第一章 海賊襲来
第一章 ⑴
イオニア海から丘へと吹きぬけていく風が、金色に染まる広大な小麦畑をそよそよと揺らしていた。
夏の日暮れは遅い。空はまだ白んで明るく、風にそよぐ麦の穂は、刈入れ時を待っている。農地には、今日の仕事を終えた小作人達の影がくっきりと、足元に落ちていた。
なだらかな丘の斜面に広がる果樹園には、たわわに実った緑色のレモンの果実が酸っぱい香気を漂わせている。
この時期に収穫期を迎えるのはグリーンレモンだ。シチリアでは『ヴェルデッロ』という。いわゆるリモーネ、黄色いレモンは、実は冬の寒い時期に色づくのだ。ちなみに春に収穫される白っぽい黄緑色をしたレモンのことを、地元の民は『ビアンケット』と呼ぶ。これ全て、品種が違う訳ではなくて、同じレモンの樹に実る。季節によって皮の色づき方や風味が違うのだ。
温暖なシチリア王国では、色こそ違えど、ほぼ一年中レモンが途切れることはないのだった。
シチリア島は、豊穣の国である。
気候は穏やかで、穀物の生産に適し、果樹の実りもみずみずしい。海岸に出れば豊富な種類の魚や貝が手づかみで獲れる。男たちは、沖へ漁に行く。女子供は浅瀬へ小舟を出して、投網で活きのいい魚を獲る。素潜りで牡蠣を採りに行く海女だって珍しくはない。新鮮な牡蠣は焼いて食べてもよし、生でもよし。レモン汁をたっぷり振りかけ、白ワインと一緒に食べれば、これぞ至福の味だ。どんな食通だって舌鼓を打つ。
海岸沿いの、白い砂浜から少し離れた農地に広がる麦畑には、常にさわやかな海風が吹いていた。穏やかな潮騒が聞こえてくる。
小作農たちは帰り支度を始めていた。坂の果樹園から、籠一杯にヴェルデッロを収穫した農婦が幾人か降りてきて、気安く小作農に声をかける。彼らは同郷で顔なじみだ。
「お疲れ様だね、一つお食べよ」
緑色の果実を投げて寄こすと、早朝から昼休み(シエスタ)の時間を省き、夕方まで畑作業をしていた汗だくの農夫たちが歓声を上げた。
「やあ、こいつはありがてえ」
「今年のは、ちょっと苦みがあるんだけど」
「構わんさ。雨が少なかったからなあ」
「そんでも、実が大きい。まずまずのいい出来だ」
ヴェルデッロを貰った農夫は、ナイフで大きな緑の実を半分に切った。革のベルトにぶら下げていた袋の中から塩を一つまみすると、滴をたらたらと垂らす薄黄色い果肉の断面に振りかける。
「こうやって食うと、美味い」
陽射しの下で長いこと働いていたから、喉がカラカラだ。白い歯を見せて皮ごと齧りつく。口の中に酸っぱい果汁と皮の渋み、粗塩の粉のしょっぱさと微かな甘みが一つに混じってじわっと広がる。これが、農作業で疲れた身体に染み渡るのだ。ミネラルと、ビタミンたっぷりの果汁と塩分。汗で失われた水分の補給にもなる。まさに天然の栄養ドリンク剤だった。
「美味い、美味い」
「生き返るねえ」
「あとは、家に帰ってリモンチェッロを引っかけりゃ、最高」
「ああ、そのとおりだ。老けて太った女房の酌でも天国へ行ける!」
小作農たちの輪の中で、心地よい笑いが広がる。
その笑顔が青ざめ引き攣るのは、一瞬後のことだった。
寄せては返す波の音に、突然、怒涛のような蹄の音がかぶさって大地を揺るがせた。加えて、鉄製の武器を打ち鳴らす威嚇音。
「海賊だ!」
「襲撃だぞ!」
誰かが叫んだ。
レモンの籠を放り捨てて、女たちは防風林へと走り、急いで身を隠す。
猛々しい賊どもの雄叫びが、逃げまどう農民たちの悲鳴をかき消す。
シチリアは豊穣の国だ。
その豊かさゆえに、常に略奪の危機にさらされる哀しい国であった。イオニア海を挟むビザンツ帝国、あるいは地中海の対岸チュニジア辺りから、豊かな収穫物資を狙う荒くれた海賊団が繰り返し襲来するのである。
どこからともなく突如現れた浅黒い肌の略奪者どもは、手に剣や戦斧を振りかざし、農地周辺の集落に襲い掛かった。穀物や家畜を奪う。それだけでなく、人も攫う。目当ては若い女や子供だ。家族を守るために果敢に抵抗する男がいれば、容赦なく血祭りに上げる。そうして海賊は来た時と同様に、あっと言う間に引き上げていく。
しかし、この日麦畑にいた小作農達の反応は、いつもと違った。
日に焼けた小作農たちは、手にしていた農機具を素早く捨て、弓と剣に持ち替えた。あらかじめ小麦の束の中に武器を隠していたのだ。
誰かが警笛を吹き鳴らした。すると、小高い丘の上から武装した騎馬の一団が土煙を上げて駆け下りてきた。小作農たちと最初から連携していたかのような素早い動きで、海賊どもを包囲する。
略奪者の集団は、驚いて立ち往生した。
「突撃! 海賊どもを全員蹴散らせ!」
先頭のまだ若い騎士が、少年のような凛々(りり)しい声で指揮を取っている。
海賊どもは焦り、色めき立った。まさか、武装勢力がこの場で待ち伏せしているとは思いもよらなかったのだ。しかも、一部の兵士が農民のふりをしていた。小作農たちも武器を手に取り、応戦する。迎撃の訓練を長く積んでいたらしい。海賊たちは、完全にだまされた。いつものように楽勝で獲物を奪い、悠々と船で帰るつもりが、不意打ちを食らったのは自分達のほうだった。
命より大事なものは他にない。海賊どもは手に入れかけていた獲物を全て放り出し、逃走した。
何人かはその場で農民に倒され捕縛されたが、首領格の男はまっさきに海に向かって潰走した。おそらく、少し離れた場所の入江に隠してある船に向かったのだろう。沖へ逃げられたら後は追えない。
騎士団は、あえて深追いをはしなかった。
木立に隠れて様子を見ていた農婦や、農地に近い村の領民達が、恐る恐る現場を見にやってきた。報せを受けて駆けつけた村長が、陣頭で指揮を取っていたあの年若い騎士団長に近づいて、拝むように礼を言う。
「姫院長様、ありがとうございます。おかげで助かりました」
「いいのよ。それよりみんな、怪我はなかった?」
若い騎士とばかり見紛う男装束で鞍上にいたのは、女性だった。
彼女は身軽な動作で鞍から降り、近くに寄って来た村人に笑顔を向ける。腰に長剣を帯びて武装しているが、若く美しい女である。唯一、彼女が俗人ではなく出家した修道女であることを示す薄物の被布は、馬で疾駆中に風に吹かれて、肩まで落ちてしまっていた。
俗世を捨てて、神に仕える身となった彼女の髪は、美しいが短かった。顎の下辺りで切り揃えられている。そのせいで、少年めいた凛々しさがいっそう際立った。
穏やかながらもはきはきと物を言い、けれども優しく村人たちを安心させてくれる。瞳には、意志の強さを示す光が星のように宿っている。
その女性は、多くの詩人によって謡われ、礼賛されてきた。
彼女よりも遅れること、およそ百十年後にフィレンツェに生まれてくる詩聖ダンテ・アリギエールも、自身の名著「神曲」の中の天国編、《月光天》において、彼女のことをこう讃えている。
―最高の光輝を放って燃え熾る魂魄
―誉れ高き女王コスタンツァ。シュヴァーベンの二代目の風に愛され、三代目の風にして、最後の力となる偉大な王を産み給う
『シュヴァーベンの二代目の風』とは何か。それは、ホーエンシュタウフェン朝の皇帝ハインリヒ六世のことを指す。
そして、この男女を両親としてのちに生を受けるのが、『世界の脅威』と呼ばれたあの神聖ローマ帝国皇帝、フレデリクス二世である。
『世界の脅威』の母となった女性の名は、コスタンツァ・ダルタヴィッラ。ドイツ語で表音するならば、コンスタンツェ・フォン・ジツィーリエン。フランス語で呼ぶなら、コンスタンス・ドートヴィル。麗しきシチリアの女王。オートヴィル王家の始祖、初代シチリア国王となった、ルジェーロ二世の末娘である。
しかしこの物語において、彼女の名は最も響きが美しいと感じられるラテン語表記の「コンスタンティア」で統一する。
コンスタンティアは、この時はまだ独身で二十九歳であった。十七歳の時、ある深い事情があって王家を離れ、出家して修道女となった。その後、シチリア東部の地方都市カターニアの沿岸地区にある聖アガタ女子修道院の院長となっていた。
だが、今も若々しい彼女の外見は、とても三十路とは思えない。胴は細く括れ、胸は小さいが形よく、健康的な脚は若い女鹿のように引き締まっている。身ごなしもまた、軽快だ。
頬は少女時代の丸みを失い、尖った顎の大人びた面差しになってはいたが、せいぜい二十歳を二つか三つ、超えたぐらいにしか見えなかった。
顎下の長さで前下がりになるように切った髪は、明るい栗色だ。今は夕日を浴びて、金褐色に輝いて見える。瞳の色は、地中海にも似た澄んだ青緑色だ。
村人と小作農たちの無事を確認し、コンスタンティアは騎兵団に撤収を命じた。もう日が暮れる。恐らく海賊の再襲撃はあるまい。
「姫さま。賊を数名捕らえましたが、下っ端ばかりです」
修道騎士の隊長、ロレンツォが報告した。浅黒い肌の男たちが、縄で縛られ地べたに座らされ、農民たちに脇から小突かれている。
「逃げた連中のこと、どう思う?」
コンスタンティアの問いに、修道騎士隊長は率直に謝った。
「申し訳ありません、首領格を捕らえ損ねまして」
「それはいいの。ただ、一人か二人、手首の肌色が白い奴らがいたでしょ」
捕らえた海賊の大半は、肌に艶が出るほど黒い色をしているか、赤みがかった褐色の肌をしていた。アフリカ渡来の民族か、アラブ地域の出身者だろう。
しかし彼らを指揮していた数人の男は様子が違った。服装こそ、砂漠で暮らすアラブ人が着用するような全身を覆うゆったりとした長衣を纏い、頭部にはターバンを巻いたり、クーフィーヤを被っていたが。その袖口が風で煽られた時、日に焼けていない白い素肌が目立ったのだ。
明らかに人種が違った、とコンスタンティアが指摘する。
「あの最中に、よくお気づきになりましたね」
コンスタンティアは自分の視力の良さを自慢するでもなく、首を傾げた。
「アフリカ渡りでもなく、アラブ人やペルシア人でもない奴らがこの連中を雇っていたことになるわ」
海賊を派遣してきた黒幕が別にいる。その出所が気になった。
略奪者を撃退し、強気になった農民たちから罵声を浴びている海賊の下っ端を横目にしながら、コンスタンティアは思いを巡らせる様子だった。
「姫さま、何かご懸念でも?」
忠実な騎士ロレンツォの問いかけに、王女は曖昧に頷いた。
「んー。……ま、いいわ。考えすぎかもしれないから」
コンスタンティアは、軽く頭を振って髪を揺らした。
「でもいつまでも、こいつらの好き勝手を放置してはおけないわね」
今年に入ってから、海賊による襲撃の件数が異様に増えていた。コンスタンティアが地元の女子修道院長に就任して八年になるが、彼女の教区がこれまで海賊から襲われた経験は過去に無い。
亡くなった前任院長の時代だって、海賊襲撃による被害は数年に一度、教区から少し離れた沿岸地域での事件が後日報告されてくる程度だった。
というのも、彼女の甥で当代の国王でもあるグリエルモ二世が、コンスタンティアが出家するとき、彼女が暮らすカターニアの沿岸地域を特に心配して、海軍による警戒を強めてくれたからだ。
間違っても王室出身の修道女の身に危険が迫ってはならないと、グリエルモ二世の母、マルゲリータ王太后も常に気を配ってくれていた。教区を同じくする近隣の男子修道院に軍属の優秀な騎士を派遣し、修道騎士として配備してくれたのも、元々はマルゲリータ王太后の発案だった。この地域にいる修道騎士は、全員コンスタンティアを守るために配備された勇敢な護衛部隊といっても過言ではない。
だが、義理の妹を親身に案じてくれていた太后マルゲリータも、いまや老いた。ここ数年は、病の床に伏しているという。見舞いの手紙のやりとりをずっと続けているが、最近は返信が絶えている。
グリエルモ二世は、十八歳で親政を開始した。叔母よりも一つ年下の現君王は、今年で親政十周年の節目を迎えることになる。
心情的には甥というよりも、仲の良い弟のような存在の彼と直接対面したのは、かれこれ六年前になる。グリエルモ二世がイングランドから正妃を迎えて、盛大な婚礼式を執り行った時だった。
現シチリア王妃の名前は、ジョーン・オブ・イングランドという。イタリア風にジョヴァンナとも呼ばれる彼女は、輿入れ時、まだ十二歳だった。
少女というより、童女のようなあどけなさが残る幼ない妻を、グリエルモ二世はしばらくの間、妹のようにしか見られなかった。数年間は、本当の意味での夫婦生活を営めなかったに違いない。
グリエルモ二世は、可憐な蕾を散らすのではなく、自然に花が咲く時期まで待てる、そういう気遣いができる優しい青年に育っていた。なにしろ、父親が『悪王』と呼ばれたのに対し、こちらは『善王グリエルモ』と呼ばれるまで立派に成長したのだから。
コンスタンティアも、幼い王妃ジョーンのことは義理の姪というよりも、むしろ妹のように感じていた。
結婚して六年になるが、王妃はいまだに懐妊の兆しがない。
思い返せば王太后マルゲリータが体調を崩し、エーリチェにある石の古城で療養生活を送るようになってから、海賊による襲撃が徐々に増えてきたような気がする。沿岸の治安の悪化は、すなわちシチリア王国全体の防衛体制が弱体化しているのを意味する。
だからこそ、女子修道院の領地に属する村人達の被害を懸念したコンスタンティアは、隣接する男子修道院とも連携して修道騎士を派遣させ、領民たちに武器の取り扱い方法から海賊との戦い方まで、細かく教えるよう指示したのだ
発案は功を奏し、騎兵の待ち伏せ作戦とも相まって、村人たちは恨みが募る海賊団に一矢報いることに成功した。
「姫院長さまのおかげで、わしらも自力で海賊をやっつけることができました! 次にまたこんな奴ら来たって、もう負けやしませんぜ!」
「本当に、聖アガタ修道院には、足を向けて寝られませんや!」
コンスタンティアが初代国王ルジェーロ二世の忘れ形見と知っている領民は、彼女のことを尊称して『姫院長さま』と呼ぶ。
村人達にとって彼女は、聖アガタ修道院の院長であると同時に、誰よりも頼りになる女領主でもあるのだった。
「それで、院長。こいつらの始末はいかがいたしましょう」
捕らえられ縛られた海賊の残党を、どう処理するか。
修道騎士長ロレンツォの問いかけに、コンスタンティアは傍らでずっと静かに佇んでいた老齢の村長を振り返り、言った。
「あなた達の好きにしなさい。ただし、殺しては駄目よ」
被害にあった憂さ晴らしに、牢屋で適当に吊るし上げたら、今後は村の労働力としてこき使うなり自由にしてかまわない、という意味だった。
⑵に続きます




