第三話「遠くを見つめる少女が一人」
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四月初週。
その日、伊織は身体が自然と休息を終えるまでの間、惰眠を貪った。
土曜日昼半ばという遅めの時間に漫画の新刊を買いに家から離れた本屋へ行く。
伊織は現物を手に入れる、手に取りたいという持論がある。
もっぱら、紙媒体だけでなく、電子書籍という各人のニーズに合った選択肢を用意されている昨今であるが、まだ妙に味気なく感じてしまう。
ネットで一瞬にしてお目当てを購入できてしまうことに対しても否定的な立場。
伊織は「日本人は情緒を大切にしてきたんだよ」との考えの持ち主であった。
自らの足で書店に赴くという面倒も、その道中で楽しみな気持ちに浸っていることでさえも、心を愉快にさせる。
無くてはならない味わい深い時間だ。
目的の書店前に到着し店内に入ると、お目当てのシリーズが立ち並ぶ一角で足を止めた。
新刊と書かれたフライヤーの下に平積みされた一冊を手に取る。
そのあと。目星なく店内を彷徨う。
伊織は書籍の種類に関係なく自身の探求心を満たす目新しさを求め「手にとっては元の場所へ戻す」を繰り返す。
店内の細やかな変化にも気が付けるくらいにこの書店へ通っていた。
静かな店内とは対照的。
書店員たちが作成したカード、ポップ、商品棚のあちこちはそのコンテンツの愛や熱量を凝縮、発散中。
肩を引っ叩かれるような迷いのない推薦にまみれた雰囲気が、予期せず購買欲を刺激してくる。
炎を焚きつけられる瞬間がたまにあったりするものだ。
結局、伊織は購入予定に無かった文庫本も加え、会計を済ませ、店外へ出る羽目になった。
◇◆◇◆
時計は平日の下校の時間と遜色のない時間を差す。
店外へ出るなり、西日は角膜を刺激してきた。
過ごしやすい外気を存分に肌で感じる。
伊織は帰宅の歩みを進め始めた。
帰り道の途中。
身体をかすめては通り過ぎる風は、この時期特有の景色を作る。
満面の笑みで新生活を見届けた桃色の花弁たちは、大気の流動に逆らうことなく、最後までこちらの目を楽しませるように可憐に散っていく。
その光景をぼんやりと眺め、伊織はどこかもの寂しさを感じた。
(見納めでもするか……)
今年の最後の桜を眺めるに、丁度よさそうな場所を知っているので、寄り道をすることにした。
◇◆◇◆
広々とした公園には外周を桜が埋めているので、この時期には毎年朝から花見客の訪れも多く、賑わいを見せる。
伊織が散歩する道沿いで、花見を楽しんでいるようだったグループ。
主催と思わしき人物の注目を集める手鳴らしと、「宴もたけなわではありますが」という言葉を境に、皆で後片付けに取り掛かっていた。
一本一本の桜は近くから見れば、そのどれもが自分が主役と言わんばかりに、美しく咲いている。
それらを遠くから見れば景色の中に桃色の線を引き、まだ見ぬ遠く、先の方まで人々の関心を惹いているようだった。
今の目的は桜の見納め。
すでに充分、達成できたが、陽気に恵まれている中、公園に到着してからそそくさと退散してしまうには、まだ早い時間。
幼いころよくお世話になっていたアスレチック型の遊具と家族連れを横目に、公園の奥の方まで、目的もなくこのまま歩くことにした。
手持無沙汰に桜並木を歩く。
広場や遊歩道を進んだ先の方。
地獄階段が目の前に現れる。
地獄という表現はもちろん比喩的に使われているがなんとも適格な表現で、上るにも長く相当の覚悟が必要だ。
普段であれば、引き返すところだったが……。
昼半ばまで寝ていたことも幸いしてか、身体の疲れなど露知らず。
この階段を上った先。
高台に行こうかなと、一時の血迷いが生まれた。
景色を見るには丁度良い高台があることは良く知っていた。
幼少の頃に連れてこられた両親を置いてきぼりにして、階段を駆け上がっては二人の疲れ顔を楽しんでいた記憶が強い。なので、頂上で自分がどう過ごしていたたかなどの記憶もなく思い出せない。
じわりじわりと押し寄せてくる倦怠感を引き連れ、長い階段をゆっくりと上っていく。
まだその終わりは見えない。
伊織の先ほどの安直な決定とは裏腹で、いくら活気に満ち溢れている年頃の男子高校生と言えど、階段の連続は呼吸の乱れを生じさせ、鼓動は速まり、脚部への疲労が忍び寄る。
この時期には珍しく、額には汗が滲んでくるのも無理はない。
最後の段を上り終えたところで、爽やかな風が、運動を労ってくれたのか、身体を撫でて出迎えてくれた。
遠くには今回の暇つぶしの終着点である高台が見えた。
◇◆◇◆
そよ風に揺られて、深い緑の葉を携えた木々がさざめく。
賑わいはそこには無縁。
辺りに人の姿は全くない。
人々からは忘れ去られているような静けさが漂う。
それもそのはずで、人々が毛嫌いするくらいまでに地獄階段は長いからだ。きっとそう。
道端には階段前の広場と同様。
手入れの行き届いた花々が咲いている。
高台までの道のりは簡素なもので、休息を入れずとも進んでいけそうな緩やかな勾配が続く。
伊織は呼吸を整えながら、歩き始めた。
緩やかな勾配のその先にひとり。
遠くの方をじっと見つめる少女が目に留まった。
少女までの距離はまだ……近くない。
数十メートル先。
その存在を認識できただけの距離。
まだこちらの様子に気が付いていないその少女は、長髪をそのままに流し、風に揺れる髪を軽く押さえながら、町が一望できる景色を独り占めしていた。




