8.歓喜のとき
デービットソン宅。
フィルは鏡の前に立ち、神経質そうに蝶ネクタイの位置を直す。
同時に思わずため息が出た。
鏡に映る姿は白いシャツとモーニングコート。
どうみてもおめでたい格好をしている。
「フィリー、もうすぐ出発の時間だ。準備はできたか?」
ノック3回、後ろのドアが開いて現れたのは彼の父。
フィルと同じような格好をしている。
今から教会へ向かう彼に随伴するのだ。
だというのに、
「あぁ、いつでも」
フィルの顔はどこか浮かない。
待ち受けるビッグイベントに緊張しているとかではない。
本当に単純に、浮かない。
「ん」
外に出ると、強い日差しが彼の顔に降り注ぐ。
いかにも夏という力強さである。
キングジョージに快晴は、めずらしいとまでは言わない。
が、他所よりは割合が少ないことは確かで
つまりは運が良く、世界が今日という日を祝福しているのだ。
それでも、
「キャンパーダウン教会までお願いします」
「分かりました」
待ち受けていた馬車。
馭者も目的を察し、どこかウキウキに応える。
その中に乗り込みつつも、
「フィル、顔が怖いわよ」
「緊張しているのか?」
「……」
彼はやはりどこか遠い目で、窓の外を眺めるのであった。
その理由はこれ。
あの日、タシュより『金色の雨』についての報告を受けてから数日。
『結婚式までに見れなかったのは心残りだ』
確かにそう言ったし本心ではあるが。
それでもフィルの中で、この件についてはある程度心の整理がついていた。
『いつか南半島王国へ見に行く』
とも語ったが。
言っても亡くなった元カノの言葉であり、自身は結婚するのだ。
いつまでも吹っ切らずに執着していたことこそ問題であり、
これでなお『金色の雨』を求めるのは、婚約者に対する不義である。
『決定的な行動をするまえに、これでじゅうぶんとして忘れなさい』
あるいは神がそう告げているのだと彼は受け止めることにしていた。
しかしそこに、タシュの方から連絡があった。
どうやら彼はまだ異国のジャンヌに、最終報告を送ったらしい。
すると、さらに帰ってきた返事がなんと
『「金色の雨」を降らせられるかもしれない』
というものだったらしい。
内容はその一文だけ。
方法も書いていなければ、だからどうしろとも言っていない。
タシュ自身も何も分からず、どうしていいか判別も付かない。
ただフィルにとって無関係な話ではないため、報告したのだという。
それ自体はなんら間違っていない。
当然の判断だし、そうしてもらって助かるとすら思う。
だが、
期待してしまった。
自分の中で決着をつけたはずの気持ちが、息を吹き返してしまった。
『もしかしたら南半島王国へ行かずとも、「金色の雨」が見られるかもしれない』
『結婚式までに見ることができるかもしれない』
そう思ってしまった。
期待は彼の中で燃え上がるだけ燃え上がり、
結局何もないまま、今日という日を迎えた。
それでも、今日はめでたい日なのだ。
ティナのことは愛していたが、それ以上に愛する人がいるのだ。
逆に少しの期待外れや憂鬱ごときで全て曇るほど、人間難しくはない。
教会へ着くと、すでにライスシャワーをすべく庭まで伸びたバージンロードが見える。
これにはさすがに期待と興奮、緊張が突き付けられる。
参列者が来るまえに会場を仕上げたり、牧師と段取りを最終確認したり。
作業に没頭することで心臓をなんとか抑え付けていたが、
することがなくなって控え室で休んでいると、途端にドキドキしはじめ
新婦が到着し別の控え室に入ったと聞けば、口から飛び出しそうになった。
「親父もこんな大変な思いしたのか」
「オレのときはまず、向こうの実家へのあいさつで殴られたからな。ヘマしたらまた殴られやしないかと比じゃなかったぞ」
「うげぇ」
その瞬間が待ちきれないような、むしろ永遠に来ないでほしいような。
この喜びを永遠のものにしたいような、早く肩の荷を降ろしたいような。
なんとも言えない落ち着かなさが、両親にはよく分かるのだろう。
親子水入らず、取り止めもない話によく付き合ってくれた。
そうしていると、時間は早く過ぎるものである。
「それで鹿人間ってのがさ」
また特に意味のない話題を展開しようとしたそのとき、
「ご両親は先は会場へお移りください」
「じゃあがんばってね」
「ま、失敗しても命までは取られんからな。一生愚痴られはするが」
「おぉ……」
教会の人が控え室へやってきて、まず両親が列席者入場へ向かい、
ややあって、
「では新郎さま、まもなくご入場ですのでこちらへどうぞ」
ついにそのときを告げた。
聖堂へ入ると、歓声がフィルを出迎える。
参列したのは親族と友人、職場からは限られた人だけ。
そんなに大人数なわけではないが、大聖堂でもないのでキャパシティはちょうど。
この人たち全員が、この空間にあるもの全てが自分を祝福するためここにいる。
そう思うと、全身が震えるような幸せを感じる。
夏の日差しで鮮やかな影を撒くステンドグラス。
多くの色が網羅されていることも、世界を構成する全てに認められている気分になる。
だが、それも束の間、
本当の幸せは今から訪れる。
「続いて、新婦とお父さまのご入場です」
聖堂のドアが開いた瞬間、
ステンドグラスすら忘れるような、眩しい逆光の中現れたのは
父親に支えられてバージンロードを歩み来る、
純白のウェディングドレスに身を包んだ、天使のような愛しい彼女。
参列者の讃美歌が斉唱されるなか、フィルは気絶しそうな、
いや、もう気絶して天国へ飛んだのだと思う感覚に包まれる。
多幸感などという言葉で表現できない、大いなる人の世の奇跡。
それから牧師による聖書の読み上げが始まる。
彼とて国教徒。しっかり内容を聞いているのだが
集中している裏で、隣にいる存在のことで頭がいっぱい。
まるで頭が2つあるような。
母方の祖父の葬式で、ちゃんと天国へ行けるよう集中しつつ、
一方で祖父の思い出で頭がいっぱいだったとき以来の感覚である。
なので、『気付けば』という表現は適切でないものの、
あっという間に
「新郎フィル・デービットソン。病めるときも健やかなるときも、富めるときも貧しきときも、晴れの日も雨の日も、この者ヴェスタ・ファーレンハイトを愛することを誓いますか?」
「誓います」
「新婦ヴェスタ・ファーレンハイト。病めるときも健やかなるときも、富めるときも貧しきときも、晴れの日も雨の日も、この者フィル・デービットソンを愛することを誓いますか?」
「誓います」
かくして指輪が受け渡され、
「では誓いのキスを」
ヴェールを捲った向こうの、化粧を越えて伝わる上気した顔が近付いてくると、
そこからはあまり記憶がない。
結婚証明書への署名もしたし、牧師や司会やらが何かまだ言っていたが。
ふわふわしているうちに、
「では、新郎新婦の退場へ移りたいと思います」
式は終了へと向かう。
列席者たちが先に聖堂の外へ。
ライスシャワーやらフラワーシャワーの準備だろう。
うれしそうに腕を絡ませてくる妻とともにそれを眺め、
「ではご退場ください」
教会の人に促され、ゆっくりゆっくり外へ出る。
朝からのご機嫌な日差しは衰える様子がない。
末永い幸せを象徴しているのだろう。
「うっ」
「あら、シャワーはまだよ?」
一歩でも外へ出れば、それが目元へ容赦ないセレブレーション。
「いや、日差しがね」
フィルは照れ笑いで答える。
それから照れ隠しか祝福する青空が見たいのか、
目元を上げたそのときだった。
「えっ」
このよく晴れた日に。
彼の鼻先へ、ポツリと雫が降ってきた。




