第六十七話「キスまで直径8センチ」
「あいつも現金なやつだよ、全く」
伊織は朝から面倒な調子が戻った司を思い出し、目の前で微笑む和栞に話をした。
「早速、唯依さんは実行したようで、冬川君が元気になってたので、安心しました」
勉強後、和栞の部屋でコーヒーを嗜む平和な毎日だ。
「必要以上に干渉しないように約束したはずだったけど、なんかもうどうでもよくなってきた」
「唯依さんと冬川君が仲良くしているならそれに越したことはありませんし、水に流してしまいましょう」
えへへと笑っている和栞を見ていると、司と千夏の関係が前を向いたように感じて安心を覚えた。少なくとも、司には久しぶりに噛ませ犬以外の役回りが来ただろうと思えて誇らしい。
「千夏さんが司のことを好きだって、いつ聞いたの?」
「それはいくら伊織君にでもお伝え出来ませんよ」
「そっか。俺は毎日のように、司が千夏がー千夏がーって言ってくるもんだから、そっちでも沢山話題になってるもんだと思ってたよ」
「話題になっていない訳ではないのですが、これは女の子の秘密にしておきたいので、男の子の伊織君は残念ながらお話しできませんっ」
にまっと笑って、コーヒーに口を付けている和栞の顔を見ていると、これ以上は聞き出せそうにないなと諦める自分がいた。
「むっ……」
突然、和栞が渋い顔をする。
コーヒーを飲んだ直後。この表情には何度か見覚えがある。
「苦いの?」
「普段より濃く抽出されているような気がします。挽き過ぎましたかね?」
和栞に促されるように自分もコーヒーに口をつけると、確かに普段より苦味を濃く感じて、頬が引きつった。嫌味なほどではないが、舌に伝わってくる刺激が後を引く。
「耐えられないほどじゃないけど、いつもより濃くは感じるかも」
和栞が伊織の感想を聞いて、真剣な面持ちになる。
「お母さんに習った手順より、細かく豆をひいてみたんですよ。細かく挽くと、自分でわかるくらい苦くなるんですね。発見です」
なおも渋そうな顔を引っ込めない和栞が愛らしく映った。
「俺はブラックでよく飲むけど、君は無理せずに牛乳とかで割ってみたらどう?」
二口目を口にしている和栞が目線で苦味を訴えてくる。
「なんだか伊織君に負けた気がする……」
和栞がカップを両手で持ち、元気無くつぶやく。
「勝ち負けはやってないし、おいしく飲めた方がいいでしょ?……ちょっと、お嬢さん?」
何か癪に障ることでも言ってしまったかと肝を冷やしたが、負けず嫌いな彼女の頬がもうすぐ膨らんできそうな気がした。
「牛乳なら冷蔵庫にあるし、伊織君が作ってください。カフェオレ!」
和栞がそういうと、立ち上がりキッチンへ手招きしてくる。
先に和栞がキッチンで牛乳と砂糖を準備している。
「うちにはコーヒー専用のシュガーは無いので、お料理用の普通のお砂糖で我慢してください」
「我慢も何も、俺は君にカフェオレを作ればいいんだよね?」
既に自分はブラックで構わないといった後なので、今から作ろうとしている甘い飲料は彼女のものになるはずなのだが。
「そうだけど、味にはうるさい伊織君がどんなものを作ってくれるのか楽しみでっ」
この顔は揶揄ってる時の顔だ。彼女の甘味の舵は自分が握っているというのに、彼女はどうやら忘れてしまっているらしい。
ここはひとつ、ありったけに甘ったるくして懲らしめてやりたくなった。
コップには多量のコーヒーが残っていた。
まずは砂糖をコーヒーに溶かす。大匙一杯。まだ温かいので、水面に潜り込んだ砂糖は直ぐに焦茶色の海に消えていく。
牛乳を適量混ぜて、彼女所望のカフェオレは直ぐに完成した。
「このくらいでいいんじゃない?」
和栞にカップを差し出したが、なぜか受け取らない。
「どうしたの?」
目の前の美味しいカフェオレが見えていないのか。
和栞は微動だにしなかったが、不思議そうに口を開く。
「味見はしなくて大丈夫なの?」
和栞が言う。
確かにと思ったが、カップに視線を落とすと妙に気まずい。
さっきまで和栞が二口、口にしていたカップだ。
もう一度彼女の顔を伺うと彼女に思うところは無いらしく。
「どうぞ?」
気にしない宣言をされたが、あまりに彼女が落ち着き払っているのが悔しい。
しかも、本人の目の前で自ら間接キスを貰いに行ってしまうことになるのだ。
意識しない方がおかしいのではないかと穴に入りたい気分だ。
パンケーキの時だって、おいそれと従ってしまうのは回避してきたが、ここで強く言い返したところで恥ずかしさがぶり返してしまうだけだ。
なるべく、気まずくならなくていいように、飲み口は重ねない方がいい。
コップの淵に茶色の痕跡を探してみたが、彼女がそんなものを残しているはずがなかった。普段紅茶を嗜む彼女なのだ。
食器の扱いやマナーへは素養がある。
観念した。
口に運んで、一口飲んでみる。
(甘すぎる……)
自分には甘ったるくて、砂糖を入れすぎたような気がしたが苦味は適度に抑えられており、口当たりは悪くない。
「いいと思います」
余所余所しく伊織は和栞にコップを受け渡すと、両手で大切に包んだ和栞が一口飲む。
「もっと甘いのが好みかなっ?」
先ほどまでのブラックコーヒーで苦虫を嚙みつぶしたような顔が嘘のよう。
伊織は朗らかに笑った和栞から、味の感想と同時に再度カップを受け取った。
「ほんとに?? 俺には結構甘ったるくてやりすぎたんじゃと思ってたけど」
「まだ。大匙二杯くらいが丁度良さそうです」
自分で分量がわかるのなら、彼女が自分で調節すればいいのではと一瞬感じてしまったが、今は自分が味付けを担当しているので途中で投げ出してしまうのも忍びない。
砂糖の入った容器から、大匙擦り切れもう一杯をカップに追加する。
匙で全体をよくかき混ぜて、カップの底に溶け残りがなくなったのを感じるまで。
今度は指摘される前に味見した。
彼女からそのまま手渡されているので、今自分が口を付けている丁度、真反対側で彼女が一口付けていると思うと、居た堪れない気持ちになってくる。
しかも飲みものを共有しているのだ。
この白茶色の趣向品が彼女の唇に触れたという事実。
頭の片隅にあるだけで、温くなったカフェオレが人肌のように柔らかいし、いけないことをしている気分になる。
「うん……。いいと思う」
もはやコーヒーの風味も損なわれ、牛乳本来の甘みも砂糖にかき消されてしまった、至極甘ったるい飲み物。
これをカフェオレと呼ぶのであれば、たまに口にする本物のカフェオレは最早コーヒーと呼べるのではないだろうか。甘味にやられてしまった脳がくだらないことを考える。
彼女に手渡すと、彼女の一口目と飲み口を合わせるように唇がコップに触れている。
「うん。これなら私も楽しめるね」
常温に戻りつつあるカフェオレを持って和栞がリビングへ戻っていく。
和栞の笑顔に伊織は酷く火傷してしまった。
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