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夜の闇が一段と濃くなった頃私は遂に国道へと出る事が出来た。

満身創痍の体であったが、整備された道を踏みしめた時私は歓喜に震えた。

佐太郎氏の話によると、少し下ると家があるとのことだったが確かにあった。

道路照明もない道の先、少し外れた山林の中に蛍のようにぼんやりと丸い光が見える。

近づいていみると、それは窓から漏れた照明の灯りだと分かった。

私は電灯に群がる羽虫のような心地でふらふらとそれに引き寄せられた。

佐太郎氏の遠戚者というのは、落ち着いた目をした穏当そうな男であった。

これこれこういう事情で佐太郎氏よりあなたを尋ねるよう言われた、と伝えると様子からして就寝前だったにも関わらず快く私を家に引き入れてくれた。

体の汚れを払い、傷口が化膿しないようにと清潔な包帯を巻かれ、諸々が終わると脱力したのか私の腹から低い唸り声がなった。

どうも私の胃袋というのは呑気なもので主人の一大事にこう頓馬とんまな事をする。これでは私自身が間の抜けているようでないか。

私が「こら」と心の内で腹の虫を叱っていると、家の主人はこちらがじんわりとするような笑みを見せて「どうぞどうぞ、余りものですが召し上がってください」とテーブルの上に小鉢をいくつか並べてくれる。

山菜の漬物や子魚の佃煮と共に粒の立った白米を出されて空腹の日本人が我慢の出来るはずがない。

何日も食っていない男のようにがつがつと飯を掻きこんでいる向かいで、主人はまるで女房のように私を見守っている。時々液体の入ったグラスを傾けるぐらいで私からは片時も目を離さなかった。

あっという間に空の器が誕生し、心地よい倦怠感に身を任せていると私もようやくもう安心なのだと思えた。

「ありがとうございました。本当に助かりました」

暖房の前に寝転ぶ猫のように満たされた顔であったろう私に彼は「うんうん」というように頷づくと茶碗を持って部屋の奥へと姿を消した。かちゃかちゃという音の後にきゅ、さぁーと続く。

「寝る前に痛み止めを飲んでいくといいですよ。今お水を持っていきますから」

私はすっかり薬の存在を忘れていたので、なんて気の利く主人だろうと思いながら懐に手を伸ばした。

薬は薬包に巻かれて地図の間に挟んでいた。地図を取り出そうと差し込んだ指が四角い角に触れる。

何であったかと取り出してみると、それはあの手帳であった。

カオリに投げつけられたそれを私はちゃんと懐に入れていたのだ。

手帳は間にペンが差し込まれていて、当然ページはそのペンが挟まれた所で開かれる。

『シロクイバ』

見覚えのない文字に私の手は止まった。

それから心臓がどくりと脈を打つ。

私はちらりと男の消えた方を見た。姿はまだ見えず、茶碗を洗う音だけが聞こえる。

__気が利く。いや、()()()()()()()

私はそちらに注意を払いつつ、そぅと薬方の中身を向かいのコップにさらさらと注いだ。

逡巡してから人差し指をコップに突っ込む。そうして音を立てないように中身をかき混ぜるとうまい具合に粉は溶けて傍目から見ても先程とさほど変わらないようであった。

薬包には代わりにテーブルの端にあった塩の小瓶の蓋を開け、中身をすすすと適当量入れた。

私が塩を元の場所に戻すと、すぐにコップを手にした主人の姿が現れた。

「どうも、何から何まですいません」

私が水の入ったコップを受け取ると、男はにこりと会釈をして私が薬包から塩を口に含みコップを傾ける一連の動作を見守っていた。

「ああ、これでもう大丈夫です」

私がさもありなんと胸を撫で下ろすのを見て、男も同様に頬を緩めた。

そうして自分の方のコップに残っていた水を飲み干す。

ちらりと男の様子を見やるが、別段変わった様子はない。

__杞憂だったのか?

「さあ、客間に案内しますよ」

先立つ男の後を追いながら廊下を歩いていると、突然その背中がぐらりと大きく揺らいだ。

そして私が呆気にとられている前でそれは床に崩れ落ちた。

私は慌ててしゃがみこんで男の上体を起こすが、その体に力はなく肉がぐったりと私の腕にもたれかかる。

__まさか死んだのか?

一瞬、自分のしでかした事にくじかれそうであったが、腕の中からくかーくかーと気持ちよさそうな寝息が聞こえて私はほっとして、男の体を床に投げ捨てた。

そこに至ると、私はもうその家にいるわけにはいかなかった。

__居座れば殺されると分かっているのにいつまでもうずうずしている場合ではない!

借りた寝間着を脱ぎ捨て元の汚れた衣服を身に付けると、周囲に注意を払いつつ家を抜け出した。

月明りから逃れる様に闇の中国道なる道を必死になって下り続けた。

途中からの記憶はない。

明朝、力尽きた私は危うく農家のトラックに轢き殺されかけ、

運転手はぶつくさと文句を言いながら、この行倒ゆきだおれの男を国営の病院まで運んでくれた。

法の秩序を遵守するこの愛国者は「この男、逃亡犯じゃなかろうか」と警邏けいらに告げ口した後、さっさとトラックを走らせて去って行った。その為、私は森山に迎えに来てもらうまでは警察の方で身柄を拘束されていたのだった。

しかし、この運転手もとい農家の親父の見当違いを責める事は出来ない。

私の外見は尋常でなかったし、

親父は私を病院に送るために農作物の納入作業を遅らせる羽目になったのだ。

__何より彼は私の命の恩人なのだから。

そう言って、私は彼に心ばかりの謝礼を渡したいと警邏達に親父の所在を尋ねたのだが、向こうはまるっきり口を割らなかった。

私が言いがかりをつけてきた親父に仕返しを企んでいるのではないかと誤解してるらしく、結局最後までその親父の事は分からずじまいだ。

まったく、仕返しだなどと馬鹿な。

私がどうしてそんな事をする男に見えると言うのだろうか!

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