1-2 遭遇
日暮れの春風は、昼間の暖かさをまだ残していて気持ちがよかった。
武は帰宅途中、あの事故を境に起こった自分の変化と、最近身の回りで起きている出来事のことを考え続けていた。
超人タケル。
そう呼ばれるようになった理由は、「生まれつき丈夫だったから」ではない。
五年前のバス事故を境に、体が変わった。
怪我をしなくなり、風邪もひかなくなった。
持病だったアレルギーや花粉症も、いつの間にか消えていた。
頭の回転も、記憶力も、まるで別人みたいに伸びた。
中学受験も危なげなく通った。
自分だけ成長の速度が違う。
武には、その自覚があった。
そして今、体に現れている変化が「静電気」だった。
教室で蛍光灯が破裂した出来事は、配線の異常という見解で片付けられた。
誰も、それ以外を疑わない。
けれど武には分かっていた。
自分がやった。
利き手の左手から、引き起こしてしまったのだ、と。
あの瞬間に走った感覚は、いつもの静電気とは違った。
最寄り駅から家までの道は、線路沿いを十分歩き、左に曲がって五十メートル。
武はいま、線路沿いを歩いている。
だが今日は、おかしかった。
車も通らない。
人ともすれ違わない。
「この道で、人が一人もいないなんてあるか?」
思わず独り言が漏れた。
だが、まだ人通りが消える時間ではない。
工事現場の前で立ち止まり、周囲を見回す。
家や建物の明かりは点いている。
街並みは変わってはいなかった。
それなのに、自分がいる道は静まり返っていた。
思い返しても、電車が自分を追い抜くことも、向かってくることもなかった。
空気が、変わっていく感覚がした。
武は慌ててポケットから携帯を取り出す。
圏外。
不具合だろうと受信を何度も確認したが、電波は入らない。
状況が分からず、頭の後ろがかゆくなるように、さわさわした。
不安が膨らんだ、その時だった。
武はもう一つの“変化”を思い出した。
いや、思い出させられた。
帰り道に、背後から視線を感じること。
そして今日も、後頭部めがけてまっすぐに視線が飛んできた。
いつもより、ずっと不気味に。
武は携帯を見たまま固まった。
思い切って振り返る。
誰もいない。
武は前を向き直し、速足で歩き出した。
だが視線は、ずっと背中に突き刺さってくる。
鋭さが、じわじわと増していく。
家路へ曲がる角が見えた。
その角に、人影が立っていた。
武が足を止めた。
代わりに、その影が動き出す。
十メートル先。
街灯の光が足元から這い上がり、姿が現れた。
上半身は肩から、下半身は膝から、肌が露出している。
赤い肌。がっしりした筋肉。
肩掛けで、とてつもなく長い刀を背負っている。
顔は大きく、金色の頭髪から二本の角。
まさしく、鬼だった。
それも一人ではない。
ぞろぞろと角から、何人も現れてくる。
武は背を向け、思い切り走り出した。
恐怖で声も出ない。体だけが動いた。
だが、恐怖の中でも頭は回った。
さっきの視線を考えれば、前にもいる。なら逃げ道を変える。
十メートル戻れば、神社の入り口がある。
そこを曲がって参道をまっすぐ。境内の前で折れれば、人通りのある道へ出られる。
だが、鬼のような者はその方向からも現れた。
武は神社の入り口に飛び込む。
「曲がったぞ!」
背後から聞こえた声に、武は息をのむ。
━━日本語?!
奴ら、日本語をしゃべった!
人間なのか。日本人なのか。着ぐるみなのか。
思考がぐるぐる回る。
だが、直感がひとつだけ確信に変わった。
「あいつらだ!
あいつらが、あの長い刀で殺害事件を起こしたんだ!」
捕まれば、絶対に殺される。
そう自分に言い聞かせ、足に鞭を打ち続けた。
武の全力疾走についてこられる人間は、同じ高校に一人もいなかった。
だが、奴らはむしろ距離を縮めてくる。
追い詰められたせいか、足の回転が加速していくのが分かった。
今まで感じたことのない速度だった。
外で起きることも信じられない。
だが、自分の体がいちばん信じられなかった。
武が信じられるのは、自分の精神だけだった。
そしてその心は今、生命の危機を告げている。
夢ではない。
この状況を突破しなければならない。
追いつかれるわけにはいかない。
境内は目前だった。
そこで曲がれば、人の多い道に出られる。
だが、武が予想したくなかった事態が起きた。
前方からも鬼が現れ、挟み撃ちになったのだ。
逃走経路は読まれていた。
先頭の鬼が腰から小刀を抜き、右手に構えて突っ込んでくる。
「この小僧!」
その一声で、武は覚悟を決めた。
父から習った武道。
その体に染み込んだ要領が、無意識のうちに立ち上がる。
鬼の腕が横から振り回される。
武は半身になり、懐に飛び込んだ。
小刀を持った鬼の右腕を、武は両腕で挟み込んで肘をロックした。
その痛みに歪めた鬼の顔面へ、武の後ろ肘が飛び込んだ。
鈍い衝撃とともに、鬼は地面に叩きつけられるように倒れ込む。
今、武には、鬼の動きがスローモーションのように見えていた。
それだけじゃない。
体の奥から、今まで感じたことのない力が湧いてくる。
肘打ち一発の重さが、異常だった。
「この! 痛い目を見たいか!!」
間髪入れず、別の鬼が襲いかかる。
また、視界がゆっくりになる。
武は小刀を持つ鬼の腕を左手で掴み、右手で鬼の顎を押さえながら地面に叩きつけた。
集中が切れ、視界が戻る。
我に返ると、十人前後の鬼が武を取り囲んでいた。
倒れた二体は立ち上がれず、仲間に引きずられていく。
鬼たちは負傷を気にする様子はない。
ただ、この少年がここまで抵抗できることに、明らかにざわついていた。
「こいつ……もう戦える力があるのか?」
「おい! 篭鬼!!!」
「うるせー! 別に大したことはねえだろ!」
一喝した篭鬼は、鬼たちのリーダーだった。
あの長い刀を背負ったやつだ。
その時、左右から金属が擦れる音がした。
鎖が二本、武めがけて飛んできた。
気づいた時には遅かった。
鎖は回転しながら両腕に巻き付き、締まっていく。
「押さえつけろ!」
篭鬼の号令と同時に、鎖を放った鬼たちが力を込めた。
武の体が崩れ、両膝が石畳につく。
「おい。物部武だよな? 間違いねえよな?」
武は黙っていた。
だが顔には、まだ抵抗の色が残っている。
「人違いってことはねえな。ましてや、抵抗までできるわけで……」
言葉を言いかけていた篭鬼が、ものすごい速さで背中の刀を抜いた。
目にも止まらぬ抜刀の途中で、武の視界がまたゆっくりと動く。
刃が、引き抜かれていく。
━━まただ。
また始まった。
この感覚がなかったら、さっき俺は刺されて死んでいた。
これは死を前にして起こる現象なのか。
━━走馬灯じゃない。
これが、人間の死ぬ瞬間なのか……!
武の内側で言葉が響く。
だが篭鬼は、武ではない方向へ刀を振り上げようとしていた。
黒い物体が、凄まじい速さで突っ込んできた。
次の瞬間、篭鬼の首から血が噴き上がった。
スローモーションのまま、血は曲線のアーチを描いて空へ伸びる。
黒い光はそのまま、武を囲んでいた鬼たちへ飛び込んでいった。
鬼たちが次々に血を吹き出し、倒れ、転がり、回った。
あまりに異様な光景に、武は息を呑んだ。
鎖の力が、もうない。
武が立ち上がると、視界は通常に戻った。
鬼たちは全員、倒れていた。
背後に、気配。
武が振り返ると、そこにいたのは二本足で立つ白い狼だった。
大熊よりも大きい体。
黒い甲冑。
そして、篭鬼の刀よりも大きく長い刀を握っている。
真っ黒な甲冑に対照的な、真っ白な毛色。
その姿に、武は神々しさを感じた。
狼の目は、武をじっと見ていた。
「物部武だな?」
狼は正確な日本語で問う。
「……そうです」
「俺が何に見える?」
二本足で立つ動物。
人間と話す獣。
武は返答に困った。
「俺はお前たち人間ではないが、こいつら鬼とも違う。だが元は同じところから生まれた生物だ。妖怪って呼ばれた時期もあったがな。物部の子供よ」
物部の子供。
その言葉が引っかかった。
「父さんを知っているのですか?」
「お前の父親は、よくは知らん」
狼は淡々と言った。
「お前を連れて行きたいところがある」
「僕を……ですか?」
「そうだ」
狼は刀を鞘に納め、手を上にあげた。
すると、武と狼の間の石畳が突然ぐるぐると回り始めた。
渦を巻き、広がり、どんどん大きくなる。
「さあ、行くぞ! 高天原へ!」
「た、高天原って! 神話の世界の!」
武の声は、渦の風に遮られた。
体が、吸い込まれていく。
渦が消えた時、武と狼の姿はなくなっていた。
鬼たちの死体だけを残して。




