9月3日-2 おなかがすきました
アンドロイドの「教育」担当はルエ、ユージの二人。
負担の大きさゆえに分担しているのか知らないが、ひとつの役割を二人で分担するのは彼ら教育担当だけだ。
言葉を教えこむくらい教育係以外の人間にも簡単にできるだろうから、この二人が妙な単語を吹き込んだ犯人だと決めつけるのは早計だ。
彼女に内蔵されているプログラムからは読み取れないが、ほとんど知識を有していない彼女の脳はおそらく人間の赤ん坊と同等の情報吸収力を持っている。
そして出力についても同様に赤ん坊レベルだと考えられる。
自分の話す言葉についてすらまったく理解できていないだろう。
この世のすべてが新鮮で、情報を片っ端からインストールしていく以外に仕事がない状態で、彼女はどこまで賢くなるのだろうか。
人間のような生まれつきの得意不得意はあるのだろうか。
情報の先に、感情はあるのだろうか。
彼女をカプセルの中に寝かせ、コンピューターを介して彼女のブレインサーバーを覗いていたときだった。
昨日まで存在しなかったわずかな文字しかなかったはずのサーバー空間に、金色に輝く文字が大量に出現していた。
宇宙のような暗い空間の中を、文字列が縦横無尽に飛び回っている。
海の中で魚や植物がたゆたっているようだった。
何が起きているのかわからず一瞬とまどったが、すぐに理解する。
文字の正体は、今日彼女が見た景色、動かした筋肉、学んだ言葉などの情報がプログラム言語に変換されたものだ。
金色の文字の隙間にチラチラと見える白い文字は、初期状態から存在していたコードのようだ。
今日新しく学んだ情報だけが金色に輝いているらしい。
しかもこのコード、一般的なプログラム言語とはほど遠い独自の文字列だった。
驚くべきは、その無秩序な様。
アルファベットと数字が、見たことのない組み合わせで互いに絡みついている。
一見すると、言語に普通備わっている本質的な規律がいっさい存在していないかのように思える。
情報間の整理もまったくされていない。
人間がコンピューターにデータを保存するときは、フォルダを作成し関連のあるファイルをまとめるなどして整理するものだが、それもいっさい行われていない。
すべてが同一レベルの情報として、ただブレインサーバーのあいているスペースに無造作に投げ入れられ、あてどなくさまよっている。
海の中の方がよっぽど秩序だっている。
おおきなため息が出た。
一般的なプログラミングならお手の物だが、これはそういった次元ではない。
まったく新しい言語の習得だ。
新しいとは、「世界中の誰も使用していない、彼女がこれから生み出していく、彼女にしか扱えない、彼女だけの言語」という意味だ。
彼女はこれから日本語を覚えるのだから日本語に近い意識配列になる可能性も考えたが、すぐにその可能性はないと悟る。
私が覗いているのは、人間でいう意識そのものだ。
人間に意識が存在するのか否かについては、哲学の世界で無限回くりかえされてきた問答で、その答えは当然出ていない。
ただこのアンドロイドには、意識という概念が擬似的に構築されている。
同じ味や景色を体感しても、ひとりひとり抱く感情がちがったり、好き嫌いが分かれるのは、人間がそれぞれ唯一無二の意識体系をもっているためだ。
同じ意識体系が存在しないから、同じ人間は全員ちがう。
だから元来、他人の意識など理解などできるはずはないのだ。
もっといえば、自分の意識の空間すら理解している者などいない。
それを「やれ」と言われているのだ。
まさに神の領域。
聖域。
禁忌。
私はこれから、神様の真似事をしていくことになるらしい。
誰だ。今朝、しばらくはいそがしくならないだろうなどと抜かしたやつは。
数日以内にこの問題をクリアしないと確実に詰む。
紛うことなき人生最大のピンチじゃないか。
イスにおおきくもたれかかり、額を手で覆った。
目の奥がずきずきと痛む。
さすがは世界で唯一、疑似生命体を使った禁断の実験。
想定していた難易度を初手であっさり越えてきた。
最も不可解なのが、常人には制御どころか関与すらできない神がかり的な手法で、彼女の疑似生命体としての下地をつくった人間が存在するということだ。
いままでもその奇妙さについて考えてこなかったわけではないが、こうもはっきり眼前に突きつけられては、その技術と執念に舌を巻かざるを得ない。
開発者は、人間にとっての禁忌である疑似生命について、この世で唯一といっていいほど精通し、掌握している人間だ。
先ほど読んだ本の文言、『我々の想像は宇宙を内包している』。
想像が宇宙よりおおきいというなら、意識はおそらくそれよりもっとおおきい。
……私が本当に理解しなければならないのは、彼女の意識体系よりむしろ、これを生み出した人間についてかもしれない。
「おなか」
「え?」
カプセルの中の少女が突然しゃべり出した。
「おなかがすきました」
メンテナンスをしている間は、彼女の電源は入った状態になっている。
電源を落としているとブレインサーバーも同時に閉じてしまうのだ。
困憊して眠っていると思っていたから、すこしだけ面食らってしまった。
「たべものを。おなかが……」
「そう、でも」
私は答えながら、【shut-down】ウィンドウを開いた。
どうせ今日は、これ以上仕事をする気力も残っていない。
「思い込みよ、たぶんね」
パネルをタッチすると、アンドロイドはあっけなく眠ってしまった。
その様子を見て私はぼんやり思った。
やはり彼女は、本当の生物とはほど遠い。