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山林に逃げ込んだ私は負傷した体で直ぐに移動がままならなくなった。
とは言え、いつ鉈を手にした守屋氏がやってくるか分からない。
折角治りつつあった左足でびっこを引きながら、林立の木々を杖代わりに方角も分からず前へ前へと進んだ。
肩の痛みはもはや感じられず、ただ淡々と血が肌を滑り衣服を湿らせる。
日はもう沈んでいてその残り香のような薄明りが空をぼうと覆っている。
もう数十分もすればここら一帯も真っ暗闇に堕ちるはずだ。
そうなれば、追っ手から身を潜めるのは優位だろう。
しかし、手負いの状態でしかも山に不慣れな私が夜の山を歩くなど命知らずにもほどがあった。
だが、捕まってしまえばあるのは明確な死だ。私は周囲に人気がないのを確認すると、見つけた古木の洞に身を押し込め夜の訪れを待った。
__そうして私はいつの間にか寝ていたらしい。
意識がふっと浮上すると、思いのほか視界は明るかった。
月明りが木々の合間を縫って洞の中に身を潜める人間の足元まで照らしていたからだ。
覚醒しない意識のままぼうとその明かりの中で陰影をつくる枯れ葉を見下ろしていると、後方からがさがさと音が聞こえる。
体が一気に強張り、口の中が貼り付くように渇く。
耳に全神経が集中させる。こめかみから汗が一筋たらりと伝った。
「遠坂さん、遠坂さん」
私を呼ぶ声は、殺意をみなぎらせた守屋氏でも終始私を嫌悪していたカオルのものでもなかった。
村の医者役の佐太郎氏だった。
声色からは私に対する害意は感じられない。
私は恐る恐る洞から這い出た。
ちょうど彼が背中を此方に向けているタイミングだったので、佐太郎氏は私の立てた音にびくっとして辺りをきょろきょろと見回した。「遠坂さん?遠坂さんですか?」
私の姿を見つけると、佐太郎氏はほっとしたように表情を緩めた。
「よかった、夜中に一人で山を下りてしまったとお聞きしましてね。
びっくりしましたよ、いくらなんでもそれは無茶ですから」
氏の人好きのする笑みに私の荒んだ心が癒された。
私は彼に守屋氏の錯乱とそれによる肩の怪我について説明した。
彼は守屋氏の所業にしばらく言葉を紡げないようだった。
「嘆かわしい。実に嘆かわしい。
遠坂さん、村の皆にこれを知らせに行きましょう」
彼の提案にしかし、私は村に戻る気は毛頭に無かった。
また守屋氏と対面するなどとは考えただけでも恐ろしい。
私は村には戻らない。このまま山を下りるのだ、と断固として譲らなかった。
「そんな状態では到底無理ですよ」
佐太郎氏は駄々をこねる子供を諭すようであったが、やがて私が絶対に折れないのを知ると懐から紙を取り出し、つらつらと何かを書き始めた。
「いいですか、この先に見えるあそこに一本大きな銀杏が見えるでしょう?
あの木の左手に今は使われていない昔の山道があります。この地図通りに進めば国道沿いまで行けるはずです。しかし、いくら待っても車は来ないでしょう。
いいですか?道を下っていくと一軒ぽつりと人家が見えます。
そこの者を頼るといい。私の遠い親戚でずっと前に村から出た男です。
きっと力になってくれるでしょう」
佐太郎氏はそう言うと、私に書き終えた地図を渡してくれた。
それだけでなく、簡易的な傷の手当と痛み止めの薬をくれた。
私は彼に深く礼を述べた。
もしも彼に会えずじまいだったら、血を漂わせた私は獣に襲われて明朝には哀しき肉片となって辺りに飛び散っていたかもしれない。