1.追憶の雨は見たこともなく
春風に棚引くカーテンの隙間。
細く伸びる朝の陽射しが、室内でたおやかに踊る。
その窓辺に備えられたベッドの上。
一人の少女が静かに息をしている。
歳のころは二桁になるかどうか、
のように見えるほど小さく痩せ細った14歳であること。
傍らで椅子に座る、同い年くらいの青年はよく知っている。
そのよく知る彼が覗き込む顔は、見知らぬほどにやつれており、
微かな呼吸音に合わせてゆっくり浮き沈みする、痩せた胸のリズム。
彼女が奏でる最後のラブソングだった。
『ねぇ』
『なんだ』
そこにポツリと、かき消えそうな歌詞が乗せられる。
『私が生まれた町ではね? 金色の雨が降るの』
『金色? 透明じゃなくてか?』
『そう、透明じゃなくて、キラキラ、透きとおる金色』
『金色の、雨』
正直青年はここまで、まともに彼女の話を聞いていなかった。
少しでも異変があれば見逃せない。
それほどまでに、今目の前にあるものは儚い。
他愛のない会話に気を取られている場合ではないのだ。
しかし、今までもじゅうぶん取り止めのない内容だったが、
今回ばかりは内容が突飛すぎる。
かといって、『私が生まれた町』。
『金色の雨』とやらはよく分からないが、完全なおとぎ話かどうかも微妙である。
意味が分からないからこそ、一瞬意識を引っ張られているうちに
『そう、
幸せの、金色の雨。
あなたと、見たかっ──
彼女はそれっきりだった。
もう6年ほど昔の話である。
それでもこんな、雨がしっとり降る朝には
目の前で起きているかのように思い出せる。
本当は忘れなければならないのに。
「あ、起きたの?」
窓辺に頬杖をついている彼の背中へ、優しい声が掛けられる。
振り返ると、そこには若い女性が立っている。
両手には湯気が上るマグカップ。
「『泥のように』って感じだったから、昼まで起きないと思ってたわ」
「そんなにか?」
「だって、遅くまで激しかったし。きゃっ♡」
両手の代わりにマグカップで頬を抑える彼女。
サイズが大きくボタンの閉じ合わせが逆のシャツだけで体を包んでいる。
「おいで。そんな格好じゃ風邪を引く」
青年がシーツをまくって招くと彼女は微笑む。
「それはあなたの方よ」
言われて気付くが、彼はシャツを取られていることからも分かるように
シーツが隠れている場所以外は肌色。
あるいは短く暗いブロンドと鳶色の虹彩くらいであった。
「雨だから気温低いし……あぁ、雨だからなのね」
「まぁな」
青年ははにかみか苦笑か、曖昧な笑みを浮かべる。
だから忘れなければならないのだ。
どんなに眠くても、雨の音で起き出してしまうから。
どんなに目の前の彼女と愛し合ったあとでも、
幸せの、金色の雨。
あなたと、見たかっ──
もしかしたら、今降っている雨は金色かもしれない
と、期待してしまうから。
「ねぇフィリー?」
「どうした」
「来月、来月ね」
「……そうだな」
「そしたら私たち、夫婦になるのね」
早く、早く忘れなければならない。
王国というのはとにかく曇りの日が多い。
どうやら暖流だとか低気圧が下がってくるだとか、地政学的な話らしい。
そうなると、この夏という季節には助かるのか否か。
「あっちゃー。朝からよく晴れちゃってまぁ」
『ケンジントン人材派遣事務所』の2階。
タシュは窓から外を眺める。
その声はどうにも忌々しげである。
「何がそんなに気に食わないのですか」
一応聞いてみるが、正直全然興味はなさそうな
という声のジャンヌは当然自身のデスクにいる。
スーツのジャケットを脱いでいるものの、紅茶からは湯気が立っている。
そして当然、手袋は外さない。
「だってこの日差しで晴れだよ? 外に出たら日射病で死んじゃうよ」
「どうせ外回りもしないインドアのくせに」
「つまり貴重で希少な僕の外出意欲が削られてしまうということだ。これは人類の損失だよ?」
「うるさいドア男」
「もうインとかアウトじゃなくてドアそのものじゃん」
タシュが日差しでどうなるかは知ったことではないが。
この中を出勤してきたジャンヌはすでに頭がやられているのかもしれない。
言動がおかしい。
いつものことか。
と、そこに、
「おはよう諸君! いい天気だな!」
これもいつものこと。
アーサーが事務所へ姿を現す。
「何がだよ。いい天気なもんかい」
タシュが悪態で出迎えるのも当然、いつものこと。
「すりゃ屋根付きの車で移動の伯爵は、日差しなんか気にならないかもしれないけどね」
「そんなことはないぞ。むしろ車内が蒸し風呂のようになってくる」
「黒塗りですしね」
「そうとも!」
ジャンヌからすれば
『無駄に塗装した挙句不利益被ってやんの』
と馬鹿にしているのだが。
アーサーとしては、自分の出した話題に彼女の反応があるだけでうれしいらしい。
機嫌が良さそうに人差し指を立てて振る。
「それにだな、ケンジントンくん。夏の夜は雲がないと、放射熱を留め置くものがないから冷え込むんだぞ。夏風邪を引く」
まるで教鞭を扱う教師のようである。
「けっ。キングジョージは湿度が高いんだ。どのみち暑くて寝苦しい夜になる」
であればタシュは差し詰め、やる気のない不良生徒か。
窓の外の太陽と、顔だけは太陽のように輝く美形伯爵に挟まれご機嫌斜め。
視線を両者の中間あたりへ逃す。
そこにちょうどいたのがジャンヌである。
ジャケットを脱いだシャツ姿。
この気温で熱い紅茶。
そもそも事務所までは歩いてきている。
汗をかいているのか、少ししっとりしていて
「もうちょっとで透けそうだな……」
タシュが首を伸ばすと、彼女はティーカップを構える。
「わぁ、タンマタンマ。そんなの顔に掛けられたら、シャレじゃ済まない」
「先にジョークを飛び越えたのはあなたですよ、セクハラ野郎」
ジャンヌは静かに怒りを表出しつつも、暑さが勝るかジャケットは着ない。
タシュはというと、牽制に身を引くとそのまま背もたれに沈み込み、
「なんか上着た方がいいよぉ。もしくはシャワー浴びてシャツを着替えるか」
その勢いで少し椅子を引くと同時、デスクの引き出しを開ける。
「来客ですか」
「そうそうそうそう」
彼が取り出したのは、一枚の封筒。
「机の山だったり引き出しだったり。整理整頓して収納場所を定めておかないと、大事な書類を失くしますよ」
「僕の中ではこれが整理されて把握できてるの。お母さんみたいなこと言わない」
「息子みたいな言い訳をしない」
「どこで育て方を間違えたのだろうな」
「伯爵は父親みたいなコメントをしない」
「違う。君の夫のコメントだ」
ジャンヌの紅茶砲がソファの方へ照準を変えたところで、
「おーいジャンヌ。それより仕事の話」
タシュが便箋を顔の高さでヒラヒラ振る。
「曇りだ濡れ透けだに、ちょうどの依頼があるんだよ」




