人魔相殺③
その日から、瑞貴は神社での修行を始めた。禊をして身を清め、食事もすべて精進料理にしてもらい、瞑想や山駈けをして、巫女舞の練習をした。本格的な修行は一年ぶりだったが、体はすぐに思い出した。
しかし何をしていても、人魔相殺のことや晴海に言われたことが頭から離れなかった。何か大切なことを忘れているような気がしてならない。悶々とした気持ちを整理するために、瑞貴は管狐を連れて祀と悠花の墓参りに行った。
「タカネとフウロは、人間になりたいって思ったことはある?」
日陰ですら涼のとれない夏の午後の蒸した空気の中、歩きながら瑞貴は小さな狐たちに尋ねる。
『人間になったら、甘味処であんみつや大福をお腹いっぱい食べたいです』
『綺麗な着物や素敵なお洋服を着て、お祭りに行きたいです』
あどけない二匹の管狐の答えは、子どもの将来の夢のように他愛ない。蝉の声の降り注ぐ木陰の道をぴょんぴょんと跳ねながら進むタカネとフウロが愛らしく、瑞貴はつられて微笑んだ。
『あっ、母様です』
フウロが弾むボールのように高く跳ねて見晴るかした先に、野良着を着て歩く雪絵の姿があった。
「あらぁ。宝珠の坊ちゃん。今日はお墓参りですか」
雪絵の方も瑞貴の姿を認めて、愛想よく快活な声で挨拶する。腕には胡瓜や茄子やトマトの載った笊を抱えている。
「はい。今、行ってきたところです」
「ちょうどね、これを神主さんのお宅におすそ分けしに行くところなんですよ」
そう言って、雪絵は瑞貴と並んで歩き始めた。雪絵はタカネとフウロの母親で、この山の蛟に宝珠が喰われかけたことを詫びて、管狐を式神として瑞貴に託した。瑞貴は、雪絵の娘の結が黒瀧稲荷社の京弥に嫁ぐ時にも仲人を引き受けており、雪絵との縁は浅くない。
「今年は夏野菜の出来が良いんです。宝珠の坊ちゃんも、山にいる間にたんと召し上がってくださいね」
その言葉通り、笊の上の胡瓜や茄子は丸々と太っており、トマトも赤くつやつやしている。そう言えば、初めて雪絵と会ったのも、雪絵が野菜のおすそ分けに来た時だった。
「野菜、たくさん作ってるんですね」
「ええ、まぁ、たくさんってほどではないんですけどね。美味しく出来たら皆さんに召し上がっていただきたくて」
軽やかに話しながら、雪絵は二人の周りを跳ね回るタカネとフウロに優しげな眼差しを向ける。そんな雪絵の佇まいが眩しくて、瑞貴は目を細めた。
「雪絵さんは、どうして人魔相殺しようと思ったんですか」
つい、瑞貴の口から疑問が零れ出た。最近、ノイローゼのように人魔相殺のことを考えているせいか。雪絵はその顔に盛大に愛想の良い笑いを浮かべて、ひときわ大きな声を出す。
「そうそう。先日は、人魔相殺の儀式のこと、あんまりお役に立てなくてごめんなさいね。なにせ、百五十年も前のことだから」
「あ、いえ。まぁ、そうですよね」
雄然と同じようなことを言う雪絵に相槌を打つ瑞貴の傍ら、雪絵は少し考えて話し始める。
「ほら。人間って、面白いでしょう。工夫したり、助け合ったり。特にこんな山ん中で逞しく生きていくにはね」
腕の中の野菜を、愛おしそうに眺めながら、雪絵は言葉を継いだ。
「化かし化かされっていう関係も楽しかったんですけどね、なんだろ……絆っていうのかね。そういう風に人間として生きるのも、悪くないと思ったんですよ」
照れ隠しのように声を上げて笑うと、雪絵は最後に付け足す。
「あたしの方が、人間に化かされちまったのかもしれないねぇ」
そう言った雪絵の横顔は、どこか嬉しそうだった。
その夜。拝殿で瞑想していた瑞貴は、迷いに満ちていた。刻一の願いや晴海の言葉や雪絵の想いがぐるぐると頭の中を回り、それを幾度となく反芻していた。妖魔がもう二度と元の姿には戻らないと覚悟を決め、人間として生きていく。人魔相殺はそのための儀式であり、契約である。すべての妖力を奪われて、それを人間の生命と引き換える。人間の調理法で作った料理を食べるのは、空になった器に人間としての活力を注ぐためなのか。
満月から少し欠けた月の明かりが冴える中、悩んでいる瑞貴の脳裏に、不意に悠花の声が蘇った。
――必要なのは、理解……
宝珠の力に目覚めたばかりで、何もわからなかった頃、夢の中で確かに聞いた悠花からのメッセージだ。
妖怪としての自己確立を失い、新しく生まれ変わる彼らの志に寄り添うこと。彼らの最後の妖力をそっと引き出して、丁寧にそれを相殺すること。新しい息吹を容れる器を整えること。何かがほどけていくように視界が開け、思考に光が射した。
(そうか……)
突然、瑞貴は拝殿の畳の上に立ち上がった。隣で瞑想していた美弦が、驚いて顔を上げる。瑞貴はそのまま拝殿を出て、サンダルをつっかけて離れまで脇目も振らずに走った。部屋から管狐の入った竹筒を取り、夜更けの風が吹く庭に出る。
「タカネ、フウロ、ちょっと付き合って」
鬼気迫って大声を出す瑞貴を見て、召喚された管狐たちは目をぱちくりさせている。様子のおかしい瑞貴を追ってきた美弦も、庭先で呆然と立ち尽くす。
瑞貴は管狐たちに右の掌を向けると、ゆっくりと二匹の妖力を吸い上げた。
(理解と、慈しみと、敬いだ……)
心の中で呟いて、瑞貴は集中した。息を吸うでもなく吐くでもない。呼吸で言えば、喉元で揺蕩わせるような感覚だ。それと同じように、引き出した青い妖力の上に、そっと浮かべるように赤いオーラを重ねる。引いては重ね、また引いて、重ねる。二色の色水が混じり合うように、赤と青のオーラが滲んでいく。
美弦が傍で、息を呑むのが聞こえた。青白い月光に照らされる瑞貴の掌の宝珠の上で、オーラは美しい紫色を作り出した。
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