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第49話 「アノマリー」


 息が荒い。

 

 肺が焼ける。

 

 喉の奥が熱い。

 

 

 走るたび、胸の内側が軋んだ。

 

 

 雨上がりの石畳は滑りやすく、何度か足を取られそうになる。

 

 

 でも、止まれない。

 

 

 背後。

 

 

 “何か”がいる。

 

 

 見えていない。

 

 

 なのに分かる。

 

 

 近い。

 

 

 確実に、距離を詰められている。

 

 

【不明ログ】

状態:接近中

 

 

 頭の奥に、文字が浮かぶ。

 

 

 ノイズ混じりの表示。

 

 

 視界の端で、ちらつく。

 

 

 気持ち悪い。

 

 

 まるで、自分の頭の中に勝手に誰かが入り込んできているみたいだった。

 

 

「……速い」

 

 

 隣で、リシアが小さく呟く。

 

 

 呼吸は乱れていない。

 

 

 でも。

 

 

 声だけ、少し硬かった。

 

 

 次の瞬間。

 

 

 腕を引かれる。

 

 

「下がって」

 

 

 そのまま、リシアが前へ出た。

 

 

 自然な動き。

 

 

 けれど完全に、“庇う位置”。

 

 

「いや、下がってる場合か?」

 

 

 思わず返す。

 

 

「見えねえのに距離詰まってるって、どういう状況だよ……」

 

 

「説明してる時間ない」

 

 

「だろうな……ッ」

 

 

 息が切れる。

 

 

 肺が痛い。

 

 

 なのに、寒気だけが背中を這っていた。

 

 

 頭の中は、まださっきのことで埋まっている。

 

 

 何だった。

 

 

 あれ。

 

 

 何に触れた。

 

 

 なんで出来た。

 

 

 思い出そうとすると、頭の奥が妙に気持ち悪くなる。

 

 

 そこだけ抜けている。

 

 

 違和感だけが残って、中身がない。

 

 

 その時だった。

 

 

「あー、それそれ」

 

 

 軽い声。

 

 

 反射的に足が止まる。

 

 

 同時に。

 

 

「――待って」

 

 

 リシアの声が落ちた。

 

 

 次の瞬間、腕を引かれる。

 

 

 強引じゃない。

 

 

 でも、迷いなく後ろへ下げられた。

 

 

 そのまま、リシアが前へ出る。

 

 

 空気が変わる。

 

 

 さっきまでの逃走の空気じゃない。

 

 

 “対峙”の空気。

 

 

「……誰」

 

 

 短い声。

 

 

 視線の先。

 

 

 薄暗い路地の壁にもたれて、男がいた。

 

 

 最初からそこにいたみたいな顔で。



挿絵(By みてみん)

 

 

 街灯の薄い光が、銀色の髪をぼんやり照らしている。

 

 

 若い。

 

 

 多分、俺たちとそこまで変わらない。

 

 

 なのに。

 

 

 妙に、“軽い”。

 

 

 空気が。

 

 

「うわ、そんな警戒する?」

 

 

 男が笑う。

 

 

「俺、まだ何もしてないのに」

 

 

 軽い口調。

 

 

 でも。

 

 

 背筋が冷えた。

 

 

 理由が分からない。

 

 

 笑っている。

 

 

 なのに。

 

 

 何を考えているのか、一切読めなかった。

 

 

「名前」

 

 

 リシアが即座に聞く。

 

 

 間を置かない。

 

 

「カイル」

 

 

「偽名?」

 

 

「ひど」

 

 

 肩を竦める。

 

 

 軽い。

 

 

 空気だけなら、そこら辺の街の人間と変わらない。

 

 

 なのに。

 

 

 視線だけが違った。

 

 

 笑っているのに、妙に冷たい。

 

 

 観察されている感じがする。

 

 

【不明ログ】

状態:接近速度上昇

 

 

 頭の奥で、また文字が浮かぶ。

 

 

 近い。

 

 

 会話している間にも。

 

 

 確実に。

 

 

「……ここで何してる」

 

 

 リシアの声は低い。

 

 

 完全に警戒している。

 

 

「通りすがり?」

 

 

「それ、本気で言ってる?」

 

 

「半分くらい?」

 

 

 空気が軽い。

 

 

 でも。

 

 

 妙に怖い。

 

 

 掴めない。

 

 

 そのまま、カイルの視線がこちらへ向く。

 

 

 真っ直ぐ。

 

 

 俺の手を見る。

 

 

 一瞬だけ。

 

 

 空気が変わった。

 

 

「で、それ」

 

 

 一拍。

 

 

「触っちゃった?」

 

 

 心臓が止まりかける。

 

 

 頭の奥が、ズキ、と痛んだ。

 

 

 瞬間。

 

 

 あの感覚が蘇る。

 

 

 切れた。

 

 

 何かが。

 

 

 世界のどこかが。

 

 

「――答えなくていい」

 

 

 リシアが即座に遮った。

 

 

 一歩横へ出る。

 

 

 視線を切るみたいに。

 

 

「……何の話だよ」

 

 

 思わず聞き返す。

 

 

 カイルは少しだけ首を傾けた。

 

 

「さっきのやつ」

 

 

 軽い声。

 

 

「変だったやつ」

 

 

「変ってレベルじゃなかっただろ……」

 

 

 思い出そうとする。

 

 

 でも。

 

 

 そこだけ抜けている。

 

 

 感覚だけが残る。

 

 

 切れた。

 

 

 何かが。

 

 

 でも。

 

 

 何を切ったのか分からない。

 

 

「……あれ、もう一回できる?」

 

 

「無理」

 

 

 即答だった。

 

 

「どうやったかも分かってねえし、何に触ったのかも分かってねえ」

 

 

 言っていて気持ち悪くなる。

 

 

 本当に、自分のことなのか分からない。

 

 

「……そっか」

 

 

 カイルが頷く。

 

 

 軽い返事。

 

 

 なのに。

 

 

 その目だけ、笑っていなかった。

 

 

「だと思った」

 

 

「何がだよ」

 

 

「そういう顔してる」

 

 

「どんな顔だよ」

 

 

「やらかしたのに、理解してない顔」

 

 

「最悪だなそれ……」

 

 

 吐き捨てる。

 

 

 その時だった。

 

 

【不明ログ】

状態:接近中

 

 

 空気が震えた。

 

 

 ぞわり、と鳥肌が立つ。

 

 

 路地の奥。

 

 

 暗闇が、妙に濃い。

 

 

 景色が揺れる。

 

 

 何も見えていない。

 

 

 なのに、“いる”。

 

 

 その事実だけが、感覚として伝わってくる。

 

 

「……来る」

 

 

 リシアが呟く。

 

 

 声が少しだけ硬い。

 

 

「さっきより近い」

 

 

「マジかよ……」

 

 

「捕捉されてる」

 

 

「見えねえのに分かるの、ほんと嫌なんだけど」

 

 

「慣れる」

 

 

「慣れたくねえ」

 

 

 即返す。

 

 

 だが。

 

 

 本気で冗談を言ってる空気じゃない。

 

 

 呼吸するたび、空気が重くなる。

 

 

 路地の奥。

 

 

 そこだけ、“ズレていた”。

 

 

 壁の位置。

 

 

 影。

 

 

 空気。

 

 

 全部が、半歩だけ噛み合っていない。

 

 

 その時。

 

 

 カイルが前へ出た。

 

 

 自然な動きだった。

 

 

 でも。

 

 

 妙に迷いがない。

 

 

「やる?」

 

 

「あなたが?」

 

 

 リシアの声は冷たい。

 

 

「信用してない」

 

 

「知ってる」

 

 

 カイルが笑う。

 

 

「でも、多分」

 

 

 一拍。

 

 

「今ここで一番マシなの、俺だよ」

 

 

 その瞬間。

 

 

 頭の奥に、また残る。

 

 

 あの声。

 

 

 あの感覚。

 

 

 ――“それ、触るな”

 

 

「……触ったらダメなやつかよ、これ」

 

 

 小さく呟く。

 

 

 答えはない。

 

 

 でも。

 

 

 確信だけはあった。

 

 

 あれは。

 

 

 触っていいものじゃない。

 

 

 頭の奥で。

 

 

 まだ、“何か”が脈打っていた。

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