第2話《美しき嫉妬の炎》
ユキは先輩の試合にセコンドとして参加していた。
リングサイドで指示を飛ばし、
ロープを叩き、観客の声を背に受ける。
歓声と汗と熱気。
試合は激戦の末に終了した。
ユキはタオルを肩にかけ、
選手と共に控え室へ戻ろうとする。
その時だった。
廊下の角から、軽い足音。
「……あれぇ~?」
振り向く。
そこに立っていたのは、ショートカットの少女。
どこか舞台の上に立つ役者のような、
完成された笑顔を貼り付けている。
楪
「もしかして音に聞く相良ユキさんじゃないですか~?」
甘ったるい声。
だが――目は笑っていない。
ユキは、その濁りを見て何かを察する。
ユキ
「あなたは確か……」
ユキ(心の声)
「なんだろこの子……笑顔が貼り付けられたみたいで、目に光が灯っていない。」
楪は一歩近づく。
香水の甘い匂いが、かすかに漂う。
楪
「初めまして~♡。スターダム所属のサキュバス楪でーす♡。一応、あなたの幼馴染みのマチェット先輩のお気に入りをやらせてもらってます♡」
“お気に入り”。
その言葉が落ちた瞬間、
ユキの頬の色がわずかに変わる。
ユキ
「そうなんだね…よろしく。」
声は穏やか。
だが視線は逸れない。
楪はくすりと笑う。
楪
「へぇ~。怒らないんですねぇ?♡
もっと“元カノ”みたいな顔するかと思ってましたぁ♡」
ユキの眉がわずかに動く。
楪
「だってぇ、聞いてますよ?
先輩の人生を一回めちゃくちゃにした人が、今さら“救いたい”とか言ってるって♡」
楪は首を傾げる。
楪
「ドラマみたいで素敵ですよねぇ~♡
でも現実って、そんなに甘くないんですよ?」
声色は無邪気。
だが言葉は、鋭利な刃。
楪
「先輩、あなたの話になるとね……」
一瞬、間。
楪
「目が、冷たくなるんです♡」
ユキの拳が、わずかに握られる。
楪
「なのにあなたは、まだ“みっちゃん”とか呼んでるんですか?♡
図々しくないですかぁ?♡」
ユキ
「……何が言いたいの?」
楪
「簡単ですよぉ♡」
さらに距離を詰める。
楪
「あなたのその“贖罪ごっこ”、
先輩からしたら迷惑なんです♡」
ユキの呼吸が、わずかに荒くなる。
楪
「だってぇ、先輩はもう前に進んでますもん♡
あなたがいなくなってから、強くなったんですよ?♡」
ユキ
「……」
楪
「あなたがいた頃の先輩、知ってますか?
泣き虫で、優しくて、誰かのために怒る人だったらしいですねぇ♡」
楪の笑みが、ほんの少しだけ歪む。
楪
「でも今は違います。
今の先輩は、誰のものでもない。
特に、あなたのものじゃない♡」
その瞬間。
ユキの手が、楪の胸ぐらを掴んでいた。
ユキ
「……舐めた口聞いてんじゃないよクソガキ……」
周囲の空気が凍る。
だが――
楪は、まったく怯えない。
楪
「きゃ~こわ~い♡」
むしろ、楽しそうに笑う。
楪
「ほらぁ、やっぱり感情的じゃないですかぁ♡
ベビーフェイスの裏の顔が出ちゃいましたね♡」
ユキの指先に、さらに力が入る。
楪は囁くように続ける。
楪
「マチェット先輩はどうやっても、もう裏切り者のあなたの所には戻りません♡なので……余計なことしないでくださいね?♡……あなたはもうあの人の人生にとって………邪魔なだけなのでーーーっ!!♡」
最後の言葉だけ、
声がほんの少し低くなる。
一瞬だけ――
感情が、むき出しになる。
楪はユキの手を軽く払いのける。
楪
「先輩は、今の自分が好きなんです♡
壊れてても、尖ってても、血まみれでも。」
振り返りざまに、笑う。
楪
「あなたの“優しいみっちゃん”は、もうどこにもいませんよ?♡」
ヒールの音が、廊下に響く。
コツ、コツ、コツ――
その音が遠ざかる。
残されたのは、ユキの荒い呼吸。
拳は震えている。
怒りか。
悔しさか。
それとも――焦りか。
「っ!!……」
小さく呟く。
だが、目の奥に灯った光は消えていなかった。
それは、揺れてはいるが、
まだ折れてはいない光だった。
楪が去った廊下。
凍りついた空気の中、哲也がやって来る。
哲也
「ユキさん? さっきの人って……」
うつむき、憂鬱な表情を浮かべるユキ。
その様子を遠くから、不敵な笑みで一瞥しながら歩み去る楪。
哲也
「……なるほど。そういうことか。」
静かに呟くと、哲也は踵を返す。
楪の後を追う。
哲也
「あのっ!!」
楪が振り向く。
哲也
「初めまして。Marvelousのライトニング哲也です。少しお時間いただけますか?」
楪は目を細め、口角を上げる。
楪
「あら? 可愛いボク♡ なぁに? もしかしてナンパぁ?♡」
哲也の目が鋭くなる。
哲也
「冗談は結構です。今、ユキさんに何を言ったんですか?」
楪は肩をすくめる。
楪
「別に~? 普通にご挨拶しただけですけどぉ~?」
あからさまな白々しさ。
哲也の声に熱がこもる。
哲也
「ご挨拶? じゃあどうして、あの人はあなたと話した直後にあんな顔になるんですか!」
楪
「やだぁ~、女の子にそんな詰め寄り方するの? そんなんじゃモテないぞ?♡」
哲也の拳が震える。
哲也
「いい加減にしろよ、この……!!」
一触即発。
その瞬間――
低く響く声。
マチェット
「おいコラ、ユズ………」
二人の間に、影が落ちる。
マチェットが歩み寄る。
次の瞬間――
楪の胸ぐらを掴み、そのまま壁へ叩きつける。
楪
「うっぐっ!!………」
喉元に食い込む指。
楪の足がわずかに浮く。
楪
「ああっ……ああああ………」
マチェットの目には怒気が宿っていた。
マチェット
「テメェ……聞けばさっき、頼んでもねぇのに勝手にユキに絡んで好き放題言ったらしいじゃねーか……俺がいつそんなこと頼んだ?……ああ?」
楪
「だって……うう……私は……私は…………」
声が震える。
マチェット
「人にくだらねぇ煽りをかますんじゃねぇ。お前は今、俺が一番嫌いな真似をしたんだ……分かるか?……俺とアイツの因果に、外野が口出すんじゃねぇ……お節介もいい加減にしろ……」
楪
「は……はい……ごめんなさい...……」
涙が滲む。
さっきまでの挑発的な笑顔は、消えていた。
その光景を見ていた哲也の胸に、別の感情が芽生える。
先程の“性悪なヒール”ではない。
目の前にいるのは――
屈強な男に喉を締め上げられている、震える少女。
哲也はマチェットの肩を掴む。
哲也
「もう十分です! そこまでにしてください!! 相手は女の子ですよ!」
マチェットは一瞬、哲也を睨む。
だが――
乱暴に手を離す。
楪
「ゲホッ!……ゲホッ!……」
喉を押さえ、咳き込む。
マチェットが鼻で笑う。
マチェット
「フッ……お優しいこったなぁ………自分の先輩をあそこまでコケにされたにも関わらず……」
哲也は真っ直ぐに言い返す。
哲也
「確かにこの人はユキさんを傷付ける発言をしました。ですが、それとこれとは別です。あなたのような屈強な体格の男が、リングの外で無抵抗の女性を力で押さえつける……そんな光景、見ていて気持ちいいはずがない!」
静寂。
マチェットはしばらく哲也を見つめ――
小さく息を吐く。
マチェット
「……まぁなんにせよ、ウチのバカ娘が迷惑かけた。悪かったな。後でキツく言っとく。お前に免じて、コイツは諭す程度で済ませてやる。」
そして、表情が変わる。
鋭く、挑発的に。
マチェット
「だがな……今の怒りは、リングの上でぶつけてみろ。」
哲也の目が燃える。
哲也
「はい。望むところです。」
マチェットは楪に視線を落とす。
マチェット
「行くぞ……ユズ……」
楪
「は……はい……」
マチェットは去り際、哲也を振り返る。
マチェット
「じゃあな、ルチャドール。機会があればお前とも一戦、じっくりやってみたいもんだ。」
二人の背中が遠ざかる。
静寂。
哲也はその背中を見つめながら、胸の内で呟く。
哲也(心の声)
「きっとあの人は、後輩であってもユキさんをバカにされたことが許せなかったんだ。やっぱり心のどこかでは、まだユキさんの事を想ってるんだな……」
そして哲也は、少し息を切らしながらユキのもとへ戻っていく。
哲也
「ユキさん!」
ユキは振り向く。
心配と、呆れと、わずかな安堵が混ざった表情。
ユキ
「テ~ツ~! 一人で突っ走っちゃって……このおバカ!」
コツン、と。
軽く額にゲンコツを当てる。
哲也
「ごめんなさい…いてもたってもいられなくて……」
ユキは小さく息を吐く。
ユキ
「でも、私のために怒ってくれたのは……ありがとうね?」
哲也は視線を逸らし、耳を赤くする。
哲也
「いえいえ、そんな……俺はただ……当然のことをしただけです。」
言葉を選びきれず、少し詰まる。
ユキは一瞬、遠くを見る。
ユキ
「それと………みっちゃん、来てたんだね……」
哲也は驚く。
哲也
「知ってたんですか?」
ユキは苦笑する。
ユキ
「うん。周りがざわついてたから。
“マチェット合川がブチギレて後輩の女の子を壁に叩きつけてる”って。」
空気が、わずかに重くなる。
哲也は真剣な顔になる。
哲也
「マチェットさん、おそらくユキさんを侮辱されたことが心の中では許せなかったんだと思います。」
一拍。
哲也
「あの人、あのサキュバス楪って人に――
“俺とアイツの因果に外野が口出すな”って言いました。」
ユキの瞳が、微かに揺れる。
ユキ
「……そう」
呼吸が、少しだけ浅くなる。
哲也は続ける。
哲也
「あれは……境界線を踏まれた人間の怒りでした。」
ユキ
「境界線?」
哲也
「はい。“俺とアイツの因果”って言いました。
つまりあの人、自分とユキさんの間にあるものを、まだ“終わったもの”としては扱っていない。」
静寂。
蛍光灯の白い光が、二人を照らす。
ユキ
「……でもさ」
小さく笑う。
ユキ
「ヒールを貫こうとしてるの、丸分かりだよね。
あの子のこと、喉まで締め上げたって聞いたよ?」
哲也
「はい。そこは、本気で止めてよかったと思ってます。」
少しだけ空気が和らぐ。
だが――
ユキの拳が、静かに握られる。
ユキ
「でもね、テツ」
哲也
「はい」
ユキ
「みっちゃんがまだ“因果”だって思ってくれてるなら――」
まっすぐ前を向く。
ユキ
「その因果、リングの上でちゃんと決着つけなきゃいけないよね。
断ち切るのか、結び直すのか。」
哲也は一瞬、言葉を失う。
ユキの目には、もう迷いはない。
哲也
「……本当に、シングルやるつもりですか?」
ユキ
「やる。」
即答。
ユキ
「救うとか、取り戻すとか、そんな綺麗事じゃない。」
一歩、前へ。
ユキ
「今のみっちゃんを、真正面からぶん殴ってでも止めたい。
それが、私の本音。」
哲也は静かに頷く。
哲也
「じゃあ俺は、その背中を全力で支えます。」
ユキは微笑む。
ユキ
「ありがとう、ルチャドール。」
哲也
「その呼び方、嫌いじゃないです。」
ユキは少しだけ声を柔らげる。
ユキ
「でもさ――」
間。
ユキ
「もし私が負けたら、その時は遠慮なく叱ってね?」
哲也は即答する。
哲也
「負けません。ユキさんは、絶対に。」
ユキ
「……プレッシャー半端ないなぁ~……」
小さく笑う。
だがその笑顔の奥には、揺るがない覚悟が宿っていた。
夜。
新日とスターダムの事務所が入る住友中野坂上ビルへ戻る途中。
街灯の下、二人の影が長く伸びる。
楪は数歩後ろを歩いている。
喉元には、うっすらと赤い指の跡。
しばらく、無言。
やがて――
楪
「……先輩」
マチェットは振り向かない。
楪
「さっきは……ごめんなさい」
小さく、か細い声。
マチェットが立ち止まる。
ゆっくりと振り返る。
怒りはない。
だが、冷たい。
マチェット
「何がだ?」
楪は俯いたまま。
楪
「えっと……相良ユキの事で………」
その名前を口にした瞬間、胸がざわつく。
マチェット
「お前、自分が何に怒られたか分かってるか?」
楪は、首を横に振る。
マチェットは淡々と告げる。
マチェット
「俺はな。アイツがどうとか、過去がどうとか、そこにキレたわけじゃねぇ。」
一歩、距離を詰める。
楪は無意識に身構える。
マチェット
「俺とアイツの因果は、俺とアイツのもんだ。」
低く、鋭い声。
マチェット
「それを“ネタ”みたいに弄ったことにムカついた。」
楪の目が揺れる。
楪
「……でも……先輩は、あの人に裏切られたんですよ?」
マチェット
「だからなんだ。」
即答。
マチェット
「裏切られたかどうかを語るのも、
恨むのも、
許すのも、
全部――俺の権利だ。」
沈黙。
夜風が、二人の間をすり抜ける。
マチェット
「勝手に俺の感情を代弁すんな。」
楪の唇が震える。
楪
「私は……」
言葉が詰まる。
楪
「私は、先輩が傷つくの見たくなかっただけです……」
その瞬間、仮面が外れる。
マチェットはそれを見て、わずかに目を細める。
マチェット
「傷つく?」
乾いた笑い。
マチェット
「俺はとっくに壊れてる。」
楪
「違います!」
思わず声が大きくなる。
楪
「壊れてなんかない!
さっきだって……私があの人を煽ったこと、本気で怒ってくれたじゃないですか!」
一歩、近づく。
楪
「それって……まだ人の心が残ってるからでしょ?」
さらに踏み込もうとする。
楪
「でも、まだあの人のこと――」
その瞬間。
マチェットの声が落ちる。
マチェット
「そこまでだ。」
空気が、張り詰める。
楪の足が止まる。
マチェット
「それ以上、踏み込むな。」
完全に、線が引かれた。
マチェット
「お前は後輩だ。
可愛いと思ってる。
守ってやる。」
楪の瞳が揺れる。
マチェット
「だがな――」
一拍。
マチェット
「俺の“核”に触れるな。」
楪の目に涙が滲む。
マチェット
「味方でいたいなら、
俺のやり方を邪魔するな。」
楪
「……それって」
震える声。
楪
「私は、先輩の隣には立てないってことですか……?」
マチェットは目を逸らす。
マチェット
「隣に立ちたいなら――」
一瞬だけ、視線が鋭くなる。
マチェット
「まずリングで俺に追いつけ。」
冷たい。
だが、完全な拒絶ではない。
マチェット
「感情で動くな。
力で語れ。」
楪は涙を拭う。
楪
「……分かりました。」
小さく。
だが、確かな決意。
マチェットは背を向ける。
マチェット
「今のお前に出来ることを言う。」
歩き出しながら。
マチェット
「俺の前で、相良の名前を出すな。」
楪の拳が震える。
だが今度は怒りではない。
悔しさと、闘志。
楪(心の声)
「追いついてやる……絶対に……」
マチェットの背中は孤独だ。
だが、完全には閉じていない。
夜風が二人の間を抜ける。
――線は引かれた。
だが、交差は終わらない。
数日後――
スターダムの練習場。
ロープが軋む。
マットが沈む。
受け身の衝撃が、静かな空間に響く。
汗が飛び、呼吸が荒い。
楪は、何度も何度も投げられていた。
その前に立つのは――
クレーン・ユウ。
全女昭和55年組。
かつて極悪同盟のNo.2として名を轟かせ、
その後レフェリーへ転身した異色の存在。
今も、その目は獲物を見据える猛禽のように鋭い。
ユウ
「ほら、ユズ!腰が高い!もっと踏み込んで!踏み込んでから投げるんだよ!」
楪
「はい!!」
ぶつかる。
跳ね返される。
転がる。
だが、立ち上がる。
ユウ
「気合いはいい!けど感情に振り回されちゃダメ!レスラーは冷静に狂うんだよ!」
その言葉は、経験者にしか言えない重みを持っていた。
その時――
練習場の入口から声が響く。
千種
「本庄~!!」
ユウが振り向く。
クレーン
「おお千種~!!遅かったじゃん!」
千種
「ごめんごめん、ちょっと渋滞で混んでてさぁ~!」
豪快な笑い。
昭和の匂い。
汗と鉄の匂いに混ざる、懐かしい空気。
クレーン
「で、その子は?」
千種が横にいるユキへ視線を向ける。
千種
「うちの所属レスラーだよ。」
ユキは一歩前へ出る。
ユキ
「相良ユキです!よろしくお願いいたします!」
クレーンは腕を組み、じっと見つめる。
クレーン
「クレーン・ユウです。よろしく。……ほぉ、目が死んでない。流石は千種。見る目あるねぇ。」
千種はにやりと笑う。
だが――
練習を止めていた楪が、タオルで汗を拭きながら割り込む。
楪
「あらぁ~?ユキさん~♡もしかしてスターダムにお引っ越しですか~?歓迎しますよ♡」
その声には、はっきりとした棘。
ユキは小さく息を吐く。
ユキ
「はぁ……相変わらずね。そうやってまた陰湿に絡んできて……前にあの人にシメられたハズでしょ?……学習しないのね、本当に。」
空気が一瞬で冷える。
楪の笑顔が、ほんのわずかに歪む。
楪
「学習?♡ 私はちゃんと成長してますよぉ?♡
少なくとも、昔の男に執着してる誰かさんよりは♡」
ユキの目が鋭くなる。
ユキ
「なんだって?……もういっぺん言ってみろクソガキ...…」
千種は腕を組んだまま、黙って見ている。
クレーンはゆっくりと前に出る。
クレーン
「はいそこまでーっ!!」
低く、腹に響く声。
一瞬で、練習場の空気が止まる。
クレーン
「お互い溜まってるもんあるんだろ?
口でやるより、マットの上でやった方が早いんじゃない?」
楪がにやりと笑う。
楪
「賛成で~す♡」
千種がユキを見る。
千種
「ユキはどうする?」
ほんの一瞬の沈黙。
ユキは前へ出る。
ユキ
「機会を頂きありがとうございます。」
楪を真正面から見据える。
ユキ
「私もちょうど、この性悪女のいけ好かない顔を叩きのめしてやりたかったので!」
楪の目が細くなる。
楪
「言ってくれますねぇ♡」
クレーンがパン、と手を叩く。
クレーン
「よし、リング使うぞ!
本気で来い。
ただし――」
視線が鋭く光る。
クレーン
「怪我しても恨みっこ無しだよ。」
千種が小さく笑う。
千種
「いいねぇ。本庄の下でやるなら安心だ。」
ユウ
「レフェリーは私がやる。
反則は即止める。
だが甘えは止めない。」
リングに上がる二人。
ロープが鳴る。
楪の瞳に燃える闘志。
ユキの視線は静かに鋭い。
楪(心の声)
「追いつくって言ったんだ……証明してやる……」
ユキ(心の声)
「この子はただの嫉妬じゃない……覚悟がある。」
クレーンが中央に立つ。
クレーン
「始め!」
ゴングが鳴らされる。
乾いた金属音が、練習場に反響する。
カァン――
一瞬の静寂。
次の瞬間、二人は同時に踏み込んだ。
ガチンッ。
ロックアップ。
額と額が触れ合うほどの距離。
互いの呼吸が混ざる。
楪の目から、さっきまでの軽さが消えていた。
真剣。
いや――剥き出しだ。
楪
「何で先輩を裏切ったんですか?……先輩がどれだけあなたを大切に思っていたか、分かってます?。それなのに事もあろうことか、苛めていた主犯格と付き合うなんて…………そんなのあんまりじゃない!!!」
押し合いながら、言葉をぶつける。
力は拮抗。
ユキは歯を食いしばる。
ユキ
「分かってる………だから私は全てを失っても、あなたみたいな人に存在を否定されても、向き合うつもり。私にはそれぐらいしか出来ないから………」
次の瞬間。
ユキが体を切る。
アームドラッグ。
楪が転がる。
だがすぐに跳ね起きる。
ロープへ走る。
スピードはある。
低いドロップキック。
ユキの胸元に突き刺さる。
ドンッ。
ユキが尻餅をつく。
クレーン
「いい踏み込みだ!」
楪はすぐ立ち上がり、間髪入れずにストンピング。
だが、どこか迷いがある。
ユキが足を掴み、引き倒す。
そのまま足首を取る。
アンクルロック。
楪
「くっ……!」
ユキ
「感情で動くなって、教わってるんじゃないの?」
楪はマットを叩き、回転。
ロープに手を伸ばす――
だがここはスパーリング。
ロープブレイクはない。
楪は自力で体をひねり、ユキを蹴り飛ばす。
距離が空く。
二人、同時に立ち上がる。
再び睨み合う。
汗が滴る。
楪の声が震える。
楪
「先輩は……あの日から、ずっと一人だったんですよ!」
突進。
ショルダータックル。
今度はユキが倒れる。
楪はすぐにマウントを取る。
拳を振り上げる。
だが――止まる。
一瞬の躊躇。
その隙。
ユキが体をひねり、ポジションを入れ替える。
ユキが上。
ユキ
「躊躇ってる。」
楪の目が揺れる。
ユキ
「本気で私を叩きのめしたいなら、遠慮するな!」
楪
「……っ!!」
肘打ち。
ユキの頬にヒット。
ユキがよろける。
楪が立ち上がり、ロープへ。
スプリングボード。
華麗なムーンサルト。
ドンッ!!
ユキの身体に直撃。
クレーン
「いいぞユズ!」
千種は腕を組んだまま動かない。
目は、鋭い。
楪は息を荒げながら立ち上がる。
楪
「私は……!」
再び突進。
だが今度はユキが受け止める。
腰を落とし、抱え上げる。
バックドロップ。
ドォン!!
マットが揺れる。
楪の呼吸が止まる。
ユキは立ち上がり、見下ろす。
ユキ
「あなたが思ってるより、私は自分を許してない。」
楪がゆっくり起き上がる。
目には涙。
だが、それ以上に闘志。
楪
「じゃあ……!」
立ち上がる。
再び向き合う。
楪
「じゃあリングの上で証明してくださいよ!!」
同時に突進。
ラリアットとエルボーが交差。
バチンッ!!
互いに吹き飛ぶ。
マットに倒れる。
息が荒い。
クレーンはカウントしない。
ただ、見ている。
千種も、黙っている。
楪(心の声)
「まだ……届かない……!」
ユキ(心の声)
「この子、本気だ……!」
二人は、同時に膝をつく。
すると徐々に流れが変わる。
楪の足運びが、ほんのわずかに遅れる。
踏み込みが浅い。
呼吸が乱れる。
リズムが崩れる。
ユキは、その微細な綻びを見逃さない。
一歩。
間合いに入る。
腰を捻る。
軸足が沈む。
次の瞬間――
ローリングソバット。
バァンッ!!
楪の腹部に、深々と突き刺さる。
楪
「ぐっ……ぁああっ!!」
衝撃で身体が弾かれる。
ロープへ叩きつけられ、
その反動で跳ね返る。
そして――
ドサッ。
マットに沈む。
練習場が、しんと静まり返る。
誰の目にも、流れは決したように見えた。
ユキは、ゆっくりと歩み寄る。
だが――
楪の指が、マットを強く掴む。
楪
「……まだだ……っ……!」
震える腕。
痙攣する膝。
それでも、立ち上がろうとする。
楪
「あなたにだけは……絶対に負けない……!」
血の滲む唇。
歯を食いしばりながら、言い放つ。
楪
「先輩のことも……絶対に渡さない……!」
膝が笑う。
視界が揺れる。
それでも、立つ。
楪
「……あなただけには……絶対に……!」
ふらつきながらも構える。
全身は限界。
だが――目だけが、燃えている。
そして。
楪
「先輩の、凍った心を溶かすのは……私なんだからーーーーーーーっ!!!」
その叫びは、
練習場の空気を震わせた。
汗と涙が飛び散る。
一瞬、時間が止まったかのように。
次の瞬間――
カンカンカーン!
クレーンがリングサイドを強く叩く。
クレーン
「そこまで!これ以上やったら意地が怪我に化けちゃう!若さの暴走はここでおしまいだよ!」
張り詰めていた糸が、切れる。
楪は肩で息をする。
視界が滲む。
ユキは目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
千種が腕を組んだまま、口角を上げる。
千種
「……いいねぇ。
本番だったら、今頃客席は総立ちだよ。
涙流してるファンもいるだろうよ。」
クレーンが楪を見据える。
クレーン
「根性は合格。
だけどね、リングは根性だけで勝てるほど甘くない。
今日の“負けかけた瞬間”を、ちゃんと力に変えられるかだよ。」
楪は唇を噛みしめる。
腹を押さえながら、それでも目は逸らさない。
ユキが楪を見つめる。
一瞬、視線がぶつかる。
火花はない。
代わりにあるのは――理解。
そして。
ユキは静かに目を逸らす。
だがその瞳には、確かに“認める色”が宿っていた。
息も絶え絶えになりながら、楪はユキを見返す。
まだ、戦っている目。
まだ、諦めていない目。
千種が小さく呟く。
千種
「……いい火種だね。
消えるどころか、育ちそうだよ。」
リングの上。
勝敗はついていない。
だが、確実に何かが生まれた。
楪は胸を押さえながら、心の奥で誓う。
――追いつく。
――追い越す。
――奪い返す。
練習場の熱は、まだ冷めない。
その夜。
誰もいなくなったスターダムの練習場。
照明は半分落とされ、
リングの上だけが白く浮かび上がっている。
静寂。
その中央で――
楪は、膝を抱えて座っていた。
肩が震えている。
涙が、止まらない。
楪
「……なんで……」
声がかすれる。
楪
「どうして先輩は、あの女にこだわるの……?」
拳を握りしめる。
楪
「もし……先輩のことを本気で想ってくれてる人がいるなら……私、身を引けるよ……?」
嗚咽が混じる。
楪
「でも……でも……それがあの女なわけないじゃん……!」
歯を食いしばる。
楪
「一度裏切ったんだよ?……あんな酷いことして……またやるに決まってるじゃん……!」
視界が歪む。
楪
「それなのに……実力まで、私より上とか……」
悔しさが胸を締め付ける。
楪
「幼馴染みだから?……子どもの頃からの積み重ねがあるから?」
声が震える。
楪
「それって……今、本気で好きな人の気持ちより強いってことなの……?」
拳でマットを叩く。
楪
「先輩が私のモノにならなくてもいい……」
涙が零れ落ちる。
楪
「だけど……」
顔を上げる。
目は、燃えている。
楪
「あの女のモノになるのだけは絶対に嫌……」
そして――
楪
「あなただけは許さない………相良ユキーーーーーっ!!!!」
絶叫が、練習場に反響する。
次の瞬間。
ドンッ!!
楪はマットに額を叩きつける。
もう一度。
ドンッ!!
楪
「あああああああああーーーーーーっ!!!」
立ち上がり、リングポストへ。
ゴンッ!!
金属音。
額が裂ける。
血が滲む。
楪
「相良相良相良相良相良ーーーーーーっ!!!」
理性は完全に飛んでいた。
その時。
入口のドアが軋む。
女性の声。
女性
「サイフ忘れちゃった……」
黒髪をセンターで分けた女性が入ってくる。
視線がリングへ向く。
そして凍る。
女性
「ちょ……ちょっと!!ユズ!!何やってるの!!やめなさい!!」
駆け寄る。
楪の腕を掴む。
楪
「沙弥さん……」
女性は、スターダムのトップ選手の一人――上谷沙弥だった。
上谷
「もう……何してるの……?」
息を切らしながら、楪を抱き寄せる。
上谷
「何があったか知らないけど、自分を傷つけるのは違うでしょ……!」
タオルを取り出し、額を押さえる。
上谷
「こんなに血、出ちゃってるじゃん……」
悲しそうな目。
怒りではない。
心配だ。
上谷
「悔しいなら、強くなりなよ。
泣くのはいい。でも、自分を壊すのはダメ。」
楪の呼吸が荒い。
涙と血が混ざる。
上谷は優しく額を押さえながら、静かに言う。
上谷
「ユズは、まだこれからなんだから。」
楪の肩が震える。
しばらくして楪と上谷は練習場から少し離れた静かな定食屋に来ていた。
湯気の立つ味噌汁。
楪の額には小さなガーゼ。
ようやく呼吸が整っている。
楪は箸を握ったまま、ぽつりと口を開く。
楪
「相良ユキは……先輩にとって世界の全部だったんです……」
視線は落ちたまま。
楪
「なのに……あの女は裏切ったんです……」
悔しさが滲む。
上谷は静かに水を一口飲む。
上谷
「うん。充と相良選手のこと、細かいところまでは知らないよ?」
穏やかな声。
上谷
「でも、この業界ってさ。プライバシーなんてあってないようなもんでしょ。嫌でも色んな話が耳に入る。」
楪は小さく頷く。
楪
「そうなんです……」
拳が、わずかに震える。
楪
「それなのに……今さら“自分の過ちに気づきました”“向き合いたいです”とか……」
唇を噛む。
楪
「そんなの……都合よすぎじゃないですか……」
店内のBGMが静かに流れる。
上谷は楪をじっと見つめる。
上谷
「ユズみたいな子のために、“三禁”ってあるんだろうね。」
楪は顔を上げる。
楪
「三禁?……ああ、お酒、タバコ、男。この3つが禁止ってやつですよね?」
上谷、くすっと笑う。
上谷
「そうそう………」
少しだけ表情が真面目になる。
上谷
「でもね、あれって“男に溺れるな”って意味じゃないと思うんだよ。」
楪、黙る。
上谷
「“感情に飲まれるな”ってことだと思ってる。」
静かな一言。
上谷
「好きでもいい。悔しくてもいい。嫉妬してもいい。」
一拍。
上谷
「でも、それを“リングに持ち込める強さ”がないと、ただの自爆になる。」
楪の目が揺れる。
上谷
「今日のユズ、リングではよかったよ。」
真っ直ぐな目。
上谷
「でも練習場で頭打ち付けてたのは、レスラーじゃなくて“恋する女の子”だった。」
楪の喉が詰まる。
上谷は優しく続ける。
上谷
「勝ちたいなら、“女の部分”を武器にするんじゃなくて、“レスラーの部分”を育てなきゃ。」
静かに箸を置く。
上谷
「ユズはどっちで戦いたい?」
楪は答えない。
ただ、ゆっくりと顔を上げる。
目の奥に、迷いと覚悟が交差する。




