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村は飢えていた。
しかし、以前よりは幾分ましになっていた。
或る村人が定期的に皆に飯を振る舞うようになっていたからだ。
彼は決して驕らず、分かち合う事は当然だと語った。
皆、彼に感謝した。
誰もどこからその肉を手に入れたのかを聞こうとはしなかった。
その村の人々は飢えの中であっても、人の物を奪おうとはしなかったから食材の入手方法を知る必要がなかった。
彼らの気質がどこから来たものかは不明だ。
倫理が飢餓の苦しみに勝てるなどとは思えない。
しかし、この稀有なる村人たちは打ち勝ったのだ。
その状況下で彼らは道徳を持っていたのだ。
__いつ、どこから、肉の正体が漏れたのかは分からない。
だが、彼らはその男を糾弾しなかった。
どうして責める事が出来よう。
あの肉が無ければ我々はとうに土に還っていたのだ。
ほら、子供達の顔を見てごらん。
私の傍らで眠りにつくこの愛らしい寝顔を。
あの肉が無ければ、この子の可愛らしい頬はなかったのだ。
この胸にあるのはからからと音を立てる痩せ細った骨の欠片だけだったのだ。
なあ、どうして彼を責める事が出来ようか?
__いつからかそれは村の暗黙の了解となっていた。
村人は自分達の為に手を染めた男を表には出さずとも称えた。
__いつからかそれは村の日常となっていた。
飢饉を耐え抜いた後でもそれは続けられていった。それが当たり前だから、あって当然の習慣だから。
男が死んだ後、甥がそれを引き継いでいった。
そうやって村はこの新しい習慣に沿うように変遷を重ねた。
死体や、体の弱ったもの、怪我をしているものなどはよろしくない事が分かった。
体長を崩したり、中には気をやってしまう者が現れたからだ。それが本当に食材のせいだったかどうかは不明だ。しかし得てして俗信とはそういうものだ。
以降、食材は新鮮で健康体なものに限るようになった。
それに伴い、食材を管理する役職が誕生した。
その役についた一番初めの男の名前からとって、代々『佐太郎』の名と共に伝統は引き継がれる事になった。
人体の構造や機能について、体の内に病巣がないかを判断の指針、精神環境が肉体にもたらす影響について等々弟子は師匠である佐太郎についていって様々な事を教え込まれる。そうして自身も次の世代に繋いでいくのだ。
そして、代々この家業を引き継いでいった守屋家は村の中心となって村民たちを導いてきた。
村の実情を知られれば討伐されてしまう
__六ッ幡村は歴史から姿を消すことにした。
肉はどうやって仕入れよう?
__佐太郎に続き新たな役職が生まれた。調達係。村の外から適した食材を連れてくる。
もしも村の誰かが我々のしている事に反対したら__?
守屋氏は黙った。会合に参加していた親たちは家に帰ると慌てて子供達に教育を始めた。
いつからか禁忌は神聖なものとして扱われるようになった。
戸籍制度の起こりによりその特別な食材の調達の難易度が上がったのも理由の一つかもしれん。
存在を他所に知られれば、村は死んでしまう。
巧みな治世、権力者からの搾取や戦争などの影響を受ける事を避けれたために、村は豊かであった。
なぜ、ここまで六ッ幡村が周囲から断絶し、完全な隠匿を得たのかその方法は定かでない。それらは長である守屋家の後継者だけが知っている。決して他の人間が知る事は無い。
禁忌はもはや当時の目的には必要ではなかった。
食べるものは充分にあり、飢えに苦しむ必要はない。
代わりに別の目的が与えられた。
普段彼らは肉を食わない。
食うとしても兎を薄めた汁ぐらいのもので、それも病気やケガなど滋養が必要な時だけだ。
それは儀式の日の神聖さを増すためのもので、そう言った制限行為は実際様々な宗教で見られている。
一般に1月1日が一年の区切りとされるが、六ッ幡村は秋の第一週のある日が年の境目とされる。
かつて子供がウサギを捕まえ、皆で飯を分け合ったとされる日が村の正月である。
その日、村中の人間が集まって宴会を開く。
私達が元旦に正月料理を前に年の始まりを祝うのと同様に、彼らも特別な食事を食べながら、子供達の成長を、互いの健康を歓び合う。その様子は我々が親しき者達の間で快活に酒を酌み交わしているのとなんら変わらない。
今年もまた無事にこの飯を食べる事が出来たことに感謝しながら儀式の夜が明ける。
これを食べる事で、彼らは近親交配で濃くなってしまった血を薄める事ができる。
およそ現代社会では理解できない事だが、彼らはそういう建前を持っている。
日常食から特別な日の食事へと変遷しつつ、禁忌は連綿と受け継がれていった。
何故なら、彼らには道徳があったからだ。
自分達も気付かない深層心理の内にそれを罪だと彼らは分かっていた。
だからこそやめるわけにはいかなかった。
何故ならそれをやめてしまえば、先祖がしたことが悍ましいものなのだと認めてしまう事になる。
自分に愛情を注いでくれた両親を罪人と貶めてしまう。
共に笑い合う友人達、この穏やかで幸福に続いてきた生活を、自分自身を穢してしまう。
肉の正体を知った時から彼らはもはや逃れる術を見いだせなくなるのだ。
そして、そんな自分に本人も気付かない内に憐みを抱く。
だからこそ、彼らはお互いに対し親切で深い愛情をもって接する。そこにいるのは鏡合わせの自分なのだから。
心の奥底にある罪の念、共通の罪を犯した者同士という認識が村を結束させ、平和を保ってきた。
六ッ幡村とはそういう村だった。




