9月2日 おはようございます
一日目、仰々しい登場をしたアンドロイドは結局お披露目の後すぐに、大実験室Aの右隣、彼女のために設けられた特別研究室に運び込まれた。
所長とチームリーダーのみがその部屋に入ることを許されている。そこでどのようなことが行われているのか下っ端研究員の私たちには知るよしもない。
メンテナンスやら何やらを行う自分たちに何を隠すことがあるのだろうか。
あるとしたら、きっと関わらない方がいいものに違いない。
他人に関わらないことは、この研究所の最も大きな不文律。
研究チームという体をとっていながら、私たちは互いのことをほとんど知らない。
知っているのは各人の担当業務の名称と割り当てられた研究室くらいで、業務内容、勤務時間、その他についてはまったく把握していない。
プライベートのことなどなおさらだ。
自分の担当業務をあまり口外しないようにというのは、研究所全体の意向ではある。
しかしそれ以上に、私たちは己の猜疑と警戒に従い、他の誰かに極力関わらないようにしている。
どこから自分の不利になる情報が流出するかわからない。
相手の素性を把握できていない以上、行き過ぎなほどの注意深さが求められる。
まったく誰もしゃべらないという状況が息苦しく、我慢しかねて口を開くということはあっても、交わされる会話はどこまでも表面的だ。
所内で最も和やかな場所である食堂でさえも、すこし注意して観察すれば、のんきな大笑いのひとつも存在しないことに気づく。
一見矛盾しているように思える、実に事務的な雑談でしかない。
かといって、この状況に不満を持つ人間もいない。
むしろ誰もが求め望んでいる状態だとすらいえる。
私を含め彼らの関心は、あくまで未知のテクノロジーに対して自分の力がどこまで通用するかにのみ向いているのだから。
その環境を保持できるよう、相手がテリトリーを踏み越えないよう常に警戒している。
各々が望んで、なるべくして、上にとっても都合がよいであろう、研究所は理想的な「孤立」によって構築されている。
アンドロイドがやってきた2日目、実質的なプロジェクト施行日。
大会議室へ向かう廊下の途中、ルエに話しかけられた。
研究所メンバーの中で唯一、学生時代から付き合いのある彼だが、会話をしたのは数ヶ月前が最後だった。
全国の学生および研究所員に声をかけて寄せ集めた十名なので、同じ大学から二人選出されるというのは必然私たちだけのようだ。
といっても、二人とも大学を卒業して五年が経っていたから、天文学的な偶然に過ぎない。
特別重要な用がなければ話どころか挨拶すらしないのがここの日常だが、今日ばかりはルエも黙っていられないようだった。
私の方も、実は誰かと話をしたい気分だった。
不安だったのかもしれない。
胸に収まりきらない期待を抱いていたかもしれない。
悔しいことに、救われたような気持ちがしたのはたしかだった。
「なあ。この実験の目的、わかるか」
ルエは神妙な面持ちでそういった。
「いまから説明があるんじゃないの」
「まさか額面通りに受け取る気はないだろう」
「それはそうだけど、でも深入りするものじゃないと思う。ねえ、あんまり考えない方がいいよ」
ルエはそれ以上何もいわなかった。
私もそれ以上何もいえなかった。
会議室に集まったメンバーの前で、所長は実験の概要を説明した。
要約すると、アンドロイドにはまず半年間研究所にて教育を施す、その後、彼女がアンドロイドであることを誰にも公表せずひとりの人間として小学校に通わせる。
その様子を一定期間観察する。
たったのこれだけ。
目的は、疑似生命体の管理方法と実践の場における不具合の確認、つまり疑似生命技術の確立。
世界初の試み、ゆえに初歩的。
重みのある初歩。
研究所メンバーは実験が終わるまで彼女の状態管理、観察記録等、各々に割り当てられた仕事に従事する。
各人の役割については、非常に簡単な説明があったのみ。私に関しては「新妻カレンはメンテナンス役」と、半年前から承知していることしかいわれなかった。
くわしい説明は後で個人個人に伝えられるのだろう。
メンバーの事情について深入りしない、されないよう最低限の情報に留めることは、誰にとっても都合のいいことだ。
あってもなくても変わらないようなこの会議を機に、プロジェクトはようやく立ち上がった。
自分の研究室に戻る途中、所長に呼び止められた。
さっそく詳細の説明が始まるらしかった。
所長の後に続いて連れてこられたのは、アンドロイドの眠る特別研究室だった。
「先ほどいったとおり、君にはこの子のメンテナンスをしてもらう。それ以外のことには干渉しないように。教育や会話をする役割は他にいる」
抑揚のない口調で所長はいった。
「わかりました」
「全員に対していえることだが、君の仕事は特に重要だ。メンテナンスを怠れば彼女は死ぬ。もちろん代わりはない。また万が一外の世界で不具合が起きれば、世間にアンドロイドの存在が知れ渡ってしまう。君がヘマをすれば即座に実験は破綻するということだ」
「はい」
五十を過ぎた仏頂面の無口なおじさんと談笑する気もないため、会話はこれくらい最低限でいい。
「この部屋に入れるのは、私とチームリーダーのイツキ、そして君だけだ。いまからしばらくいじってみるといい。それでは」
カプセルを指さしてそういうと所長は、くるりと向き直り部屋を出た。
いわれてはじめて、つい先ほどまで立ち入り禁止のはずだった部屋に自分がいることに気づく。
他メンバーに対し、すこしだけ優越感を覚えたことは否定しない。
様々な感情が入り乱れてかたかたと震える指でコンピューターを操作した。
ホログラムのウィンドウが目まぐるしく、閉じては開く。
後方でカプセルが開いた。アンドロイドはその中で、まったくの無表情で眠っていた。
眠っているという表現は正しい。彼女の胸は人間と同じように上下し、口に手を近づけると空気が出入りしているのがわかる。
起動していないパソコンのしんとした状態とは明らかにちがう。
ぼんやりと眺めた後、再びコンピューターに向き直り、彼女を覚醒させるための操作をした。
【start-up】
きわめてシンプルな起動ボタン。カプセルから【start-up】という合成音声が流れる。
振り返ると、彼女の目は昨日と同じようにうつくしく開かれていた。
人間と見紛う、いや、これを人間でないという者はきっといない。
人間よりも人間らしい、完全な人間がそこにいる。
「おはよう」
その言葉を発したとき、自分がどのような感情だったか記憶していない。
口から零れ出たとしかいえない。
研究所に入って長いこと忘れていた、他人に接する際の親しみにあふれたあいさつ。
対峙する無表情のアンドロイド。
しばしの沈黙を経てひとこと。
「おはようございます」
その言葉を聞いた私は、わずかに頬が緩んだと記憶している。