第三章:4 静かな時間
ひどく静かな時間だった。
今、俺の耳に聞こえてくるのは、チョークが黒板を叩く音とペンが紙を走る音、それから数学の的崎先生の小さな声による解説ぐらい。生徒は一切喋らず、半分は眠りの世界に。残り半分のさらに半分はぼーっと、何かを違う事を考えているようで、真面目に授業を受けているのは結局全体の四分の一といったところだろうか。
かく言う俺も、ノートこそ写してはいるものの、上の空で違う事を考えている。
そもそも、昼飯を食った直後の授業に数学を持ってくるのが間違いだろ。快活に喋る先生ならまだしも、小さな、しかもすごく聞き心地のいい声で喋るこの先生の授業で寝るなという方が無理だ。さらに的崎先生、超マイペースだから寝てる人の事気にしてないし。「私の授業で寝るのは、まぁしょうがないでしょう。休むよりはマシです。という訳で、どなたか寝てる方にノートを写させてあげて下さいね」とか明言してるし。その上で授業態度点、寝てる奴の点数ゼロにしてるし。
と、窓際の龍鵺などの授業態度点くらいどうって事はないと眠りの世界へ小旅行するクラスメイトを眺めつつ、俺はそんなどうでもいいことを考えていた。
なんだか時間の流れが緩やかになったかのような穏やかな一時。時折聞こえる的崎先生の小さな声。
……あ、ヤバい。なんだかだんだん眠くなってきた。だが耐えろ俺。数学はいつも赤点候補なんだから。授業態度点ゼロはかなり大きいぞ。
俺は迫りくる睡魔の誘いを断ち切るため、何か考える事はないかと考える。
……って、待て。もうすでに『何か考える事』を見つける為に考えてるじゃないか。いやだけどこれは『何か眠くならなくて済むような方法』を見つける為の手段として、最も手っ取り早くやりやすい『何かを考える』という手段を用いている訳であって、この事を考えているのは必ずしも『眠くならない為に考えている』訳ではないハズだ。だからこれはその『眠くならない為の手段』ではなくて『眠くならない為の手段の探索』であって俺は今から『眠くならない為の手段』として採用した『何かについて考える』という行為の『何か』を見つける為に『考えている』訳であってこの考えは……ああもうなんか頭こんがらがってきた。
だけど目は少し覚めたぞ。ナイスファイト、俺。
「ん……?」
そんな小さな勝利に浸っている俺の机の上に、サッとノートの切れ端が投げ込まれた。
(……手紙?)
手紙? には『そろそろ素直になったらどうだ』と、それだけが短く書かれていた。
(……意味がわからん……)
手紙が飛んできた方――左隣の坂上の方に視線を移す。
坂上は意味深長に意味ありげに、俺に少し笑いかけると、すぐに顔を黒板へと向けた。
(……マジで意味がわからんのだが)
そう思ったが、いつまでも坂上の横顔を見つめながら、やっぱり美人だよなぁ坂上は、とか考えている訳にはいかないので俺も黒板の方に視線を戻す。
「……あ」
と、少し目を離している間に、黒板には新たな数式が三個程書かれていた。
(やべーやべー)
慌ててその数式たちをノートに書き込む。が、その意味はまったく理解できていない。大体なんでこんな曲線からyとかxがいくつとか分かるんだ?
俺は静かに溜め息をついて、頬杖を突く。そして数式を頭の中から放っぽり出して、今の坂上からの手紙の事を考えてみる。
(素直になれ、ねぇ……)
確かに俺は素直じゃない部分は多々あると思う。うん、それは認めよう。だけどそんなに気にはならないような事ばっかりだと思うし。……もしや、俺の気付かぬところで何か気に障るような傲慢ちきな素直じゃなさがあったのか?
「…………」
あるかもしれない。そりゃそうだ。何気ない一言がその人の心に楔を打つようなこんな時代なんだし。絶対に、とまでは言えなくとも、可能性はそこそこにあるはずだ。だとしたらばそれは何だ?
「う〜ん……?」
あれか? クラスで男子の評価が劣悪なぶりっ娘みたく「こいつわざとやってんじゃね?」みたいな不快感を与えてるとか?
「……いや……」
それだけはない。あってほしくない。というかそう思われるのは絶対に嫌だ。
じゃあ何だ?
「ぬぅ……」
何かが絶対にあるハズだ。あんな意味深な手紙? を寄越してくるくらいなんだし……。
ちょっと、視線を右の手首に落としてみる。
「…………」
そこにあるのは、曰くつきプロミスリング。
(まさか、これの事じゃないよな?)
……それこそ絶対にありえないか。
(だとしたらば一体……)
「……矢城君?」
「え、あ、はい?」
と、その疑問の答えを見つけるべく頭を抱えていると、的崎先生から小さな声で話しかけられた。
「分からないところがあるなら、遠慮せずに先生に聞いて下さいね? そんなに一人で悩んでいるよりは幾分かはマシになると思いますから」
「ああ、はい……ありがとうございます」
じゃなくて。
「いえ、別に数学の事で悩んでいた訳ではないので……」
「あらそうなんですか? でもだめですよ。今は数学の授業なんですから、しっかり授業に集中しましょうね?」
「はい……。すいません」
「まぁ、悩みが尽きない年頃だとは思いますけどね」と、的崎先生は静かに笑って、黒板に向きなおった。
でも、なんていうか。
(この人、先生ってよりは母親っぽいよなぁ)
物腰は穏やかで、性格も優しい。でも厳しいところもある、と、なかなかの母親スキルを保持している的崎先生の後ろ姿を見ながら、俺はそんなことを思った。
(そうなると、白井先生はお茶目なお姉さんってところか?)
ていうかあの人、色々と若すぎ。母さんの親戚とか、みんなあんなだった気がする。
(となると、父親は……室見先生?)
……あんな自由奔放な父親をもったら、どんな風に子供は育つのだろうか。
(母親、的崎先生。父親、室見先生。娘、白井先生)
想像してみると、なんか違和感がなかった。
(……って、ちょっと待て。何だか、どんどん思考が逸れていってないか?)
いけないいけない、と二、三度頭を振って俺の素直じゃない点についての考察に進路修正。
――さて。
……元の路線に考えを戻したはいいが、実際に何が悪い(?)のかがまったく分からん。
「うん……?」
と、一人悶々としていると、またもや俺の机の上にノートの切れ端が。
(またか。今度は何だ?)
訝しみながらその手紙? に書かれた文字に目を通す。
(え〜と……『素直なアナタって、好きよ』)
思わず吹き出しそうになった。ていうかなんなのこれは?
坂上の方を見てみる。坂上はイタズラっぽく笑って、左隣の桐垣を指さした。
指を差された桐垣は爽やかなニヤつき顔で、『これで眠気も吹き飛んだろう』とか口パクで伝えてきた。
(余計な御世話じゃ)
とりあえず口パクでそう返す。
「……ん?」
あれ、また机の上に手紙? が――ていうか坂上、お前いつの間に俺の机の上に投げ込んだんだ。今まったくそれらしい動作は見受けられなかったぞ?
『どうでもいいかも知れないけど、また新しい数式が黒板に現れたわよ by天笠』
だから天笠もいつ坂上に手紙を渡したんだよ。忠告よりもそっちのタネを教えてくれ。
と思いつつ、黒板に書かれた数式をせっせか書き写す俺。
(……って、またか……)
ちょうど黒板の内容を書き写し終えたあたりで、俺の机の上にまた手紙? が投げ込まれた。ていうか的崎先生は咎めないのか、このやりとり。
(まぁいいか。えーと……『そういうところがあるから、からかわれるじゃないのか?』あ、もう一枚来た……『そこが功司君の可愛いところ』)
……なんでこんな手紙で意思疎通できてんだこの人たち……ていうか俺のどこが可愛いのか理解できないんスけど。ついでに黒板に書かれた数式も理解できないんですけど。
『それは君が悪い』
……もはや机の上に投げ込むモーションも見えない手紙? に書かれた一言。もう何も言うまい……。