1.『メッセンジャー』はトレーナーをする
春。爽やかな芽吹きの季節、
「おはようメッセンジャーくん! 早速だが、一緒にボクシング観戦へ行かないか?」
事務所へ現れたアーサーとともに、血生臭いイベントが舞い込んだ。
「申し訳ありません。私はスポーツ観戦が好きではないのです」
デスクのジャンヌはそれを、相手がソファに座るより早く切り捨てる。
「なぜだ。確かに君はインドア派ではあるだろうが」
「スポーティーなイメージもないよね」
デスクで新聞を読んでいるタシュも話に混ざる。
本を読んでいるジャンヌは鼻から息をついた。
「というより、私は何かを鑑賞する際は一人でじっくり派です。誰かとゴチャゴチャ、リラックスできない環境ではごめん被りたい」
「ははぁ、心がインドアなんだな」
「今に始まったことじゃないね」
「キサマらを棺桶にインドアしてやろうか」
また意味のない暴言を応酬する3人だが。
ふと新聞に視線を戻したタシュが、
「あ、そうだ伯爵」
めずらしくアーサーに声を掛ける。
「なんだね」
「そのチケットってさ。もしかしなくても今度のタイトルマッチ? サンディ・ガイモン対オクシー・レイの」
「そうだとも! しかもその砂かぶり席だ! なかなか手に入らない貴重品だぞ!? 現地観戦だけでなく、チケットそのものに後年貴重品として価値が付くレベルの!」
「オープンザプライス!」
「そう! シチューオンザライス!」
彼はドヤ顔が隠れるくらい高々と胸を張る。
かと思えばメトロノームのように体を戻し、ジャンヌの顔を覗き込む。
「それを君は! スポーツ観戦の好き嫌いで棒に振ろうというのか! 一生に一度あるかないかの体験を!」
「興味ないんですって。楽しめる人が行く方が、チケットも浮かばれますよ」
彼女は本を閉じてアーサーの顔をガードする。
と、そこに
「ジャンヌ自身の興味は別にしてさ」
タシュが声だけで割り込む。
彼はヘラヘラ笑いながら、チケットの代わりに封筒をヒラヒラさせている。
「ボクシングには行くことになりそうだよ」
「は?」
翌日の10時ごろ。
ジャンヌが訪れたのは
『ウォースパイト通り』ではないが、じゅうぶんキングジョージの中心街
そのメインストリートから外れて少し入ったところにある
「失礼しまーす、あのー、『ケンジントン人材派遣事務所』から来ましたぁ……」
「ん? あぁ! いらっしゃい! おや? 女性の入門者とはめずらしいな?」
「いえ、私、そういうものではなく」
「トムソンズ・ボクシングジムへようこそ!」
部屋の中央にあるリング。
その隣に立っている、ガタイと口髭の立派な黒人男性が近付いてくる。
「それとも1日体験コースかな? 私ゃ、オーナーのヒューズ・トムソンです!」
「いえ、私、『メッセンジャー』の」
「あぁ! あの心を読む!」
トムソンは巨大な手をポンと打つ。
気さくで見た目も40代くらいながら、威圧感あるアクションだが
ジャンヌが先ほどからおどおどしているのは、それだけが理由ではない。
例のリング。
そのうえで、
「おーいサンディ! お客さんだぞぉ! サンディ! サンディー!!」
トムソンの呼び掛けすら聞こえないほどの、
マットレスに穴が開きそうな踏み込み
銃声のような乾いた音を響かせるミットとグローブ
背骨や腹の底が震える音と衝撃が撒き散らされているからである。
その元凶こそ、今まさにミット打ちに勤しんでいる
「ん? 誰か呼んだか?」
これまた筋骨隆々の黒人男性。
彼はようやく手と足を止め、こちらへ振り返る。
「だーかーらぁ! オメェにお客さんだってんのよ! ほら、早く来い!」
「おぉ、すまんすまん」
男はグローブを外すと、リングロープを跨いでこちらへ来る。
トムソンは自慢げに彼を手で指す。
「紹介しよう。
アイツがサンディ・ガイモン。
現ミドル級ワールドチャンピオンだ」
普通なら大興奮の、著名人との邂逅。
だからこそ彼も自慢げなのだろう。
しかしジャンヌはというと、
「で、でかいぃ……」
1歩近付くごとに巨大さが増すチャンピオンに、完全に萎縮していた。
「改めまして、『ケンジントン人材派遣事務所』から来ました。『メッセンジャー』を務めます、ジャンヌ=ピエール・メッセンジャーと申します」
場所を変えて、ジムのオーナー室。
さすがチャンピオンを輩出しただけジムあって革張りのソファ。
一転普通の木のテーブルを挟んで。
ジャンヌがお決まりの挨拶をすると、
「え? なんだって? 『メッセンジャー』を務めるメッセンジャー?」
「ややこしいでしょう。雇い主が愚かなもので」
「にしても、ジャン=ピエールさんか。すまんな、『女性の入門者はめずらしい』とか言っちまって」
「ジャンヌ=ピエールです。女性であっていますよ」
「ん、んんー?」
「母が男性名など付けるのが悪い」
トムソンがお決まりのリアクションを返してくる。
だがいつものことなので彼女は気にしないし、
その態度を見て向こうも、マズいことに触れたわけではないと察する。
「それで、アンタが例の、心を読んでくれるっちゅう」
「そのような触れ込みでやらせていただいております」
「おぉ、じゃあ失礼かもしれんがさ。ちょっとオレ、されてみたいのよね」
「大丈夫ですよ。デモンストレーションはこちらもオススメしております」
このあとにはデリケートな部分に踏み込むのだ。
空気は明るい方がいい。
何せ、さっきからトムソンばかりで、
くだんのガイモンは彼の隣に収まり、一言も発しない。
やや俯くような、両肘を両膝につく姿勢も悩ましく見える。
それを尻目に、
「それでは少々、お手を拝借」
ジャンヌは手袋を外し、トムソンの手を握る。
「……」
「どうかな?」
「……昨日食べたゼリー寄せ、そんなにマズいお店でしたか。まだ鼻の奥に生臭さが残ってらっしゃるようで」
「おぉ! すげぇすげぇ!」
「『マグレガーズ・キッチン』はウサギのミートパイを食べるお店ですよ」
「おっほほ!」
彼は膝を打って大喜び。
ご満足いただけたようである。
ということでデモンストレーションは無事終了。
「では本題に入りましょう。本日は確か」
「そうそう!」
ジャンヌが水を向けると、トムソンはもう一度膝を叩いた。
「今日はコイツの、悩みのタネを読み取ってほしいのよ」




