61 百人一首をアレンジ84 ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき
読みに来てくださってありがとうございます。
どうしても納得できない部分があって、二晩寝かせてしまいました……。
よろしくお願いいたします。
もし、今からさらに長生きしたとしたならば、つらいと感じられる今のことを懐かしいなあと、自然と思い出されるのだろうか。つらいと思った過去のことも、今となっては懐かしく思われることだよ。
今がつらくて大変だって言うのに、爺さんたちは「何年か先に振り返れば、いい思い出になるもんだ」なんて言ってやがる。信じられるか?
正直に言おう。今、僕は本当に困っている。どのくらい困っているかと言うと、身売りする寸前というほどだ。
お前、何をしたのかって?
新規取引先として紹介されたとあるお貴族様の所にお伺いしたんだよ。爵位はご子息が引き継いでいるから、前夫人に当たる方だったんだけどさ、その方から愛人になれって言われて、その場で丁重にお断りしたんだよ。
そしたらさ、「わたくしを拒否するなんていいご身分ね」って言われてさ。そのまま従僕に引きずられて、邸の外に連れ出されたんだ。
それだけって? そんなわけないだろう。
翌日、その御婦人の名前で慰謝料を払えっていう督促状が届いたんだ。その書類によれば、僕が御婦人に言い寄ったってことになっている。逆だろって思ったから、文句を言いに行ったらさ。執事が言うんだよ。「お前には、それを証明できない」って。
一人で来いって、そういうことだったんだって。僕はその時やっと気づいたんだ。証明できない以上、お貴族様に反抗したところで勝ち目はない。
だけど、要求された慰謝料っていうのが、死ぬまで働いたって出せる額じゃない。全財産はたいた上に僕自身が奴隷落ちしても、まだ借金が残る。
僕は減額を願いに行った。そしたらさ、「奥様のお望み通りにすれば問題ない」だってさ。
冗談じゃない。僕には将来を約束した恋人だっていた。そう言ったら、今度は彼女がどうなってもいいのかって脅された。
「平民の娘の一人や二人、どうとでもなるものです」
涼しい顔でそう言った執事を、僕は絶対に許せないと思った。
だけど、彼女の命の方が大切だ。僕は彼女に、正直に事情を話した。そして、奥様のことを言いふらしたら殺されるかもしれないから、絶対に言っちゃいけない、僕自身何とかするから、それまでは分かれたことにしておこう、そう説明したんだ。
彼女は青い顔をしてうなずいていたよ。
身の潔白を証明するために、誰を頼ればいいか調べながら、僕は金を工面した。秘密厳守の約束がある法律事務所に行って相談もしたが、無実の証明ができない以上は裁判を起こしても負けるだけだと言われた。
そうこうしているうちに、彼女から会いたいと言ってきた。
「どうしたんだ?」
「ごめん、父さんが、私を嫁に出すって」
「どうして……」
「どうやら、父さんの所にも圧力がかかったみたい。私を逃がすために、さっさと嫁がせるのが一番だって言って……」
僕は絶句した。貴族と言うのはそこまでするのかと思った。彼らにとっては思い通りにならない人間など、人間ではないんだろう。
「ごめん。僕の脇が甘かった」
「ううん、こればっかりは仕方がないよ。むしろ、私だけ逃げるような形になってごめん」
「いや、どうか安全なところに行ってほしい。どこに向かうんだい?」
「隣国よ。国境を越えて最初の町にある織物商だって」
「もう、会ったのか?」
「ううん、年齢と名前しか知らないわ」
「え……」
彼女の顔は、口元だけ笑みを浮かべていた。無理やり笑顔にしているのが分かる。その程度には、彼女のことを知っているつもりだ。
「その織物商、辺境伯閣下のお抱え商人の一人なんだって。だから、何かあっても守られるって」
「それなら……」
「うん。そのうち、うちの家族も引っ越すことになっているわ」
「その方が安全だよな」
「うん……」
僕は彼女を最後に一度抱きしめようとしたけれど、伸ばしていた手をひっこめた。だって、人様の婚約者になってしまった。そんな人を僕なんかが抱きしめて、もし破談になったら大変だと思ったんだ。
「だから、さよなら」
彼女が精一杯の虚勢を張っている。それが痛々しかった。
「お祝いをあげたいけれど、今の僕には……」
ふと、新品のハンカチがバッグの中にあるのを思い出した。今まで染料として使われていなかったりんごの木の皮から取り出した染料を使い、染め上げられたサンプル品のハンカチ。柔らかくて素朴な黄色が美しい。染物商として独立したばかりの僕が手に入れた、唯一無二の素材だった。どこからかこの染物のことを聞きつけて興味を示し、見せてほしいと言ってきたのが、あの御婦人だった。縁起がいいのかわからない代物だが、この染物の価値は、彼女にならわかってもらえる。
「思うところはあるかもしれないけれど、これを」
「いいの?」
「もしかしたら、あの御婦人は、この染物を独占するために、僕を奴隷落ちさせて買うつもりなのかもしれない」
彼女はハンカチを握りしめた。
「この染物の権利書は?」
「まだ僕の手元にある」
「私、これを使ってあなたを何とかできないか、相談してみるわ。だから、その権利書、一旦譲ってもらえないかしら」
「向こうが独占する前に、世に出してしまおうってことか」
「ええ。それも、隣国から流せば……」
「そうだな」
どうせこのままなら、あの貴族家に奪われてしまう。それなら、信頼できる彼女に、国外に持ち出してしまった方がいい。
僕はいったん彼女と別れて家に戻った。そして、権利書と試作品のすべてを持って彼女の家に行った。事情を話せば、彼女の父親も賛成してくれた。
「利益は、必ず君の名前で残す。そう契約書に書いておこう」
「いつか、きっと」
「悪いことをする奴を、お天道様は許さない。それがすぐか、数十年後か、死んだ後の審判の場なのか、それは分からないが」
「どうか、その染料だけは守ってください」
「商標登録は?」
「まだ、登録前です」
「すぐに登録しよう。商標名は君がつけろ」
彼女の父親も商売人だ。商会を立ち上げた後、両親のいない僕に、織物商としてアドバイスしてくれた。僕にとっては第二の父親だ。
「それなら、『りんごの微笑み』と」
「わかった。いいか、必ず生きなさい」
「はい」
僕はそう言って、彼女の家から出た。もちろん、彼女の家を見張っている奴らがいるのは分かっていたから、彼女の家の荷馬車に隠れて出入りしたんだけどね。
多分、あの権利書を御婦人に渡せば、僕は売られることもなかっただろうと思う。それでもどうしても、あの『りんごの微笑み』を、僕がやっとの思いでたどり着いた染料を、信頼できない人の儲けの手段にされるのだけは嫌だったから、あれでいいんだ。
人通りが多い場所で荷馬車から降ろしてもらうと、僕は通りすがりを装って「ありがとう」って御者に言った。目を合わせるのは危険だったから、かれがどんな顔をしていたかは分からないけれどね。
家に戻った僕を、あの貴族家の執事が待っていた。
「金は用意できたか?」
「いいえ。払えません」
「ならば、お前自身で払ってもらう」
彼のほかにいる者を見て、僕は奴隷として売られるのではなく、御婦人の元に連れていかれるのだと気づいた。
「では、一緒に来ていただけますか?」
「どこへ行くのだ?」
「決まっているでしょう。奴隷市場です」
執事の顔が青くなった。
「そんなことを、奥様は要求していらっしゃらない」
「いいえ、慰謝料をとおっしゃいました。もっといえば、それが言いがかりであり、僕の人生をつぶしたということもあなたはよくわかっているはずだ」
執事が苦い顔をして僕をにらんだ。多分、身ぎれいにしてから連れてこいとあの御婦人に命令されていたんだろうが、こっちはその手には乗らない。それに、この男は奴隷市場のことをよく知らないようだったから、ちょうどいい。
「行きますよ」
「待て、お前は……」
「金を用意するためです。ああ、多分不足するんで、これ、この家と、家にあったものを換金して作ったお金です。もうじき新しい住人がくるんで、早く出ないと不法侵入者扱いされますよ」
僕の言葉に、執事は他の使用人に目配せして片づけを始めた。僕が「先に奴隷市場に行って手続してきます」と言うと、逃亡を危惧したんだろう、一人従僕をつけてきた。
「じゃ、行きましょう」
僕は奴隷市場の事務所に顔を出した。そして、手続きを取りたいと言った。
「どうしてお前が自分を売る必要がある?」
オーナーは僕の話を聞いて気の毒がってくれた。
「でしたら、奴隷契約書に、あの御婦人の一家、使用人に連なる者には売らない、と明記してもらえませんか。これが約束できないなら、どれほどの値をつけたとしても買わない、と」
「いいだろう。で、お前、いくら借金があるんだ?」
その金額に、オーナーはふむと考え込んだ。
「いくら貴族の慰謝料だと言っても、商取引の損害賠償でもなければ、婚約破棄に対する慰謝料でもないのに、ちょっと高すぎるな。この請求書、俺が預かってもいいか?」
「はい」
「では、お前はこれから奴隷としてその身を売る。代金は金貨30枚だ」
「そんなに高く買ってもらえるんですか?」
「逆に言えば、金貨30枚がなければ、お前は平民に戻れないということだ」
金貨1枚は、平民の家族が1年に必要とする生活費に相当する。つまり、30年分の生活費に相当する額を、僕のために払ってくれるというのだ。僕があの御婦人から要求されたのは、金貨40枚。家財を売って作ったお金は金貨5枚。残りの借金は、あと金貨5枚分だ。
「どうしてここまでの値をつけてくれたんですか?」
「お前には、染料の知識と技術があった。それを生かせばもっと多くの金を手に入れられたはずだ。だからさ」
僕は契約書にサインすると、金を受け取った。
「あの、少し多いのでは?」
「少しくらい自分の金がないとな。売られた先で少々手持ちが必要とされることもある、ほら、冥府で三途の川を渡る時だって、渡し守には代金を払わなければならんだろう?」
世知辛い。僕は金貨三十枚だけを袋に残し、それ以外の金を首からぶら下げた小袋に入れた。金貨なんて持っていたら大変なことになる。金貨の十分の一の価値を持つ小銀貨1枚と、小銀貨の百分の一の価値を持つ白銅貨10枚、白銅貨の十分の一の青銅貨10枚。いざというときのための小銀貨と、日常生活で使える小銭と思えばよさそうだ。
従僕は黙ってそれを見ていた。例の執事がやってくると、僕は金貨30枚が入った袋を執事に渡した。
「残りは金貨5枚。この5枚分は家で建て替え、こいつが売られた先で稼いだ分を家がもらう形にする」
「待て、この男は当家で買う」
「残念だが、市民権がある状態で契約した書類により、この男はあんたの所の御主人だけでなく、あんたの御主人の所で働く者、関係する者の誰もこの男を買えないことになっている。この契約を守れぬものには売らないことも明記されている」
「この野郎、だから俺たちを後にしたのか!」
執事が手にした鞭で僕を殴ろうとしたが、従僕が足をかけて転ばせた。
「お前、何をするんだ!」
「人の足に勝手に躓いておいて、詫びはないんですか?」
「お前!」
殴り掛かろうとした執事の手は、従僕によってあっさりと止められた。
「俺が傭兵上がりで、護衛を兼ねていること、お忘れじゃありませんか?」
「あ……」
「俺は雇われた。だから、雇われた分の仕事をしている。傭兵は契約内容を重視するから、この元染物商の男と奴隷商の間で成立した契約も理解している。あんたたちには、この契約に入り込む権利はない」
「貴族家の名を使えば」
「そんなことをすれば、貴族が平民の契約に強引に割り込んだって悪評が立つだけ。それで済めばいいくらいだ」
「どういうことだ?」
「場合によっちゃ、王都の法務院が出てくることになる。法務院に調べられたらまずいことになるのは、奥様たちのほうでは?」
うぐ、と執事がうなった。従僕の顔を見ると、僕に小さくうなずいた。例の御婦人は、どうやら相当黒いんだな、と思った。
「むしろ、法務院が出てきた方が、この元染物商の男などは奴隷から救済されるかもしれないな。それも、奥様の金で」
「か、帰るぞ!」
執事たちが青い顔をして出ていく。あの執事は御婦人の側の人間なのだろうが、従僕や周りにいた使用人たちは、どうやらそうではないのだな、と僕は気付いた。
「あんた、大変だろうが……頑張って帰ってこいよ」
従僕が僕の肩をトントンとたたいた。
「あの……ありがとうございます」
「いや、あんたが救われる道を閉ざしただけかもしれん。悪かった」
「いえ、なんとか頑張ってみます」
従僕は出て行った。彼があの御婦人から理不尽な目に遭わないといいな、と思った。お天道様、どうか彼を見守ってください、そう心の中で祈った。
・・・・・・・・・
数日後、僕に買い手がついた。隣国との国境近くにある、貴族所有の大きな農園で働く農奴、それが僕の新しい肩書だ。
他にも何人か同じように農奴として買われた。農奴と言えば、きついというイメージがある。僕はビビりながら農園に向かう馬車に乗った。仲間の中には既に数軒で働いたことがあるという男もいた。
「農奴に限らないが、主の考え方一つで奴隷生活が天と地に分かれるほど変わるもんさ」
馬車に揺られながら、僕はへええ、と思いながらその男の話を聞いた。
「一番きついのは奴隷鉱夫。常に死と隣り合わせさ。普通の鉱夫が掘り始める前に、奴隷鉱夫がまず掘り始める。先端の一番きつくて危険なところばかり回される」
「先端って、きついのか?」
「ああ。場所によっては鉄砲水が出ることもある。その水が熱湯ってこともある。岩盤が弱くて崩落したこともあった」
「そりゃ、危険だなあ」
「ああ。事故があれば基本的に先頭にいた奴ほど被害は大きいし、逃げる間もない。助けてももらえない」
「それは……」
「確かに、行きたくないな」
「だから、奴隷鉱夫にならずにすむように、働きやすい所で、できるだけ長く働く。次の所にさっさと売り飛ばされない。これが俺の信条だ」
なるほどな、と僕は思った。仕事探しと同じだ。根底にある「仕事を選べない・強制されても文句を言えない身分」であることに変わりはないが、奴隷であっても主から認められれば奴隷から解放してくれることもあるんだから、できるだけ頑張ろうってな。
到着した先は、広大な葡萄畑が広がる農園だった。
「今の時期は、葡萄畑。季節ごとに違う畑に移動する。適性を見た具合で、働く畑を固定することもある」
「はい」
この葡萄畑の葡萄は、主にワインの原料となるらしい。そのワインをさらに蒸留してブランデーも作っているそうだ。時期はクリスマスを終えたばかりで、当然実があるわけではない。葉っぱは全て落ちて、ひょろりとした蔓性の木なのだということがよくわかる。
「今日はもう遅いから、明日からな」
僕は、葡萄畑のことを考えながら眠った。翌日、葡萄の木の剪定をした。余計な枝があると、栄養がばらけておいしい葡萄にならない。だから、剪定や摘果は重要な仕事だ。積み上げられていく枝を見て、ふと僕は思った。
僕の「リンゴの微笑み」は、リンゴの枝を煮だして作った染料だった。葡萄だったら、どんな色が出るんだろう?
「あの」
僕は監督役に声をかけた。
「この枝は、どうするんですか?」
「捨てる。薪にすることもあるが」
「あの、少しでいいので、いただけませんか?」
「何が目的だ?」
「僕は染物商でした。剪定したこの枝が捨てられるだけであれば、染料として使えないか、実験したいのです」
「お前、そんな時間があるとでも?」
「もし成功すれば、産業化できます。捨てられるはずだったものから特産品ができるかもしれないんです。ゴミが、お金を生み出すかもしれません」
監督役は少しだけ考えると、上の許可が必要だと言った。だから、しばらく待て、と。
僕は葡萄の枝を一ヵ所にまとめて、処分する場合でも処分しやすいように並べていった。そんな僕の様子を、監督役はじっと見ていた。
毎日、重労働だった。とはいえ、例の先輩によると、ここは好待遇らしい。
「日が暮れれば作業はお終いだろう? 日が暮れたって室内でできる作業もあるから、夜の11時くらいまで作業させられて、朝は日が昇る前からっていうところも多いんだ」
睡眠時間はしっかりとれる。その分、頭も働く。あの御婦人に悩まされていた時よりも、よっぽど安眠できる。僕は、安眠によって頭がすっきりしてくるのを感じていた。そして、すっきりし始めた頭で、染料のことを考えていた。必要な道具、やり方、もし染めるなら木綿か、麻か、絹か。
数日後、作業が終わったところで監督役に呼ばれた。
「ついてこい」
僕はおとなしく監督官についていった。農奴の寮を過ぎ、使用人たちの棟を通過した。
「あの、どちらへ」
「いいから黙ってこい」
「はい」
なんだか怖くなってきた。不安に押しつぶされそうになった時、大きな建物の前についた。
「ここは、辺境伯家の騎士団が演習をする際に使う建物だ。向こうには演習場が広がっている」
「はあ」
話が見えず、僕は気のない返事をした。
「辺境伯閣下が、お前と話をしたいそうだ」
「え」
その言葉に、僕は足を止めた。
「どうした、新規産業の立案をしたんだから、それについて説明が欲しいとお前が呼ばれたんだ」
「貴族の方は」
「うん?」
「貴族の方は、信じられません」
「おい、それはさすがに無礼だ」
「僕は貴族の未亡人に言いがかりをつけられ、奴隷落ちしました」
「それはその婦人が悪人だっただけだ。会ったこともない人を、その見分だけでお前は拒絶するのか? お前は、商売の芽があるのに気付きながら、そのままその芽を踏み潰すような奴だったのか?」
「それは……違います」
「ならば、お前の目で閣下を見定めろ。そしてお前の言葉で説得してみろ。お前の未来が変わるかもしれないチャンスだぞ」
「本当ですか?」
「こんなことで嘘は言わない。だから、自信を持って行ってこい」
「わかりました」
僕は腹を決めた。監督役が門番に何か言うと、すっと門が開かれた。建物内に入る時も、監督役が何か言えばすぐに通された。ということは、今日、僕たちが来ることが、事前に通知されていたということになる。僕は連絡系統がきちんと機能しているんだな、と感心した。大きな商会では、末端まで指示系統が機能せず、会頭の指示が伝わらないなんてこともよくある。話がこじれて大変な時もある。だからこそ、ここの辺境伯閣下は厳しく、きちんと機能させているんだろうな、と思った。
ある部屋の前につくと、扉の外に衛兵がいた。監督役が何か言うと、衛兵が扉をノックし、「葡萄畑の監督と、農奴が参りました」とよく通る声で声をかけた。
「入れ」
中から、低く重い声がした。腹の底に響くような声だった。
監督役に促されて、僕も続いてその部屋に入った。ダークブラウンの家具が、落ち着いた雰囲気を作り出している。いいものだろうな、と僕の目が感じ取る。
「例の、葡萄の剪定枝の件でございます」
「ああ、こっちへ来てくれるか」
僕は監督役に従って頭を下げた。
「辺境伯閣下、お忙しい中お時間を作ってくださり、ありがとうございます」
「問題ない。いい話ならば、すぐに進めたいからな」
辺境伯閣下は、大きなデスクの向こうから僕に声をかけてきた。
「お前、名前は?」
「はい、アルバンと申します」
「アルバンは染物商だったとか」
「はい」
「貴族の未亡人に目をつけられて奴隷落ちしたと聞いたが、詳しく教えてもらえるか?」
僕はかいつまんで話をした。話を聞いた辺境伯は大きなため息をついた。
「愚かな貴族がいたものだな。それで、お前が作った染料は外国に持ち去られたということか」
「それを売って、僕の身請け金にしてくれることになっていますが、本当にそうなるかどうかはわかりません。ただ、あの御婦人の手に渡ることだけは避けたかったのです」
「最期のあがきだったということだな」
「はい」
「それで、その知識と技術を生かせば、捨てるはずの葡萄の剪定枝から染料を取り出すこともできると?」
「どんなものでも染料は出ます。ただ、その色が、人から求められる色かどうかということなのです。つまり、売れるものか否か。そればかりは、やってみないと分かりません。単体ではいい色にならなくても、酢を加えたら色が変わるなんてこともあるので、実験が必要です」
「なるほどな。お前の感覚としては、あの枝からどんな色が出ると思う?」
「赤葡萄と伺っておりますので、紫に近いピンク色、薄い赤、薄い赤紫あたりを予想しております」
「女性受けしそうな色ですな」
辺境伯の側には一人の男が立っていた。副官だろうか。僕は思い切って声をかけた。
「染める素材にもよります。少しだけ手持ちがございますので、勤務時間後に実験する許可をいただけないでしょうか」
「ふむ。よかろう。必要なものがあれば、監督に言え」
「は、ありがとうございます!」
「もし、新たな産業になったならば、その時はお前を奴隷から解放すると約束する。そのまま、お前には染物商として働いてもらおう」
僕の目から、思わず涙がこぼれた。監督役からは、「よかったな」と言われた。辺境伯も監督役も、強面だがいい人たちなんだと分かった。
翌日、必要なものをリストにして監督役に渡すと、その日のうちに揃えてくれた。だから僕はその晩から実験を始めた。
枝を細かく裂いて薄めの麻袋に入れ、コトコトと煮だしていく。時間と色を記録しながら、ある程度の色が出てきたところで、火を止めた。そこで今日の作業はお終いだ。さらにその翌日、冷ました液に用意された麻の糸を浸す。数日欠けて染料液に何度も漬け込み、そのたびに色の付き具合を記録していく。
そんな作業をしていると、農奴の爺さんたちが「大変じゃのう」などとからかってくる。だけど、こちらは命がけだ。うまくいけば奴隷から解放され、また大好きな染物だけを考えながら生きていける。
三か月ほど経ったところで、中間報告を求められた。僕は、一番いいと思われる淡い紫みのピンク色に染まった糸を持っていった。
「鮮やかな色ではないが、これはこれでいい色ではないか」
辺境伯と副官がうんうんとうなずいている。
「麻ではない素材を使ったらどうなるか、これから実験します」
「絹か?」
「はい。もし同じような色が出れば、若いご令嬢のドレスにふさわしいお色になるかと」
「そうだな」
僕はそれから、絹糸で染め始めた。麻とはやはり色の付き方が違う。きれいな色が出た。僕はそれを、監督に頼んで信用できる織り子に預け、布に織ってもらった。織り上がった布を見て、織り子は「いつかあたしもこんな生地で縫った服を見てみたいもんだねえ」と言っていたそうだ。
僕はその反物を持って、辺境伯に会いにいった。辺境伯はその反物を手に取ると、侍女長を呼び、どこかにもっていかせた。
僕たちがこれからどうするかを話し合っている時、部屋の扉がバン! と開かれた。
「お父様! あの布、どうしたんですか!」
辺境伯閣下のお嬢様だった。そういえば、来年社交界にデビューする年齢だと、何かの時に閣下が言っていたことを思い出す。
「ここにいる男が、葡萄の剪定枝からとった染料で染めたものだ」
「え? あの葡萄の?」
「あの布は、わが領の葡萄で染められたものだ。マーヤ、お前、あれは売れると思うか?」
「売れるわ。今まで見たどのピンク色とも違う、不思議できれいな色だと思ったの」
「ならば、こうしよう。社交界デビューのドレスは白と決まっているが、その後着るドレスは、あの反物から作るとよい。そして、あの布を宣伝しろ。この地に、新しい産業を興すぞ」
「ええ、私も協力するわ!」
僕は目頭が熱くなった。
それからはもう、忙しかった。監督役からの命令で、僕は午前中は畑作業を、午後は染物の作業をするようになった。剪定した枝が足りなくなってきたが、ある分だけでいいから作れと言われた。全て使って糸を染め終えた時、僕は放心してしまった。よくやったと思うよ、自分でも。
染めた糸が布になっている時、ちょうど葡萄の摘み取りが始まった。葡萄を積み、運ぶ。女性農奴たちが大きな桶に入って葡萄をつぶしていく。これは赤葡萄で、赤ワインになるそうだ。白ワインは、白ブドウの皮と種を取ってから身をつぶすらしい。へえ、と思った。白ワインを作る過程で出る残渣からも染められないかな、などと考えながら、葡萄を運び続ける。これがなかなか大変だった。
葡萄の漬け込みが終わると、醸造については専門家たちの作業になる。いや、物を運ぶのは農奴の仕事なのだが、葡萄畑のメインイベントが終わったという空気感が使用人にも農奴にも広がっている。
もう秋だ。去年の今頃、僕はあの御婦人に呼び出された。それを思い出すと苦々しい気持ちになる。
「おう、なんだか例の染物、うまくいったらしいな」
「僕の知識が生かせてよかったですよ」
「そうだな。土地が豊かになれば、奴隷落ちしなければならない人も減る。産業は必要だ」
例の先輩がしみじみとそう言って、どこかへ行った。僕はそのまま葡萄畑に残ることになったが、先輩はリンゴ畑にいくことになったと今日告げられたらしい。
「リンゴ畑に行くなら、剪定枝を確保してもらえませんか?」
「なんだ、お前リンゴでもやるのか?」
「もともと、リンゴでいい色を見つけていたんです。権利書は元カノのお父さんに預かってもらっていますが、忘れないうちにあの染料をもう一度確かめておきたいんです」
「品種とか、あるのか?」
「はい。『太陽の微笑み』という品種です」
「わかった。こちらの監督役からも話を通しておくように伝えてくれ。俺も動くから」
「お願いします」
葡萄とリンゴの剪定時期はほぼ同じ、冬だ。それも年明けが多い。同じくらいのタイミングで、新しい材料が手に入るはずだ。この冬も忙しくなりそうだな、と僕は思った。
冬が来て、葡萄とリンゴの剪定枝から染料を抽出し、糸を染めた。今年は、染色作業のためのスタッフが付いた。彼らが今後、それぞれの工程を支持するリーダーになるだろう。
春の社交シーズンに、辺境伯閣下のお嬢様が社交界デビューした。あの葡萄の剪定枝から染めた布は評判を呼び、多くの注文が舞い込んだ。だが、僕は辺境伯閣下と相談して、販売数を制限した。プレミアがついた方が高く売れるからだ。
その染料は「葡萄の雫」と名付けられ、ヒットした。「葡萄の雫」で染めたストールやハンカチなど、麻や木綿のものも売り出したが、そちらはあえて名前を変えた。そうしないとレア感が薄れるし、貴族が「葡萄の雫」で染めた絹布を買ってくれなくなるからだ。
2年後、ある程度の利益がでたことで、僕は奴隷の身分から解放された。平民の染物商として、この辺境伯領の染物の監修をするようになった。そのことを、隣国に逃げた元カノたちにも伝えた。彼らも僕を救出するために、「リンゴの微笑み」で得た利益を全て積み立ててくれていた。
僕は元カノの父親に会いに行った。彼女は幸せに暮らしているそうだから、僕みたいなのが行って夫婦関係にひびが入るといけないと思ったんだ。
父親は、僕に権利書と利益を差し出してくれた。でも、僕は権利書だけを受け取った。
「権利書を守ってくださったでしょう? その保管料ということにしていただけませんか?」
父親は僕の身なりを見て、生活に困っていないことを察したのだろう。随分と高額な保管料だな、と笑い、それ以上持って行けとは言わなかった。
その代わり、元カノの旦那に引き合わされた。大手の織物商だという旦那は、僕を「妻の元カレ」ではなく、一人の商売相手として接してくれた。そして、契約した。「リンゴの微笑み」をこれまで通り生産する許可と利益の分配率、生産に携わる工房の名前など、きちんとした書類が用意されていた。
「もし可能であれば、なんだが」
旦那は言った。
「『葡萄の雫』に関わる製品の取り扱いについて、この国の代表窓口にしていただけないだろうか」
独占契約を結んでほしいということだ。僕は首を横に振った。
「あれは、辺境伯家の財産として登録されています。僕の一存ではどうにもなりませんし、閣下は独占ではなく、最低でも3つの商会を通すことで、競合させるおつもりのようです」
「そうか。では、その三分の一に入れるよう、動けばいいのだな」
旦那は微笑んだ。
「いい情報を、ありがとう」
旦那は元カノや子どもに会っていくか、と言ったが、僕はやっぱり断った。もう少し、心の整理に時間が必要な気がしたからね。
そうやって、僕はいろんな染料を開発した。もっと商会を大きくすることもできたけれど、あまり大きくすると僕のキャパ以上になると思って、小ぢんまりした染物商のままにしてある。だからこそ、僕は自分で染料の実験もできるし、どこの誰と直接取引しているか、どのくらいの金額か、全て把握できている。身の丈にあった商売って、大事だと思う。
辺境伯閣下や監督役はそういう僕を「身の程を知る男」と言って重用してくれた。先輩奴隷にうちの商会で働かないか、来るなら奴隷の身分から買い戻すと言ったけれど、彼は「俺は奴隷になって落ち込んでいる奴らを助けたいんだ」と言って、新しい場所へと消えていった。監督役は行先を知っているらしいが、教えてくれない。かっこいい先輩だった。
染物が楽しすぎて、気づけば55歳になっていた。辺境伯閣下は数年前に亡くなり、今は御子息が跡を継いで、立派にこの辺境の地を守っていらっしゃる。染物については、先代同様に取引を続けてくださっている。
結婚する気もないし、跡継ぎがいなくなったって問題ない。奴隷落ちするしかないと腹を決めた時、そして「結果を出せ」と先代の辺境伯閣下に発破をかけられた時、僕はもう人生が終わりかもしれないと思った。でも、そうじゃなかった。今だって悩むこともあれば、つらいこともある。それは未来にも言えることだ。
だけど、僕は思う。あの件があったからこそ、僕はこの地に来ることができた。「葡萄の雫」を生み出すことができた。身分と権利書を取り戻し、やりたいことができる環境になった。
昔、「今がつらくても、未来になったらそれさえ懐かしくなるのかな」なんて思ったことを思い出す。つらいこと、嫌なことを克服すれば、それはむしろチャンスなんだ、と今ならわかる。
だから僕は、こんな年になってもチャレンジする。チャレンジは、誰にも止められないのだ。
ながらへ(動詞・ハ下二・未然形)ば(接続助詞)
また(副詞)このごろ(名詞)や(係助詞)
しのば(動詞・バ四・未然形)れ(助動詞・自発・未然形)む(助動詞・推量・連体形)
憂し(形容詞・ク活用・終止形)と(格助詞)見(動詞・マ上一・連用形)し(助動詞・過去・連体形)世(名詞)ぞ(係助詞)
今(名詞)は(係助詞)恋しき(形容詞・シク活用・連体形)
・助動詞「る」 しのぶ・思ふ・知る などの知覚に関する動詞につく時「自発」の意味になりやすい
・「や→む」「ぞ→恋しき」 係り結び
・三句切れ
読んでくださってありがとうございました。
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