王女の運命
第一章 ⑵
後のシチリア女王コンスタンティアが、なぜこの時は宮廷を離れ出家していたのか。
それを説明する前に、彼女の系譜について少しばかり語っておかねばなるまい。
コンスタンティアは、荒涼たる北の大地から温暖で緑豊かな西の大陸へはるばる船で移動してきた海洋の民、ヴァイキングの一族を祖先に持つ。
オートヴィル朝を闢いた初代国王、彼女の父であるルジェーロ二世は、元を辿れば、ノルマンディー公国に属する一介の騎士の出自に過ぎなかった。
彼の父、つまりコンスタンティアの祖父にあたる人物は、領地も持たない下級の騎士だった。食うに困ったか、あるいは己の才幹を世に示さんとして一旗揚げたか。ある時奮起して兄弟と共にイタリアへ渡り、初めは南イタリアで傭兵として活躍した。
時には山賊のように活動しながら幾多の戦場を勝ち上がり、最終的にはシチリア島と南イタリアを支配するまでに至った武勇の男だ。
武勲を認められた彼はシチリア伯爵に封ぜられ、ルジェーロ一世と呼ばれた。
その息子ルジェーロ二世は、父が得た伯爵号と領地を引き継ぎ、ナポリとシチリアを手中に収めた。その威や周囲の王侯を圧倒し、やがてローマ教皇から王号を授けられ『シチリア王』を名乗った。
ルジェーロ二世は、当時もっとも先進的であった東方圏の文化を進んで取り入れた、最初の王と呼べる。イスラム教徒の医師や職人を、宮廷で積極的に引き立てた。彼は、他のヨーロッパ列強国の君主には見られない、近代的で革新的な思想の持主だった。
文武に秀でたルジェーロ二世は、ラテン語の他にもギリシア語やアラビア語を巧みに操り、ユダヤ教徒やイスラム教徒など異民族を迫害することもなく、宗教的にも寛容な姿勢で政策を敷いた。
国家防衛という面においても、彼は陸戦海戦ともに強く、おまけに巧みな政治家でもあった。彼はあっという間に地中海の支配圏を手中にし、稀に見る近代的な行政手法でシチリア王国をヨーロッパ列強国の一つにまで育てあげた。
王国の始祖として、武人としても類まれなる才格を有した英雄。
そんな英邁な君主であったルジェーロ二世だが、いかな傑物とて、天命には勝てぬ。老いた王は病に倒れ、末娘コンスタンティアが生まれて来るのを待たずして、不運にも薨去した。
コンスタンティアには兄姉があわせて八人いた。全て腹違いの兄であり、姉である。ルジェーロ二世は、その生涯において三人の正妃を迎えた。コンスタンティアは最後に娶った妃との間に生した王女である。
ルジェーロ二世が王妃に産ませた九人の子女の中には、幼くして夭折した者が多い。コンスタンティアが誕生した時、長男はすでに亡くなり、生存していた王族はほとんどおらず、血族として残っていたの兄が二人だけだった。
このうち、歳が上のほうの兄はグリエルモと言う名であった。ルジェーロ二世の子息としては、四番目の王子である。
ルジェーロ二世の第一王子は、父に先んじてまだ三十一歳という若さで亡くなっている。一子を残すが庶子であり、次期王位継承者としては、第四王子のグリエルモよりも正当性に欠けていた。
この兄グリエルモが、コンスタンティアにとって父親代わりともなる重要な人物なのだが、二代目の王は戦上手ではあったものの、君主としては政治の才をいささか欠いていた。
ルジェーロ二世が亡くなると、国内では封建諸侯が次々に叛乱を起こした。即位した新王グリエルモが政治を官僚に丸投げし、自分自身で統治を行おうとしなかったことが原因である。
諸侯は二代目を無能と決めつけ、政権奪取の好機とみなした。
そもそも、宮廷に多くの政治顧問官を配備したのは先代の王だ。国王の個人的辣腕に頼る治世でなく、複数の官僚による合議で国の方針を決めるという近代的な行政基盤を整えたのは、ルジェーロ二世の治世下においてである。この取り組みは諸侯が乱立して権力が分散する中世王国時代としては、異例の試みであった。官僚をコントロールするルジェーロ二世の政治手腕も卓越しており、彼の存命時代には地方に広大な領地を持つ諸侯や、王都で暮らす有力貴族も、おとなしく王府官僚の訓令に従うしかなかった。
静かなのは表面だけ。不満感は、貴族の中でひそやかに降り積もっていた。
シチリア王国の支配階層であるノルマン系の上級貴族ではなく、庶民のギリシア人やアラブ人、果ては異教徒のムスリムやユダヤ系の商人などを重用し、彼らを直接政策に参画させるなど、あってはならない非常識な事態だった。有力貴族の多くは自分たちが国王から不当に冷遇され、本来の権力を奪われていると反発した。
だが二代目からはそうはさせない。先代の御代、長く頭打ちにされてきたシチリアの有力貴族が、虎視眈々と浮上の機会を狙う。
二代君主グリエルモは、父の行政機構を引き継いだにすぎず、彼自身も政治の分野は不得意、というよりも嫌いだった。
自分にできないことは、できる者に任せれば良い。
適材適所という言葉のとおり、グリエルモは宰相と政治顧問官に政府の運営を任せ、自分は政策決定の場から身を引いた。
彼は、単に一武将であれば、ひとかどの人物として勇名を残したであろう。たまたま王位継承者に生まれついてしまったことが、彼にとっては不幸だった。
とはいえ、いざ戦となれば、父親譲りの勇敢さと戦術勘の良さを発揮する。
内乱が勃発すると、グリエルモは自ら一軍を率いて反撃に打って出た。ほどなくして叛乱勢力を鎮圧することには成功する。
が、戦が終われば再び政治をかえりみなくなり、宮殿の奥からは出てこない。それがグリエルモの悪しき習性だった。
パレルモ宮廷における政は宰相と政治顧問団が執り行い、国王たるグリエルモは、イスラム王朝風に設けた後宮に常時引きこもりだった。気に入りの宦官や美しい小姓と愛妾を侍らせ、詩吟と酒にあけくれる、人も羨む贅沢な生活を営んだ。
二代目の王は、死ぬまで政治ごとには関心を寄せぬ人物であった。
彼は後世において、『悪王グリエルモ』というあまり聞こえの良くない二つ名を冠されている。
この兄王も、コンスタンティアが十二歳の時に病で亡くなる。
後継者として残されたのは、幼い王子が一人だけ。
グリエルモ一世の死後は、唯一の嫡男であるグリエルモ二世が継いだ。と言っても、こちらも十一歳になったばかりの幼い少年王である。コンスタンティアより一歳年下の甥だ。無論、政治の表舞台になどまだ立てるわけがない。母親のマルゲリータ・ディ・ナヴァッラ王太后が、ただちに摂政となり、女の細腕で幼君を支えねばならなかった。
しかし、幼い国王とナヴァラ王国より輿入れして来た異邦人の王太后マルゲリータに対し、都パレルモの宮廷を長く牛耳ってきた閣僚や官僚たちは、おとなしく従わない。ことに強大な権限を一手に握った宰相一派が、幼い君主を侮った。
お飾りの王を傀儡とみなし、摂政をそっちのけで、専横を振るうようになる。
これを見て、シチリア国内の諸侯は猛反発する。
新王府は、再び機能不全に陥った。
不運にも、グリエルモ二世には父王ほど卓越した用兵の才がない。あったとしても、土台が十一歳の少年だ。母親の庇護の下、まだそのような素質は発揮されようもない。
国内では王党派と宰相派、諸侯連合の間で派閥が分かれ紛争が耐えず勃発し、王都の政情はみるみるうちに不安定なものとなっていった。
こうなれば、ことは国内問題だけでは済まなくなる。近隣諸国、特に陸続きで領土を接する強大な神聖ローマ帝国や、海を挟んでの隣国であるビザンツ帝国、北アフリカのアイユーブ王朝などが蠢き出す。さらにはローマ教皇までもが、イタリア半島南部への影響力を強めんとして、謀略の糸を張り巡らす。
このまま事態を放置すれば、シチリアは国の内外から弱体化し滅ぼされる……。
幼い息子を守るため、細腕の女が立ち上がった。
王太后マルゲリータは親類の貴族や聖職者を王都パレルモに呼び寄せて、政治の舵を取り戻そうと試みた。ついには時の宰相を暗殺する計画を立て、成功する。
こうなれば、残った官僚と行政機関は摂政の指示に従う。
さらには身内の一人を新たな宰相に据え、別の親族をパレルモの大司教に任命して、政権を掌握し、見事に内紛を鎮圧するにいたった。
諸外国は、シチリア王国の内乱に介入する機会を失った。
パレルモ宮廷は平穏な日々を取り戻し、グリエルモ二世(及び摂政マルゲリータ)の治世下で、コンスタンティアは王女として、何不自由なく成長していった。
やがて十六歳になった頃、彼女に最初の縁談話が持ち上がった。
結婚相手は、神聖ローマ帝国皇帝の後継者、シュヴァーベン大公フリードリヒだ。
イタリアへの遠征を六度も繰り返し、そしてことごとく失敗した、あの有名な赤髭王こと、皇帝フリードリヒ一世の嫡男である。
イタリア半島全土の支配が、戦によっては到底無しえぬ事を六度の遠征で学んだか。赤髭王から持ちかけてきた、シチリアに対する融和外交政策であった。
当時の北イタリア地方は、ほぼ神聖ローマ帝国の領土となっている。
といっても、ヴェネツィア共和国を代表とする北イタリアの有力商業都市国家群は、帝国に対して完全に服従しているわけではない。
ヴェネツィアはローマ教皇に積極的に接近し、東方貿易の許可を得ていた。海洋共和国の雄、ジェノヴァもヴェネツィアと同様、地中海貿易によって栄え、精強な海軍をも有していた。
遥か海の向こうのインドから運ばれてくる香辛料、東方の豪奢な絹、アフリカ大陸の貴金属と宝石。
それらを売買し、北イタリアの商人は他の西欧諸国より莫大な富を築いていた。
ヴェネツィアやジェノヴァなどの都市は、地図上では神聖ローマ帝国の版図内に組み込まれているものの、政治的にはほぼ独立していた。それゆえに、歴代の皇帝は無謀なイタリア遠征を繰り返し、名実ともにイタリア半島を手中に収めようと、まるで恋煩いする少年のように足掻いてきたのである。
麗しの女神イタリアは、いつだって神聖ローマにはつれなかった。
イタリア南部を支配するオートヴィル家の姫を次代の帝国皇后として迎えいれれば、いずれ北と南は融合される。
将来的に、イタリア全土を併合できる。
赤髭王は、そういう腹積もりであったろう。
シチリア王国を事実上治めている摂政マルゲリータにしても、諸侯の叛乱はからくも収めたが、まだ安心はできない状況だった。南イタリアへの領土的野心を隠さないヴェネツィアや、ジェノヴァなど北側勢力の進出は著しいし、宗教的権威で内政に干渉し、上から絶えず押さえつけようと難癖をつけてくる、ローマ教皇領の圧力も頭痛の種だ。
これらと対抗するためにも、神聖ローマ帝国と一時的にでも講和を結ぶのは悪くない提案だった。幼い息子、グリエルモ二世が親政を開始できる成人年齢に達するまでに、固く揺るがない王国の基盤を築いておく必要がある。
両者の利害は、ここに一致する。
王太后マルゲリータ・ディ・ナヴァッラは、赤髭王からの提案を受諾した。
対外的にはグリエルモ二世の名の下に、王女コンスタンティアの輿入れは決定した。
しかし、悲しいかな、この婚姻は成就することなく終わる。
コンスタンティアが豪華な花嫁衣装と嫁入り道具一式を携えてシュヴァーベン大公の領地に到着した直後。婚約者とその家族とも無事に対面を果たし、いよいよ晴れやかな婚礼の儀を翌日に控えて眠りについた、その日の夜半。
夫となるはずだった大公フリードリヒが急死した。
病死ではない。何者かに毒害されたのである。
おそらくは神聖ローマ帝国とシチリア王国の同盟樹立を好まぬ勢力による暗殺。その容疑は濃厚であった。
シュヴァーベン大公フリードリヒの死を最も望んだのは、いったい誰か。
神聖ローマ帝国の諸侯か。シチリア内の叛乱勢力、北イタリアの有力貴族か。ことによれば、かつてオートヴィル王家に攻め入られ支配された、ナポリ公国領の残党による報復行為だってありうる。
さらに言えば、神聖ローマ帝国とシチリア王国の連合軍による南北からの挟撃という悪夢の事態を回避できた、ローマ教皇庁。
当時の教皇と枢機卿たちが、ほっと胸を撫でおろしたに違いないことは、容易に想像できる話だった。
結婚する直前に夫となる人を亡くした哀れな花嫁コンスタンティアは、失意のうちにシュヴァーベン公国を去り、シチリアへと帰国した。
実は赤髭王フリードリヒ一世には、シュヴァーベン大公の他にもう一人皇子がいた。次男のハインリヒである。
赤髭王は、一瞬悩む。シチリア王国との同盟を維持するために、コンスタンティアを引き留め、ハインリヒと娶わせるのはどうだ。
しかし彼は、コンスタンティアよりさらに十歳も年下だったし、婚約者を暗殺されたばかりの悲劇の花嫁に、代わりにもう一人皇子がいるから結婚せよと持ちかけるのは、残酷な話であった。
赤髭王は、義理の娘となるはずだった王女が喪服をまとい、故国シチリアへと戻っていくのを、この時は黙って見送るしかなかった。
ここで少し、少年皇子ハインリヒの心境を想像してみる。
コンスタンティアが赤髭王やシュヴァーベン大公らと初めての顔合わせをしたとき、皇族のハインリヒも当然同席したであろう。ハインリヒは、異国から嫁いできた年上の王女を見て、何を思っただろう。その人は、花の年頃十七歳。たおやかな淑女の光輝を少しずつ放ち始めた可憐な少女を目の前にして、まだあどけない少年は、どんな感銘を抱いたことだろう。
いずれ義理の姉となり、さらなる未来には皇后となる運命を課せられた彼女に対し、強烈な憧れを抱いたのではあるまいか。
それはまさに、仲の良かった兄に対して嫉妬心さえ覚えてしまうほど強い感情の発露であり、生まれて初めて体感する男の子らしい恋の戦慄だったろう。
少年時代、思いもよらぬ瞬間に抱いた慕情を、彼はずっと心の中に秘めたまま大人に成長したのではなかろうか——。
そうだとすると、彼が年かさの、当時にあっては老嬢と呼ばれたっておかしくはない三十路の女を皇后に迎え、他に愛妾も持たずに生涯の伴侶として大切に慈しんだ謎が、解けてゆく気がするのである。
単なる政略結婚とは思えない深い絆と愛情が、この男女の間にはあったように思う。でなければ、コンスタンティアは戦地に赴く夫と行動を共にしなかっただろう。コンスタンティアには戦場に向かう夫ハインリヒと共に出陣し、自ら甲冑を身につけ、馬上で軍勢の指揮を取ったという、勇ましい伝説が残る。
伝説はあくまで言い伝えである。事実かどうかはわからないが、そんな強さを秘めた女性だったと民衆に信じさせる何かが、きっと彼女にはあったのだ。
花嫁衣裳を着る夢を砕かれ失意のうちに故郷シチリアへ戻ったコンスタンティアは、以後、いかなる結婚話がこようとも頑として受けつけず、ついには落飾して、修道女となった。
父王ルジェーロ二世が勧請した所縁のある女子修道院の領地を与えられ、長じると、そこの修道院長となった。
十七歳の多感な少女は、二十九歳の自立した女性へと成長した。
―物語は、ここから始まるのである。




