第十七章 もう一つのパーフェクト・コード
全国の病院で、同時に帰還補助薬の投与が始まった。
真白が確保した医療者たちが、患者一人ひとりの状態を確認する。
名前を呼ぶ。
「雨宮颯太さん」
反応なし。
「雨宮颯太さん」
脳波がわずかに動いた。
「聞こえますか」
もう一度。
「雨宮さん」
画面に、細い波形が現れる。
ゼニスの巨大な円形端末を中心に、張り巡らされた全国の回線が光を帯びて揺れていた。
「音央、ヘッドセットを」
ヒカルが端末のケーブルを伸ばした。音央は小さく頷き、ヘッドセットを装着する。視界が急速に反転し、漆黒から純白の世界へと組み替わる。
《ファンタズマル・アイランド》のコア領域。
だが、もはやそこはGMの独占領域でも、光だけの閉じられた箱庭でもなかった。空間のひび割れから流れ込むのは、かつてのバグや暗号ではない。
『朝、川を歩く』
『犬のポン』
『プリンを買ってくる』
『お帰りなさい』
全国からゼニスへ注ぎ込まれた、家族たちの声。
生活の匂い。
忘れたくない記憶。
二百七十三通りの「生きてきた時間」が、複雑な周波数となって重なり合い、空間を満たしていく。
「ヒカリ」
音央は声をかけた。
白い世界の中央に、設計師のコードとして残り続けていた光が立っていた。彼女の姿は、周囲から溢れ出る無数の「記憶」と共鳴し、かつてなく鮮明に、かつ儚く揺れている。
「すごいね、音央」
光が微笑んだ。
「こんなにたくさんの声が、ここにあるよ」
「ああ。御厨の選んだ一つの未来じゃない。全員が帰るための未来だ」
「でもね、ただ開くだけじゃ駄目なの。みんな、ずっと深い眠りの中で自分の場所を見失ってる。国家の信号に縛られた意識を解くための、最後の答えが必要」
「答え……」
光は、一瞬だけ笑みを消した。
「正直に言うとね、少し怖いよ。ここを開けたら、ここにいた『私』は、どこにも残らない気がして」
音央は何も言えなかった。
「でも」
光は、もう一度笑った。
「コードは、誰かを従わせるためのものじゃない。他人に未来を選ばせないための、私たち自身の約束。そこに、みんなの声が重なる。規則じゃなく、和音として」
一人の反応が現れるたび、全国のどこかで誰かが息を呑んでいるはずだった。
ひびの奥で、颯太の波形が短く上がった。
隣では、名も知らない誰かの波形が、まったく違うリズムで上がる。速い者。遅い者。まだ動かない者。
音央には、その不揃いさこそが、御厨の描いた一つの未来よりも正しく思えた。
今、ファンタズマル・アイランドはゼニスと融合しつつある。
それによってGMの管理権限がゼニスの接続層まで届くようになっていた。
あとは、ヒカルが作り上げたすべての人を救う新しいリライズ・パスと、御厨とヒカルから半分ずつ預かったゼニスの認証鍵。
それを行使して、出口をこじ開ける。
音央は光に向かって、こう告げた。
「光。最後の答えはもうお前から受け取っているんだ」
「私から?」
「ああ。コード――和音だ」
音央は前足――GM権限の最後の残滓を掲げた。
「マスターネオとして命じる。これよりシステム制御を全プレイヤー……いや、全人間に返還する」
「私も手伝うよ」
光が手を重ねる。
ゼニスの認証鍵でリライズ・パスが起動する。
そこに別の理、和音を融合する。
ヒカルが送る帰還補助薬の投与シグナル。真白のバイタル管理。莉里が集めた名前のリスト。澪が流す颯太の反復音。
それらすべてが、ゼニスの基幹システムへとなだれ込む。
短く三回。
長く一回。
かつて患者たちを縛り付けていた孤立の波形が、全国から集まった家族の声と重なり、次々と豊かな和音へ転調していく。
一つ、また一つ。
歪なノイズが消え去り、澄み渡った巨大な共鳴が生まれる。
音央がかつて葬った支配のためのプログラムコード――PERFECT CODE――とは違う、一人ひとりが自分の意思で現実を選び直すための、完璧な調和。
一人では奏でられない、人々の人生賛歌とも呼ぶべき美しい和音。
パーフェクト・コード ――PERFECT CHORD――。
リライズ・パスは和音という別の理を得て、もう一つのパーフェクト・コードとなり、すべてのピグマリオン患者の道標となる。
彼らの脳波の四十七秒の目覚めの壁を破り、四十八秒目に到達した瞬間に眠りから解き放たれていく。
「……聞こえるよ、音央。美しいハーモニーが」
光が静かに目を閉じる。その姿が、光の粒子となって世界へ溶けていく。
「新しい朝が来るよ」
白いコア領域が、眩い純白の光の中に弾けた。
管制室の巨大モニターから、無数の暗号と数字が消えていく。
各人の意識に、帰還の経路と、残留を選ぶ猶予を表示する。
帰る者には、医療者の声と家族の記憶が届く。まだ帰る決心がつかない者には、見守るための接続が残される。
でも、すぐに彼らも暖かい光に導かれて、家路につくだろう。
光の設計師コードは、その瞬間自らを消去した。彼女が現実へ戻るための代償は、ゲーム内で万能な存在であることをやめることだった。
代わりに表示されたのは、全国で同時に目を覚まし始めた人々の、穏やかな生体反応だった。




