第1話:肉球通貨、爆誕
「旧通貨エトスは今日で廃止なのです。新しい通貨はNkQ(肉球硬貨)パン1個=1NkQなのです」
咲姫が朝の光の中でそう宣言した瞬間、俺の時給は“5NkQ(肉1kg分)”になった。
いや待て。肉1kg分って何ニャ。世界の経済が咲姫の“可愛い”で決まるのは知ってたけど、これはさすがに可愛くないニャ。
「猫二、行くのです。今日から新しい住処なのです」
咲姫が無邪気に袖を引っ張る。その後ろには、新人が緊張した顔で立っていた。
「えっと……本当に、ここで暮らすんですか?」
「そうなのです。可愛いのです」
いや、まだ何も見てないのに断言するな。
僕らが向かった先には――玄関が水没し、壁が斜めに傾き、天井から芋の蔓が垂れ下がる社宅があった。
「いや無理ニャ! 住めるかニャこんなとこ!」
新人が絶句する。
「え、これ……建物ですよね?」
「建物……のはずニャ……」
咲姫は水没した玄関に靴ごと突っ込み、壁にそっと手を触れた。
「可愛くするのです」
その瞬間、建物が軋み、床が盛り上がり、水面が波打つように揺れた。天井の芋蔓は一斉に伸び、壁の模様が勝手に花柄へと変わっていく。
「やめるニャ! 勝手に変えるなニャ!」
「すごい……いや、すごすぎる……」
新人が呟く。
咲姫は満足げに頷いた。
「これで可愛いのです」
いや、どこがだ。
水没はそのまま、床はさらに傾き、芋蔓は天井を覆い尽くしてジャングル化している。可愛いの基準が完全に狂っている。
「はいはい、修正するニャ……」
僕は工具を取り出し、咲姫の“創造の余波”を現実に合わせる作業を始めた。
そんな僕らの横で、うさちぁんがちゃっかりと屋台を広げていた。
「はいはい~、開店だよ~。水没社宅限定・芋酒3NkQ~。瓶は70NkQ~。樽は100~1000NkQ~」
「お前だけはブレないニャ……!」
新人が恐る恐る聞く。
「うさちぁんさん……これ、売れるんですか?」
「売れるよ~。咲姫ちゃんの創造が入った場所は全部“名所”だからね~」
「名所……?」
「そうなのです」
咲姫が胸を張る。
「ここは今日から、“可愛い社宅”なのです」
いや、可愛いの定義を一度会議しよう。
僕は水没した玄関の水を抜きながら、新人に説明する。
「いいか新人……咲姫の“可愛い”は、物理法則より強いニャ」
「物理法則より……?」
「そうニャ。だから建物は勝手に変形するし、芋は勝手に育つし、玉ねぎは勝手に泣かせてくるニャ」
新人は震えた。
「そんな世界で……どうやって生きていけば……」
「慣れるニャ」
「慣れるんですか!?」
「慣れるのです」
咲姫が断言する。
「この世界は、可愛いのです」
いや、可愛いの暴力ニャ。
そのとき、社宅の奥から「ボコッ」と音がした。
新人が青ざめる。
「い、今の音……何ですか?」
「芋ニャ」
「芋!?」
「咲姫の創造で、芋畑が地下に広がってるニャ。たぶん今、巨大芋が生まれたニャ」
「巨大芋……」
新人の目が死んだ。
咲姫は嬉しそうに言う。
「芋は可愛いのです。あとで芋ラグビーをするのです」
「芋ラグビー!?」
新人の悲鳴が水没社宅に響いた。
僕は肩をすくめる。
「ようこそ、狂気の世界へニャ」
咲姫は微笑む。
「今日も可愛いのです」
そして、世界はまた少しだけ狂った。
社宅の奥から、再び「ボゴォッ!」と鈍い音が響いた。
新人が跳ね上がる。
「ま、また何か生まれましたよね!? 絶対なんか生まれましたよね!?」
「巨大芋ニャ。たぶん今ので二個目ニャ」
「二個目ぇ!?」
咲姫は嬉しそうに頷く。
「芋は可愛いのです。たくさん生まれるのです」
いや、繁殖力の話じゃないニャ。
僕がため息をついたそのとき――床下から、ズズズ……と何かがせり上がってきた。
新人が悲鳴を飲み込む。
「ね、猫二さん……あれ……」
「巨大芋ニャ」
直径一メートルはある。表面がツヤツヤしていて、なぜかほんのり温かい。
咲姫は目を輝かせた。
「この芋、可愛いのです。名前をつけるのです」
「名前!?」
新人が完全に混乱している。
「芋に名前つける文化なんてありましたっけ……?」
「今日からあるのです」
いや、文化を即興で作るなニャ。
咲姫は巨大芋を抱きしめ、満足げに言った。
「この子は“ぽてまる”なのです」
新人が震える。
「ぽてまる……」
「可愛いのです」
いや、可愛いの暴力ニャ(二回目)
そのとき、外から元気な声が響いた。
「おーい! 猫二ー! 芋の苗拾ったぞー!」
ぽぷらんが両手いっぱいに芋の苗を抱えて走ってきた。
「また拾ったのかニャ!? どこでニャ!?」
「そこらへん!」
そこらへんってどこニャ。
ぽぷらんは巨大芋“ぽてまる”を見るなり、目を輝かせた。
「でっか! これ、投げたら絶対楽しいやつだ!」
「投げるニャ!? 投げる前提ニャ!?」
咲姫がぽぷらんの言葉に反応する。
「投げる……可愛いのです」
「可愛いの基準どうなってるニャ!?」
ぽぷらんは巨大芋を持ち上げようとして――持ち上がらずに潰れた。
「うおっ、重っ! これラグビーできるんじゃね?」
新人が青ざめる。
「ラ、ラグビー……?」
咲姫は嬉しそうに手を叩いた。
「芋ラグビー、可愛いのです!」
「可愛くないニャ!!」
うさちぁんがすかさず屋台から顔を出す。
「芋ラグビー公式ドリンク、先行予約受付中だよ~!」
「商売が早すぎるニャ!!」
新人は完全に崩れ落ちた。
「もう……何が正しいのか分からない……」
僕は肩をすくめる。
「正しいとか間違いとか、そういう世界じゃないニャ。咲姫が“可愛い”と言ったら、それが正義ニャ」
咲姫は胸を張る。
「そうなのです。世界は可愛いのです」
いや、世界観の根幹を一言で決めるなニャ。
巨大芋“ぽてまる”がゴロリと転がり、社宅の床がさらに傾いた。
新人が叫ぶ。
「猫二さん! これ本当に住むんですか!?」
「住むニャ」
「無理ですよ!!」
「慣れるニャ」
「慣れたくない!!」
咲姫は微笑む。
「大丈夫なのです。ここは、可愛いのです」
いや、可愛いの暴力ニャ(三回目)
こうして、肉球硬貨と涙の玉ねぎが支配する世界での生活が始まった。
そして――この狂気は、まだ序章にすぎない。




