第一章 奴隷の少女
朝を告げる鐘の音が、建物いっぱいに響き渡った。
薄い毛布の中で眠っていた少女は、小さく身じろぎをすると、ゆっくりと瞼を開く。
見慣れた木の天井。
整然と並ぶ二十ほどの寝台。
まだ眠そうな人もいれば、すでに身支度を始めている人もいる。
ここは商業国家ルスロード、奴隷管理都市アダー・ブロ。
フィオナが暮らす共同生活棟だった。
「おはよう、フィオナ。」
隣の寝台から優しい声が聞こえる。
「おはよう、お母さん。」
フィオナはにこりと笑い、大きく伸びをした。
「今日もいい天気かな?」
「きっとね。」
母はそう答えながら、赤い髪を優しく整えてくれる。
その様子を見ていた老人が笑った。
「朝から元気だなぁ、フィオナは。」
「えへへ!」
その一言で建物の中に小さな笑いが広がる。
ここに暮らす者たちは家族ではない。
それでも、長い年月を共に過ごしてきた彼らは、まるで本当の家族のようだった。
「ほら、朝食だよ。」
配られたのは、焼きたての黒パンと温かな野菜のスープ。
豪華ではない。
けれど、お腹を満たすには十分だった。
「いただきます!」
元気よく手を合わせるフィオナを見て、周囲の大人たちは自然と頬を緩める。
「フィオナを見てると、こっちまで元気になるな。」
「ほんとだ。」
そんな何気ない会話が、この建物では毎朝交わされていた。
食事を終えると、それぞれの仕事へ向かう。
建物の外へ出ると、高い木柵が視界に入る。
その向こうは見えない。
見えるのは、どこまでも続く青い空だけだった。
フィオナは空を見上げるのが好きだった。
理由は自分でも分からない。
ただ、見ていると胸が少しだけ温かくなる。
「フィオナ。」
管理人が帳簿を片手に名前を呼ぶ。
「はい!」
少女は元気よく返事をした。
管理人は帳簿へ目を落とし、小さく頷く。
「フィオナ、管理番号二一八四。本日は北区画の水汲みと清掃。」
「分かりました!」
フィオナは笑顔で頭を下げる。
その姿に管理人も短く頷き、次の名前を呼んでいく。
それは毎日の光景だった。
怒鳴り声もなければ、鞭の音もない。
皆、それぞれに仕事をこなし、一日を過ごす。
昼休みには子どもたちが集まり、水を飲みながら他愛のない話をする。
「フィオナは、外って見たことある?」
一人の男の子が尋ねた。
「ないよ。」
「僕も。」
「どんなところなんだろうね。」
フィオナは少しだけ考える。
そして、木柵の向こうへ視線を向けた。
「きっと……。」
言葉を探すように空を見上げる。
「今よりもっと広い空があるんじゃないかな。」
子どもたちは黙ってその空を見つめた。
誰も外を知らない。
だからこそ、想像することしかできなかった。
夕方。
仕事を終えた人々が建物へ戻ってくる。
「おかえり。」
「ただいま。」
そんな言葉が自然と飛び交う。
本当の家ではない。
けれど、この建物は皆にとって帰る場所だった。
夕食を終えた後、フィオナは建物の入口へ腰掛ける。
木柵の向こうで、夕日が空を赤く染めていた。
「お母さん。」
「なあに?」
「いつか、あの向こうへ行ける日って来るのかな。」
母はすぐには答えなかった。
静かにフィオナの隣へ座る。
そして娘の頭を優しく撫でた。
「きっと来るわ。」
「ほんと?」
「ええ。」
母は微笑む。
「だから、その日まで元気でいましょう。」
フィオナは嬉しそうに何度も頷いた。
「うん!」
少女は知らない。
この街で生まれ、この街しか知らない自分の運命を。
そして、この穏やかな日々が永遠には続かないことを。
まだ、誰も口にしなかった。




