をひそめていた。
「地方教会の修道女が二人、来ています」
部屋の空気が変わる。
リタの肩がびくりと跳ねた。
「教会が……」
「ええ」
エルザは短く答える。
「昨夜、教会へ駆け込んだ母親が侯爵家へ流れたと聞きつけたのでしょう」
レティシアは息を整える。
早い。
だが、想定の範囲内でもある。
夜のうちに門番や周囲の者から伝わったのだろう。“朝まで待てと言われた母親が、結局侯爵家へ行った”という話は、教会にとって都合が悪すぎる。
「どうしますか」
エルザの問いは、誰を入れるか、という意味だ。
マリアが先に答えた。
「通して」
「奥様」
「ここで起きたことを、見ずに帰らせる方が面倒よ」
その判断に、レティシアは小さく頷いた。
逃げる必要はない。
むしろ、昨夜のことは隠さず見せるべきだ。
ほどなくして、修道女が二人入ってきた。
地方教会で見覚えのある顔だった。マルグスの側に控えていた者たちのうちの二人だ。年かさの修道女は口元を固く結び、若い方はやや落ち着かなげに視線を揺らしている。
年長の修道女が、まずマリアへ一礼した。
「侯爵夫人様。朝早くより失礼いたします」
「用件は?」
マリアの声は静かだった。
「昨夜、教会へ相談に来た母子がこちらへ移ったと聞きました。教会として状況を確認したく」
その言葉を聞いた瞬間、リタの指先が強くこわばるのが見えた。
エマの手を握る手に力が入り、唇がかすかに震える。
修道女は続ける。
「病を前に混乱されるお気持ちは理解しております。ですが、本来は教会の指示に従い、順を守っていただかねば――」
「順を守って、朝まで待てと?」
レティシアより先に、マリアが言った。
部屋がしんと静まる。
修道女は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「奥様、それは……夜間は対応に限りがあり――」
「だから待てと言ったのね」
「はい。司祭様へ取り次ぐにも順がありまして」
「その順を待っている間に、この子がどうなると思っていたの?」
マリアの声は荒くない。
だが静かであるぶん、逃げ場がなかった。
修道女は口ごもる。
「それは……神のご加護を祈りつつ――」
「祈りながら、反応の鈍くなった子を朝まで抱いていろと?」
若い修道女が、はっと顔をこわばらせた。
昨夜の話は、すでにどこかで聞いていたのかもしれない。
リタは俯いたままだった。
だがその肩はもう、昨夜のようにただ震えるだけではない。何かを堪えているような、そんな硬さだった。
年長の修道女はレティシアを見た。
「そもそも、この方が正式な施療師でないことはご存じでしょう。聖印も持たぬ身に夜中の判断を仰ぐなど、危ういことです」
「危うい?」
今度はリタが顔を上げた。
声はかすれていた。
けれど、はっきりしていた。
「危ういのは……どっちですか」
部屋の全員の視線が彼女へ向く。
修道女も一瞬、目を見開いた。
リタは娘の手を握ったまま、震える声で続けた。
「私、昨夜、教会へ行きました」
「……ええ」
「でも、朝まで待てって言われたんです」
その言葉の重さが、部屋の空気を少しずつ変えていく。
リタはもう俯いていなかった。
「この子、その時もう、呼んでもぼんやりしてて……目も、ちゃんと開かなくて……怖くて、でも待てって言われて」
若い修道女が気まずそうに目を伏せる。
年長の修道女はなおも顔を保とうとした。
「夜間は全てに対応できません。皆が苦しいのです。特別扱いは――」
「特別扱いじゃないです!」
リタの声が、かすれながらも強く響いた。
「助けてほしかっただけです!」
その叫びに近い言葉に、セラがびくりと肩を震わせた。
マティアスは部屋の入り口で帳面を抱えたまま固まっている。
レティシアはリタを見つめた。
昨夜は涙で崩れそうだった母親が、今は怒っていた。
恐怖の次に来る感情だ。
ようやく、それが口を持った。
「ここへ来て」
リタは続ける。
「この子、少しだけでも水を口にしたんです。呼んだら、少しだけど反応もした。まだ全然安心できないって言われたし、私もそう思う。でも……何もしないで待つだけじゃなかった」
修道女たちは何も返せなかった。
リタはそこで、はっきりと顔を上げた。
「だから、もう頭は下げません」
その言葉は、決して大きな声ではなかった。
けれど部屋じゅうに響いた。
「昨夜、私は教会でお願いしました。どうか見てくださいって。朝まで待てって言われても、怖いって言いました。それでもダメだった」
リタの目には涙が浮かんでいた。
だが、その涙は昨夜の涙とは違う。
ただ怯える者の涙ではない。
「ここでは、少なくとも待ってる間に何をすればいいか教えてもらえました。娘をどう見ればいいかも。だから……もう、ただ“お願いします”って下を向いて帰るつもりはありません」
修道女の年長者が何か言いかける。
「しかし――」
「しかしじゃありません」
マリアがぴしゃりと言った。
「この母親は、昨夜、自分の子を守るために動いたのです。そしてその結果、朝を越えた」
その一言に、修道女たちは完全に言葉を失った。
レティシアは胸の奥が強く打つのを感じた。
これは、教会への勝ち負けの話ではない。
一人の母親が、“教会の前では頭を下げるしかない”という当たり前を崩した瞬間だった。
年長の修道女は、かろうじて体裁を整えるように背筋を伸ばした。
「……教会を敵に回すことが、どのような意味を持つかはご理解いただきたいものです」
その言い方に、また場の空気が冷える。
だが今度は、リタは怯まなかった。
「敵にしたいわけじゃありません」
彼女はゆっくり言う。
「でも、子どもが悪くなってるのに朝まで待てと言われて、それで何も言わずに帰るほど、もう私は馬鹿じゃない」
若い修道女が、はっと息を呑んだ。
年長の修道女の顔が強張る。
マリアは静かに頷いた。
「よく言ったわ」
リタはその言葉に少しだけ肩の力を抜いたが、視線はもう下を向かなかった。
レティシアは机の上の帳面へ目をやる。
昨夜の記録がそこにある。
夜間来訪、一名。
女児。高熱。反応鈍い。夜間、教会で朝まで待てと言われる。
その行はただのメモではなくなった。
今この場で、一人の母親の声を支える証拠になっている。
ルシアンも、いつの間にか扉のところへ来ていた。おそらく途中から話を聞いていたのだろう。彼は静かに部屋へ入ると、修道女たちへ向かって穏やかに言った。
「昨夜の記録なら、こちらにも残っています」
修道女の顔色が変わる。
「王都の……」
「ええ。私は噂だけでなく、時刻と経緯も確認する立場ですので」
柔らかい声音のまま、逃げ道を狭める言い方だった。
「母親が何を訴え、教会がどう返し、その後どこで何が行われたか。それが残ることは、誰にとっても大切でしょう」
年長の修道女は、完全に不利を悟った顔をした。
ここで押し通せば、単に“夜間に母子を追い返した教会”の印象を強めるだけだ。
彼女は一礼したが、その動きは硬かった。
「……本日は失礼いたします。司祭様へ報告いたします」
「そうなさい」
マリアが短く答える。
二人の修道女が去っていく。
扉が閉まったあと、部屋にはしばし誰も言葉を出せなかった。
最初に小さく息を吐いたのはセラだった。
「すごい……」
「何が?」
レティシアが聞くと、セラはまだ驚いた顔のまま言う。
「教会の人に、あんなふうに言い返す人、初めて見た」
リタはその言葉に少し気まずそうにしたが、否定しなかった。
「怖かったです」
正直な声だった。
「今も、怖いです。でも……昨夜の方がずっと怖かった」
それは本当なのだろう。
夜の暗がりの中、腕の中で反応の薄くなる子どもを抱え、朝まで待てと言われること。
その恐怖を越えたから、もう“教会だから”というだけで黙って頭を下げるところまでは戻れない。
ルシアンが机の上の帳面を見て言う。
「今のやり取りも、残した方がいいでしょうね」
レティシアは頷く。
「はい」
マティアスが慌てて筆を構える。
レティシアは言葉を選びながら、口にした。
「朝、教会の修道女来訪。夜間対応について確認。母親、自ら経緯を説明。“朝まで待てと言われたが、子の悪化を前に待てなかった”と証言」
書きながら、マティアスの手が少し震える。
それでも筆は止まらなかった。
マリアがリタへ温かい湯を勧める。
リタはそれを受け取り、両手で包むように持った。
娘の寝顔を見つめるその横顔は、疲れきっているのに、昨夜よりずっと強かった。
レティシアは思う。
人は、助けてもらったから強くなるだけじゃない。
“自分の見たことは間違いじゃなかった”と確かめられた時にも、強くなる。
昨夜、リタは恐怖の中でここへ来た。
そして今朝、自分の選択が娘の小さな変化に繋がっているのを見た。
だからもう、頭を下げるだけの母親ではいられなかったのだ。
窓の外では、朝の光が屋敷の庭を照らしている。
裏門の方には、また新しい来訪者の気配が集まり始めていた。
きっと今日も、人は来る。
待てと言われた人も、祈れと言われた人も、何をすればいいかわからず震えた人も。
そしてその中には、もう黙って頭を下げるだけではいられない人が、少しずつ増えていくのかもしれない。
レティシアは新しい頁を開き、今日の日付の下にそっと書き足した。
夜を越えた母親、教会へ頭を下げず。
経緯、自ら語る。
その一行は短い。
けれどたぶん、後から見返した時、昨日までとは違う変化の始まりとして残るだろう。
“偽物聖女”の周りで起きているのは、病人の回復だけではない。
民の側の顔つきが変わり始めている。
その事実を、今日の朝ははっきりと見せていた。




