1-29 神の御霊
葦原の国に迫る、もう一つの世界の景色は、
空から落ちてくるかのように、刻一刻と近づいて見えていた。
誰もいないもう一つの世界の空では、
逆さまになった空間母艦の艦隊が、必死の艦隊運動を続けている。
その空の下。
都心の公園に鎮座する祭壇の上には、
鬼塚一郎と武を飲み込んだ空間だけが、存在していた。
眠っていたような感覚から、武は目を覚ました。
足に地面の感触がない。
確かめようとすると、身体が宙に浮いているのがわかる。
両腕を動かそうとしても、まったく動かない。
武は、飲み込まれた空間の内部で、
視覚では捉えられない圧力によって、磔にされていた。
武が空を見上げると、空から見下ろしたような街の景色が広がっている。
「……な、なんだ。あの空は……?」
思わず声を漏らした瞬間、
一郎が、ゆっくりと武へ歩み寄ってきた。
「気がついたか」
一郎は、武の意識の回復を確かめるように言った。
━━こいつは、一郎じゃない。
「誰なんだ……お前は?!」
「久しぶりでも、幼馴染となればわかるか。
見上げたものだな、人間の友情とやらは」
「……一郎はどこにいる?」
「目の前にいるではないか。この通り」
一郎は、両手を広げてみせる。
意味の通じない言葉に武は言葉を失った。
だが、はっきりとした直感がした。
かつて、神となった康彦と相対したときと、
まったく同じ感覚だった。
「……神と対するのは、二度目か?」
「ど、どういうことだ……?」
一郎を名乗る存在は、不敵に笑った。
「我が名は、イザナミ。
こうして鬼塚一郎の身体を借りておる」
その言葉が、武の脳内を激しく打ち抜いた。
太古の神々の戦い。
鬼の産みの親。
鬼との戦争、その元凶。
その名を名乗る存在が、目の前にいる。
康彦から感じた“あの感覚”。
それが、人ならざる者である証だった。
武は、その宣言をまやかしとは思えなかった。
「な、なぜ一郎の体を……?!
一郎は、どうなっているんだ!」
「ここに共におる。肉体の中にな。
ただし、主導権はこのわたしだ」
一郎──イザナミは、淡々と語り始めた。
「十六年前。
我を擁する黄泉の国の九鬼神は、封印から解かれ、蘇った」
「九鬼神は、わたしを復活させるべく、
葦原の国のすべての人間に絶望を与え、
荒魂へと転じさせ、全員を殺す計画を立てた」
「そこで目をつけたのが、
この鬼塚一郎という原始超人だ」
「わたしの魂があったからこそ、
この世界は形を成した」
イザナミは、空に広がるもう一つの世界を見渡す。
「だが、こやつの空間の生成能力は、実に大したものだ。
このように葦原の国と全く同じ物を創ることができた」
「そして九鬼神は、
封印されていたわたしの魂を複製し、
それを一郎の体に宿すことにした」
「……そんなことを、
なぜ一郎が受け入れるんだ?!」
「物部 武よ。
お前が、その理由だ」
「……なんだと……?」
息が詰まりながら、武は問い返した。
「五年前。
九鬼神は、お前を襲わせた」
「その時、鬼塚一郎に告げた。
わたしの魂を受け入れなければ、
物部 武を殺す、とな」
武の中に、稲妻のような衝撃が走る。
地殻変動の日の、バス事故。
あれは━━。
「……じゃあ、あの事故も……」
「わたしのために起こした。
そして鬼塚一郎にさらに条件を出した。
葦原の国の人間を殺すとき、
物部 武は生かしてやるとな」
「そうして、わたしの魂を受け入れた」
武は絶句している。
「先日は使いを出したが、邪魔が入ったがな」
━━あの鬼に襲われたときのことか……?!
「お前の先祖とかいう高天原の神に、
何を授けられたかは知らん」
「だが、この状況を予想し、
何かを託されていたのだろう」
武を拘束していた空間が、弾ける。
足が地に着き、
手足が自由になった。
イザナミは、武を見下ろして言い放つ。
「物部 武よ。
お前は、鬼塚一郎諸共、
このわたしを打ち滅ぼすか?」
その怒号が、
誰もいない世界に響き渡った。
助けると決めた幼馴染が、目の前にいる。
だが、今語りかけてくるのは、
人間を滅ぼす存在、イザナミ。
康彦は、一郎を救う方法と、
そのための力を、武に託していた。
━━ご先祖様は、
一郎がイザナミに乗っ取られることを、
知っていたのか……?
答えを確かめる術はない。
十六歳には、あまりにも重すぎる宿命。
言葉を失った武を、
イザナミは冷ややかに見下ろした。
その瞬間、
武の頭上に新たな空間が現れ、
重圧となって押し潰す。
「ぐわっ!」
必死に両手で支えるが、
瞬く間に武は再び飲み込まれた。
「何もしないなら、このまま黙って見ていろ!」
武の意識は、闇に沈む。
空の上に広がる街の景色は、
なおも、落ちてくるように近づいていた。




