調査隊の謎の青年
アウフ達一同は地上へと戻ってきた。
10日前後で帰還という当初の予定よりも、とてもとても長い時間をかけて。
その理由は当然、温泉ダンジョンの見学と観察であった。
「見学は元気になってから好きなだけしてください、って言ったわよねヴィヒタ」
言った。たしかに言った。
もちろんお元気になられたのだから、その程度のわがままは許容するべきとも周囲の騎士たちも思っていた。
アウフはダンジョン資料館の情報管理責任者でもあるのだから、ダンジョンを詳しく見て行くのも間違ってはいない。
ただヴィヒタと、体力回復湯で四六時中一緒にいた一部の騎士は、アウフのそのわがままに付き合う危険性を認識していた。
何しろアウフは体力回復の湯で運動している間、自分の身体を使って、どれだけの効果があるのかをずっと記録して計算し続けていたし。
体力回復の湯に備え付けられたタオル置き場のタオル再出現の瞬間を見るべく、10時間近く、よそ見もせず棚を凝視し続けるような人間だったからである。
そんな人間なので、たとえ滞在が何日伸びようと、鏡の部屋の鏡が復活していく瞬間も見届けようとするのは当然であった。
温泉ダンジョンは、道中に食料も水も滞在場所も充実してしまっている分、早く帰りましょうと強く言いにくいのも災いしている。
「う、うわああああ、すっごーーーーい!! 水槽に水を入れていくように鏡が広がっていくわ……。まさしくダンジョンの魔法が生み出す現象ね、ああ、見れてよかった」
南極でオーロラを見るために、過酷な環境で何日も滞在して、輝かしいオーロラをようやく見れた物好きな観光客のような様子でアウフは感動する。
周囲の騎士たちは、……ようございましたね。といった様相ではあるが、この鏡ってこんな風に再生していたんだと、ほんの少しはアウフのように感動もしていた。
「鏡を見ても、心が一瞬揺らぐことがなくなってるわ……」
「湯にはいられて綺麗になられたからでしょう、お嬢様」
「そういうレベルじゃないわヴィヒタ、心理に刻み込まれた拭いきれないトラウマみたいなものが消えてるの……。おそらくこれも医療の湯の効果ね。
きっと身体じゃなくて、心が壊れて動けなくなった兵士や騎士たちも、あの湯なら治療できると思うわ」
すでに地上には19階層の医療の湯のことは報告済みであり、その湯を飯困らずダンジョンの方に運び込む作業はトウジ隊長隊の手ですでに行われていた。
アウフが鏡の部屋の待機中している間にも、病気で何年も寝たきりの伯爵夫人やら、命に別状はないがずっと耐え難い苦痛が続く不治の病を抱えた侯爵令嬢などが第1部隊によりタンカで運ばれて来る様子も見た。
彼女たちの病気が治って感激しながら戻ってきた時、まだ鏡の再生の観察のために同じ部屋に滞在し、何もない壁をじっと観察し続けているアウフの姿を見られてドン引きされたりもしていた。
そんな彼女たちは、アウフより先に地上に戻ったため、その医療の湯の効果を根掘り葉掘り聞かれることとなった。
温泉ダンジョンの19階層の入り口には、ダンジョンに吸収されないように動かすことの可能な簡易な樽の浴槽が置かれ。
あの医療知識がびっしりと書かれた温泉の部屋までわざわざ行く必要はなくしている。
それは少しでも、病人の移動距離を短くするための配慮でもあり、あの壁の文字を実際にはまだ見られたくないという配慮でもある。
病気がすっかり治ったという以上の情報は、彼女たちの口から聞けることはない。
こんな調子でアウフは、1階層1階層ゆったりとダンジョンを観察しながら登った結果、その帰還にはたっぷり1か月くらいの時間がかかったのであった。
戻ってきた理由も、温泉ダンジョンの超常現象の観察より、地上で進めている蒸気機関の開発への興味がだんだん上回ってきたのが大きな原因なのだが。
「さて、新しい医学論文を捧げたら19階層の湯ができたって報告書をダンジョン資料館に貼りださないとね……」
公爵邸に戻って資料の作成をしながら、世間の様子を爺ややメイドたちから聞いていたところ。
あの医学知識の発表は、思った以上に世間にとんでもない衝撃を与えていたらしい。
医薬品を取り扱う商人や、お祓いグッズで集金していた教会は想像通りに大慌てとなり。
あの論文を広めたものは異端者であると、一部の研究者を異端審問にかけようと先走って動きだした教会すらいたらしいが。
すでに情報は各国に拡散されてしまったことを後から知り、その知識の出どころも全くの不明であったことから、教会もどう対処すればいいのかわからなくなっていた。
とどめにアウフが、最奥の温泉で療養中、その新しい医療論文を捧げたら医療の湯が温泉ダンジョンに作られ命を救われたと発表してしまったのだから、ますます教会はパニックとなった。
元々、この世界の教会は、地球のソレと比べると大幅に権威が薄い。
なぜなら、本当に奇跡を起こしてくれるダンジョンが世界に存在しているからである。
ダンジョンで帰らぬ人となった者は数しれないため、人を惑わしおびき寄せ食らうことが悪魔の目的である。と言い。ダンジョンにより不幸になった家庭を取り込もうとする教会の教えも、それなりの支持はあり浸透しているのだが。
ダンジョンで得られるリターンが大きくなれば大きくなるほど、その教えに背くものは増えていく。
そもそも大国すべてが巨大ダンジョンを保有して、その恩恵に与って国力を保持しているため、国家の後ろ盾も得られにくい。
むしろダンジョンは神がお与えになった存在である、ダンジョンそのものが神であるという、ダンジョン信仰のダンジョン教がこの世界の最大宗教であるといったほうがいいのかもしれない。
アウフのあずかり知らないところでは、望遠鏡の開発国である水晶ダンジョンを保有する国では、極秘に進めていた研究が全部流出したのかと大騒ぎになっていた。
水晶ダンジョンが偶然生み出していたレンズを組み合わせる事で望遠鏡を作り出していた国は、顕微鏡を秘密裏に開発してひっそりと医療知識を磨いていたのである。
しかし、あの論文に書かれていた内容はそんな研究をもはるかに凌駕するレベルの内容だったため、結局知識の出どころは謎のままであった。
「うおおおおおおお! ダンジョン様! ダンジョン様はやはり我々の言葉を聞いてくださるぞおおぉぉ!!」
ダンジョンに吸収されたいおじさんなどは、ダンジョン教の狂信者みたいなものである。
医療知識を捧げたら医療の湯ができたというアウフの報告は、ダンジョンおじさんのようなダンジョン信者の勢いをますます加速させた。
昔からダンジョンを崇め奉る祭りみたいなものは、各地にあるにはあったが。
それらはダンジョンの入り口付近でお祈りをしたり。願い事を書いた板をダンジョンに吸収させると願いが叶うと言われているといった。
神社に絵馬を掲げたり、七夕飾りの短冊に願い事を書くのと似たような程度の、軽い気持ちで行う祭事のイベントに過ぎなかった。
しかし、このアウフの発表を境に、ダンジョンの最奥に願いを捧げることで本当に要望を聞いてくれるのではないか? といった憶測が世界に広まりはじめた。
大半の者はこれまでと変わらず、自分の欲望をそのままお願いすれば、もしかすると聞いてくれるかもしれない、程度の浅はかな考えをしていたが。
ある程度のダンジョンの知識がある、大国の為政者や学者たちは冷静にこう考えていた。
“ダンジョンにとって有益な知識を捧げねば意味はないだろう” と。
セパンス王国の温泉ダンジョン資料館には新しく、医療の湯の効能とその部屋の壁に書かれた医療の情報とともに。
本物そっくりの正確な絵で描かれた、ペタちゃんの絵が掲げられていた。
「ああ、この悪魔ですか? 医療の湯にアウフ様が入られた直後に出てきたんですよ」「なぜかアウフ様に対して怒っていました」「何を言っているのかはわかりませんでした」「要望を出されるのは嫌だったのかも」「前に描かれた絵、似てませんね」
知識者や貴族たちが、当時現場にいた女騎士たちに話を問いただすと、おおむねこのような答えが返ってくる。
あの医療知識を捧げたら医療の湯が出来たというのは絶対に答えられない大嘘なのだが、それでもヴィヒタ副隊長が医療の湯をダンジョンに要望したら作ってくれたということは事実だと思っているため。
ユーザ陛下以外の直属の上司に当時の実情を問われても、その回答に大きな齟齬や矛盾は発生しない。
意見を総合すると、要望をダンジョンに送り付けると気まぐれなダンジョンの意思が、気まぐれに対応をしてくれる可能性はあるが。
無駄な知識や要望を送り付けると、ダンジョンの機嫌を損ねる可能性も十分あるといった憶測も生まれ始め。
国の許可なく、身勝手な要望を書き込んだ書物をダンジョンに送り付けたものは厳罰に処するといったお触れなども次第に出されるようになっていった。
各国の為政者はダンジョンに捧げるべき内容を各々作り始めた。
鉄ダンジョンを保有するクラプス王国は、これまで地上で培った製鉄技術を書き記した書物を書き写し。
国家最強の騎士、プレス隊長率いる一団に、ダンジョンの最奥にこの書物をダンジョンに気付いてもらえるような工夫を施した上で捧げるようにと指令を下した。
糸ダンジョンを保有するドルピンス王国は、これまで国家で築いてきた製糸の技術や、国で作り上げられた糸製品や布製品の数々、デザインの書物などをダンジョンの最奥へと捧げる準備を始めた。
武具ダンジョンを保有するマーポンウェア王国は、武術の指南書や戦争の歴史、これまでの武具ダンジョンで産出された武器防具が地上でどのような使われ方や評価をされているのか。
どういう武具が地上で欲されているのか、そいういった情報をまとめた資料をダンジョンの奥底へと捧げる準備を始めた。
アウフによる医療の湯の発表以降、ダンジョンに対してお願いを試みようとする動きが各国で加速し始めたのである。
♨♨♨♨♨
飯困らずダンジョン5階層。
「パンはいらないか? パン!」「ようよう! そこの調査団の兄ちゃん、何か買っていかねえか」「兄ちゃん~いい子いるよ、いい子! チョコ10枚か酒1つで1時間、回数無制限で……」「見慣れねえ顔だな、新人かい?」
ダンジョン調査ギルド隊の制服を着た青年の男に、5階層の商人が営業トークで話しかけるが、その青年は曖昧な笑顔で手を振って通り過ぎていく。
どうにも不自然な青年である、ギルドの調査隊の制服を着ており、ダンジョンの5階層にいるというのに、その青年は荷物を何も持っていない。
それだけなら、ダンジョン内の移動居住区に荷物は置いてある可能性もあるのだが、彼は武器すら持っていないのだ。
そのまま青年は、ダンジョンの奥の方へ歩いて消えて行った。
なんだあいつと、一瞬商人たちは思ったが、次の剣士の冒険者があらわれると、商人たちの興味はすぐそちらに移り、商売を始めた。
♨♨♨♨♨
「繝代Φ 繝代Φ」「隱ソ譟サ蝗」 菴輔° 雋キ」「螽シ蟀ヲ 繝√Ι繧ウ 縺輔¢」「譁ー莠コ」
本当だ、何言ってるのか全然わからねー……。
とりあえず曖昧な笑顔で手を降って、その場から立ち去ることしかできないな。
ペタちゃんがアウフちゃんに文句を言っていた時、どうにも周りの女騎士たちはペタちゃんが何を言っているのか理解できていない様子だった。
ペタちゃんにそのことを聞くと。
「当たり前でしょ、マスタールームを介さないで人間の言葉が翻訳できるわけないじゃない」と言われた。
相変わらず何が当たり前なのかわからないが、とにかくそういうことらしいので。
俺も幻影を実体化してみて、5階層の商人が色々売りつけてくるエリアを少し歩いてみたのだ。
ダンジョンの氷が溶けない限界の階層が5階層のため、冷えた料理や酒を提供しやすいという理由で商人たちは5階層に集まっているからだ。
本当に彼らが何を言っているのかわからなくて少し悲しくなる。
たしか、あの店はエッチなお店だったよな、くそ。
まあ、交渉ができた所で俺はダンジョンでは身体がなくて触れないから意味がないんだけどさ。
「なるほどねえ、ダンジョンの悪魔がこれまで人間と直接交渉してこなかったわけだ」
こっちの話すことも、相手の言っていることも、お互いまるで伝わらないのだからどうしようもない。
ダンジョンのコンセプトと無関係な言葉を壁に刻んで話すのも莫大なポイントがかかる。
ダンジョンの壁文字で文通など、家の壁紙を毎回張り替えて、それで文通しろって言うくらいやってられない行為だ。
だが、俺達は違う!
「んじゃ、ペタちゃん、実験開始してみてくれる?」
「はーい」
ペタちゃんは、さっきの商人たちを、マスタールームからモニターで映し出してくれている。
そして、具現化したスマホを近くにおいてその音声を拾い、俺はその音声をイヤホンを通して聞く。
モニターや電話の概念が使える、俺達にだけできる芸当だ。
「どう? マスター?」
「……わかる、何を言っているのか聞こえる」
どうやら俺の次に来た冒険者に、パン買っていかない? いい子いるよ、いい子! などとセールストークををしているようだ。
冒険者は「帰りにな! 帰りに」と言い、俺のいる方へとやってくる。
「ん? なんだ調査団の兄さん、武器も持たずにこんな場所でぼーっと突っ立って」
俺は温泉ダンジョンを最初に調査しに来た冒険者の服装を真似て着ている、どうやらこの服装だとダンジョン調査団員と思われてしまうらしい。
長いことダンジョンの冒険者を観察しているので、どういう調査団員なのかは詳しく知っている。
なんというか普段は限りなくフリーの冒険者に近いが、依頼書があれば日雇いで公務を務められる立場の、ギルド公認の調査隊である。
偉くもなく、かといって信用が低すぎずで、適当にダンジョンをうろついていても怪しまれない丁度いい塩梅だ。
「武器なら持ってるよ、ホラ」
俺はバタフライナイフをポケットから取り出してチラッと見せる。
「うおおっ、そりゃ武具ダンジョンの新しいナイフかよ!? ずいぶんいいモノ持ってるな……というか、なんか今、変なところから声が出てたような……?」
「き……気のせいだろ。じゃ」
マスタールームのモニターに映し出した俺の声を拾って、スピーカーから発生させることで無理やり翻訳しているから、どうしても不自然になってしまうな。
……いいんだよ、言葉が通じると分かればそれで。
実験は終了だ、ボロが出る前に帰ろ帰ろ。
「あ、待ってくれ、そのナイフをじっくり見せてくれよ、俺も武具ダンジョンの装備には憧れてて……」
はいはい、幻影の俺とナイフに触れることはできないんだから早く逃げないとな。
俺は笑顔で手を降って、駆け足でその場から逃げた。
少し慌てて、人間の速度ではありえない速度で逃げてしまったかもしれない。
マスタールームに戻ってさっきの彼を見てみると。
目を見開いて、顎が外れそうな顔で俺の走り去った方向を見ていた。







