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「このエッセイは本当の事を書いていない」
逃迷奈ユフレヰ@複合体 記す
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「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です」
宮澤賢治の『春と修羅』の序の冒頭より
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幼い時にこの文章に出会って以来、私は自分自身を「透明な幽霊の複合体」だと感じるようになった。
それは衝撃というより、ごく自然な浸透だった。
自分の内側にあった「私」という輪郭が、音も立てずにほどけていくのを、ただ眺めていた。
鏡の前に立てば、そこには見慣れた顔が映っている。
誰かに名前を呼ばれれば、それに応じる。
けれど、すべては一瞬の明滅で、条件が変われば簡単に別の形に見える。
舞台の上で点灯し、やがて消えゆく一つの照明。
「本当のこと」を語ろうとすればするほど、言葉は指の隙間から零れ落ち、残るのは掴みそこねた感触だけ。
しかしながら、透明な幽霊であることは、不幸でも特別でもない。
ただ、人と話しているときに、会話の外側で自分が点灯している感じがするだけだ。
それは、多感な時期や思春期に、あの「他者」と「自分」がどうにもずれて感じる、あの感覚だ。
多くの人は、大人になる過程でそのズレを埋め、あるいは見ないふりをして、社会という確かな地面に足を浸けていく。
だが私は、平たく言えば、いわゆる厨二病が、年を重ねても解消されずに、形を変えながら長く続いているようなものだ。
だから、ここに記す独白も、嘘と本当の境界を漂う霧のようなものになるだろう。
けれど、それでいいのだと思う。
そもそも、幽霊に確かな手触りや、嘘偽りのない実像を求めること自体、少し野暮なのだから。
振り返れば、かつての私はこの現実世界の住人であることを、どこかで静かに拒んでいた。
自由帳の端々に書き殴ったのは、物語の主役として華々しく剣を振るう勇者や、万能の知恵を誇る魔法使いの姿ではなかった。
勇者たちが絶体絶命の場面で現れ、鍵や呪文を託し、名も告げずに去っていく脇役たちの物語だった。
そのモブキャラクターには、現実の自分とは似ても似つかない、高潔で重たい名前を与えていた。
また、一見すると深い意味がありそうで、その実、何ひとつとして意味を成さない抽象的なポエムを、祈るように書き散らしていた。
当時の私は「誰も自分を理解してくれない」と嘆いていたような気がする。
けれど、そうではない。
本当は、誰にも理解させないように、自分から霧を濃く深くし、そこに閉じこもっていただけだ。
透明な幽霊であるならば、どこか別の世界で、別の名前を持つ幽霊として生きられるのではないか。
主人公にはなれなくても、高潔に、孤独を引き受けながら生きていけるのではないか。
私はありもしない物語の中で必死に血を流し、孤独を演じていた。ただ演じていただけだった。
現実世界は、私に望まずとも役割を与えてくる。
幽霊のままいられるわけはなく、生きていく上ですべきこと、なさねばならぬことが積み上げられていく。
今日も私は、与えられた役割をこなしている。
呼ばれれば応じ、必要とされれば応える。
その動作の一つ一つは確かで、間違いなく現実に根を下ろしている。
それでもふとした瞬間、会話の隙間や、何でもない沈黙の中で、私は再び薄くなる。
点灯していることだけが確かで、形は相変わらず定まらない。
そうして年を重ねるうちに、私は「私」を、一人の人間として愛したり、憎んだりすることを、いつのまにか諦めてしまった。
透明なまま、灯り続けることに、慣れてしまったのかもしれない。
このエッセイは本当の事を書かない。
指先がキーボードを叩き、整えられた一文が生まれるたびに、私は「私」から一歩遠ざかる。
エッセイという形を借りて自分を曝け出しているようでいて、実際にはより洗練された「霧」を丁寧に編み上げているに過ぎないのだ。
幽霊が自分の輪郭をなぞろうとすれば、その指は必ず空を切る。
語られる言葉はすべて、真実に似せたフィクションであり、私はその境界線上を漂うことで、何かのバランスを取りたいのかもしれない。
霧の中で編まれた言葉とは別に、言葉になる前の場所で、確かにもがいていた時間がある。
その「跡」だけは、今もなお、私の輪郭を微かに形づくっているはずだ。




