第七十五話「和栞さんは抱えて眠りたい」
期末考査が直前に差し迫った六月末頃。
伊織は和栞と当たり前のように静かに勉強を終えた。
この日々は最早、自分にとって日常。
当初は女の子の家に上がり込むことなど、経験も無かったので、やけに緊張したことを覚えている。
今となっては、部屋のリビングで寛いでいるこのソファの弾力も馴染みがあるものだし、ちょっとした部屋の模様替えにまで、気が付くようになったくらい。
それはさておき。
伊織は具体的な約束を取り付ける必要があった。
同じように勉強を終え、キッチンで飲み物の用意をしてくれている和栞に話しかける。
「あのさ。デートの週……いつにするか決めたいんだけども」
「うん。ちょっと待ってくださいね」
会話の節々で彼女は、周りの友人たちに意図して隔てている敬語の壁を自分には解いてくれる。相槌一つとっても「はい」なのか、「うん」なのかで、彼女の気持ちが汲み取れるような気がした。
ここまで仲良くできる女性の友人など彼女以外にいないし、嬉しくあった。
和栞がコーヒーを淹れてくれた。
自分はブラック。
彼女はカフェオレ。
これも、二人で過ごしてきて定着しつつあるいつものルーティン。
「ありがとう」
「どういたしまして。その……いつの週末にしましょうか?」
「調べてみたけど、今からだと七月の最終土曜日でナイターがあるらしくて、観戦チケットも一般販売されてた。だから、その日にと考えてるんだけど、予定は大丈夫そう?」
和栞が携帯電話を取り出して予定表を確認する。
「うん!何も予定は入っていませんでした!その日にしましょう!!」
「良かった。じゃあ、もうチケット取っちゃうから、七月最終週の土曜日で決定ね?」
「うん! 楽しみだなぁ……」
行先は、彼女に半ば強引に押し切られる形で、あっち向いてほいに負けた自分が決めたが、彼女の希望である野球観戦が主な目的となる予定。
今から目を輝かせて楽しみにしている彼女の顔に気が付いて気持ちが高鳴った。自分だって彼女に負けないくらい、楽しみにしているのだから。
「私も調べたんだ。応援グッズとかあるみたいで、メガホンは欲しいなぁって思ったよ」
「試合前にドームの周りで買う?」
「うん!そうしましょう!」
プロ野球には、それぞれの球団ファンが、応援団を結成して応援歌を歌いながら観戦する習わしがある。
その応援団が演奏するラッパや太鼓にあわせて、一般の観客も、メガホンを叩いて応援する。
せっかく現地まで足を運ぶのだ。悔いのないように応援したい。
和栞が伊織に言う。
「そのほかにね……ユニフォームとか帽子とかいろんな種類が売ってるんだって。でも、おめかししていくので、いらないかな……って!」
「おめかしですか?」
「ええ。おめかしです。今度はどんな私を伊織君は希望してくれますか?」
彼女と出かけるときは恒例になりそうな、なんでも期待に応えてくれそうな余裕を含んだ顔がこちらを向いている。
「一度は俺の希望じゃなくて、君の本気を見てみたいと思うんだけど、そんな回答でどう?」
「つまりは伊織君は何でもいいということ?」
「いや。それでは語弊があるかも。当日までの……お楽しみ的な?」
にまっと笑って目を細めている和栞。
どうやらご満足いただける返答を寄越すことができたらしい。
「合格にしてあげますっ! 当日は腰ぬかしちゃ嫌ですよ?」
「ほーう。それは楽しみにしておく価値がありそうだ」
「ええ。伊織君を私に首ったけにしてみせます!!」
「楽しみにしてる」
伊織はそう言い残すと、コーヒーを一口啜った。
もう既に、自分は君の事で頭がいっぱいなのだと直球で伝えられればいいが、穏やかな日常が崩れそうで、今の関係に落ち着いているのであれば、あえて言葉にする必要は無いのかもしれない。
「他にはね……マスコットのぬいぐるみも欲しいですね。連れて帰りたい!」
彼女が携帯でグッズ一覧を見せてくれている。
「それをどうするの?」
「ここに座らせておきます。一人と一匹じゃさみしいので……」
彼女はソファの横を指差す。
既に猫のぬいぐるみも鎮座しておられるが、喧嘩にならないだろうか。
「マスコットって鷹でしょ?この子、襲われない?」
伊織は丁寧に手の平を上向きに、猫のぬいぐるみを指し示した。
「鷹は鷹でも優しい鷹さんだと思ってますよ?きっと仲良くしてくれますって」
「ならいいんだけど」
「それより『この子』ではありません。にゃーちゃんです!」
和栞が大切そうに膝に猫のぬいぐるみを抱きかかえると、毛並みに沿うように撫でている。
「これはこれは……。失礼しました」
彼女に向かって軽く頭を下げると、彼女はぬいぐるみの手を取り、左右に動かしている。
和栞に操られた人形は喋りだした。
「わかってくれれば、いいんだよっ」
腹話術をしたいのか、くぐもった声が聞こえてくる。
ちらりと視線を彼女に戻したが、口角を上げて楽し気に人形遊びをする彼女の口が、パクパクと動いてしまっている。腹話術師としては半人前……。
「しつれいしました」
今度は、にゃーちゃんに向かって頭を下げた。
綿の詰まった手が、自分の頭に触れる。
「素直でいい子だねぇ。よし、よし」
彼女が持つ、猫のぬいぐるみに頭を撫でられた。
この歳になって、誰かが頭に触れる事なんてあまりなかったものだからドキリとした。こそばゆい綿の手に撫でられる。だが、悪い気はしていない。
「にゃーちゃんと月待さんはお友達なの?」
恥を忍んで聞いてみる。
「和栞ちゃんの事かなっ?」
次は可愛げもない猫の顔が不思議そうに、こちらを向いた。
不貞腐れたような顔。
今になって気が付いたが、彼女が多用するスタンプのキャラクターのぬいぐるみらしい。
「そうそう」
「そうだよっ!彼女が寂しくないように僕が守ってあげてるんだ~」
愛称は「ちゃん」だが、男の子らしい。
「それはそれは。いつもありがとうございます」
「どういたしまして!」
一層激しく動いたにゃーちゃんは満足げに見える。
彼女は人形を動かしているのを忘れていそうなまでに自分の胸を張っている。
いつもは感情が顔に書いてある和栞が今は全身で誇らしげにしていた。
満面の笑みの和栞がにゃーちゃんを伊織との間に座らせる。
「ぬいぐるみって魂がこもるものってよく言うじゃないですか?」
「うん」
「私もその考え方は納得できて。伊織君が粗末に扱うような人じゃなくて良かったです」
「え、今ので、何がわかったの?」
「とりあえず、伊織君が『この子』と言って、大切に扱ってくれたことです」
あまり意識せず発したまでだったが……。
「確かに投げたりはしないかも」
「大切にしてあげなきゃダメですからね?」
「敬意は示しておくよ」
ぽんぽんとにゃーちゃんの頭を撫でておいた。
「海外では男性もぬいぐるみを大切にしているそうです」
「へぇ」
それは初耳だ。
「リラックス効果があるそうで、抱えて就寝する方も多いのだとか」
「君も抱えて眠ったりするの?」
なんとなく想像した光景が可愛らしくて、浮かんでしまった率直な疑問。
「枕もとで見守ってくれています。たまに抱えて眠ります。一緒に寝てます」
この部屋に来てからというもの、何度かチラ見えした彼女の自室に、まだ数体のぬいぐるみいるようだ。
一人暮らしをしている幼気な彼女だ。
何ら問題は無いように思う。
だが、徐々に顔を赤くする彼女の顔もその意味がわかる。
「恥ずかしくないって」
「そう……ですよね……」
少し上ずった声が聞こえてくる。
「流石に俺には厳しいかもしれないけど」
「やっぱり恥ずかしくなってきましたっ」
今にもボフンと音を立てて爆発してしまいそうな和栞の顔。
「寝ている間くらい自分の思うように眠りにつけた方が安心するでしょ」
「そうなんだけどね。多分、伊織君と考えてることが違います」
顔を真っ赤にし始めた和栞に返す言葉が見つからない伊織。
「ん?」
「いや……。いくら伊織君にでも、内緒にしておきますっ」
「気になる」
彼女の顔をじっと眺めてみたが、逃げるように席を立った和栞。
ソファで一人と一匹が寂しく寄り添う。
まさか和栞が、伊織に抱きかかえられ眠る姿を勝手に想像してしまったことは、彼女の胸の内だけの秘密となってしまった。
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