第六十六話「司の雨の日(一日目)」
伊織から昨晩、改めて連絡があった。
「明日は雨予報らしい。六時半に家を出られるようにしとけ。俺からの誕生日プレゼントだ」
誕生日にしては、一か月近く早いのが気になったが、内容は願ったり叶ったりもいいところだった。
千夏が朝、俺を迎えに来てくれるらしい。
本人から連絡があったわけでは無いから、何がどうなっているのか理解に苦しんでいる。
だが、伊織は平気で嘘をつくような人間でもないので、待ちに待った雨音が聞こえた今朝は、寝覚めが格段に良かった。
部屋から出て、身支度を始める。
洗面台に向かい顔を洗い、歯を磨く。
髪の毛をいつものようにセットする。
最近、右手だけしか使えない状況にも慣れてきた。
朝飯を済ませたら、着替えて、最後に忘れ物がないか念のため確認する。
昨晩、時間割に合わせて準備した教科書、参考書、ノートに漏れはなかった。
母ちゃんが靴の隣に傘を用意してくれていた。
右肩にカバンを担ぐとバランスの悪くなった右手で傘を掴む。
(こりゃ大変だわ……)
六時半。約束の時間に本当に千夏が迎えに来るなんてことがあるのだろうか。
半信半疑で扉を開けた。
玄関の先。
入り口に赤色の傘が一つ。
背を向けて待つ女の子が一人。
(まじかよ……)
朝の身支度中に心の準備ができればよかったものの、いざ実際に光景を目の当たりにすると、心が弾んで脳内が真っ白になった。
ドアを閉じた音で気が付いた千夏が、音のする方へ振り向くと右手を挙げて司に挨拶する。
「なんで?」
正直な心の声が漏れる。
「大変かと思って。荷物と傘、どっちがいい?」
しおらしく千夏が司に問いかける。
「え?」
「荷物持つ方がいいか、傘持つ方がいいか、どっちがいいかって聞いてるの」
いつも棘のある彼女からの言葉が、今はストレートに心に刺さる。
司に選択肢を与えたっきり、千夏は口を噤んでおり、黙っていた。
「荷物って言ったらどうなるの?」
「私が荷物をもって一緒に学校行ってあげる」
「傘って言ったらどうなるの?」
「私が傘さして一緒に学校行ってあげる」
生唾を飲んだ。
「マジで?」
「マジ」
目の前にいる千夏に良く似た人間が、千夏らしくないことを言ってくる。
まだ寝ぼけてるのか?と目を擦りたかったが、あいにく手は塞がっており空きがなかった。
「じゃあ、迷いなく傘を選びたいけどいいのか?」
次第に大人しくなる千夏が無言で二回、頷いた。
千夏は左手で合図すると、自分の傘を差しだせと言ってるのがわかった。
柄の方を彼女に差し出すと、彼女は自分の傘を丁寧に畳み、雨粒を落としている。
バサッと音を立て、使い慣れた傘が目の前で開いた。その衝撃で呆けていた自分が完全に目を覚ます。これは現実に起こっていることなのだと理解が及んできた。
「入って」
千夏が右手で傘を持つと、右手側に少し傾けてくれた。
「ありがと」
千夏の差してくれた隣だけ、雨が空から千切れている。
「くっつかないと濡れるでしょ?なに今更遠慮してんのよ!」
横から笑い声とともに声を掛けられる。
「意識しない方が無理だろ?お前も濡れるし入れてもらえるだけ助かってるって」
いつもより差す傘の位置が低い。頭上スレスレ。
時折、頭に掠めてセットが崩れそう。
でも、千夏が差してくれてるのだ。文句は言えないし、何より言いたくないと思った。
しとしと降る雨が幸せに感じて、心が洗われているような気がした。
骨にヒビが入っていると診断されたときは焦った。終わったと思った。
直ぐに大会出場は無理なんだろうなと察したが、自分自身の身体の事が、自分でわからなかった感覚が生まれて初めての経験だった。強烈な痛さを感じてはいたが、我慢できないほどでもなかったし、数日で治るものだと思っていたが、目測が甘かった。
病院で腕を固定し、療養する姿勢を作ると、ギブスを強制的にはめられた。
仰々しく見えるこの格好は、一か月間の絶対安静にしなければ治るものも治らないと医者に口を酸っぱく言われた。固定した腕で日常生活をどうしたらいいのかその時は全くイメージが湧かなかった。
家に帰ってその大変さに気が付いた。
トイレですらままならなかったし、風呂に入る時も腕を上げた状態でビニール袋に包まれる。
鏡に映る自分の姿が痛々しくて、見るだけで気持ちが沈んだ。
親や姉は気にして声を掛けてくれるが、気にさせる方が正直しんどい。
学校に行って、同じことを何人にも聞かれる。そのたびに少し無理をして答える。
助けてくれるのはありがたかったけど、腕の経過よりも精神的な負担が勝り始めたところだった。
(誕生日プレゼントか…)
左側から幸せを感じる。
「気を遣ってもらって悪いな。でもめっちゃ助かる。ありがと」
言葉を探したが、まずは感謝を伝えたい。
「元気ないんだもん。心配したんだから」
擦れた声が耳に届く。俯きがちに千夏は教えてくれた。
「でも、こんなことがあるなら怪我して良かったかも」
いったそばから、また余計なことを言ってしまったかと後悔したけど、彼女は言い返してこなかった。
「いつ治るの?」
そういえば、千夏には病状を話したことなかったっけ。
「一か月くらい」
それから多少のリハビリを経て、普通の生活が戻ってくると聞いている。
「それなら、雨が降る日は毎日こうしてあげる」
千夏が前を向いて、呟くように言ってくれた。何か遠くを見ていて、ふざけてはいけない気配を感じた。
「帰る時も?」
聞いてみる。
「朝限定のサービスって言ったら?」
「ぜひ、見捨てずに! 帰りもお願いしたいんだけど」
「結構恥ずかしいこと言ってない?」
笑いながら千夏に言われた。
「三回フラれるよりは全然マシだって」
千夏はキャッキャと笑いだして、ギブスを軽く突いてきた。
「痛ってぇ~~~、こんにゃろ!」
笑顔で逃げていく千夏のせいで少し雨に打たれたのは、言うまでもなかった。
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