第五十五話「気づいた気持ちと秘密の勉強会」
和栞が学校を休んで二日目の放課後。
伊織は下校のチャイムが鳴るなり、足早に教室を後にした。
学校から家へ帰るまで、一旦下り坂が続く。
足元が重力に引っ張られる分、足取りは軽い。今日は一段と軽い。
気が付いた気持ちを胸に、今は一刻も早く、行きたい場所があった。
誰に邪魔をされるわけでも、馬鹿にされるわけでもない。
今の自分の気持ちに素直に行動できるような気がした。
◇◆◇◆
見慣れたエントランスで、インターホンを押す。
「はい」
今日、何よりも聞きたいと思ってしまった人の声がする。
「南波です」
自分の声が震えてないか、心配になる。
「どうぞ」
固く閉ざされていたガラス扉が、すうっと開いた。
エレベーターの上昇ボタンを押して待つ。
心拍が速くなるのがわかった。なるべく呼吸を整えるように、今から呼吸を荒げないように、深呼吸をした。
うまく呼吸ができない。一定にひと吸いすることが出来ない。
胸の鼓動の一拍に合わせて気道が狭くなる。呼吸が乱れる。
たった一つの気持ちに気が付くだけで、こんなに自分の身体の制御が効かなくなることが少し笑えて来る。
今からこんな調子では彼女と相対したときどうなるか、少しだけ怖かった。
エレベーターの中で言い聞かせる。
(平常心……平常心……)
月待と書かれた一室の前で再度、インターホンを鳴らす。
彼女からの応答がない。
次の瞬間、開錠と共に、ドアが開いた。
「こんにちは、伊織君!」
部屋着を纏った和栞が笑顔で挨拶をする。
「体調は? 大丈夫なの?」
当たり障りのない言葉を掛けるのがやっとだった。
「見てください、この通りぴんぴんです!」
彼女のピース姿がやけに眩しく感じた。
「これ。とりあえずね」
左手に持参したビニール袋を和栞に見せた。
今の今まで、自分が抱えていたことも忘れていたが、重みを思い出した手が悲鳴を上げる。
二リットルのペットボトルが二本。スポーツドリンク。
中身の青いラベルに気が付いた和栞から笑みがこぼれる。
「ありがとうございます。うちの家と風邪の治し方が一緒です。荒療治ですけど」
「たくさん飲んで、寝とけばどうにかなるしね」
「ふふっ」
「お邪魔しても?」
「どうぞ」
伊織は許しを得た後、入室し、外廊下に音が響かないように、そっとドアを閉めた。
◇◆◇◆
「試験前だからって進度は落ちてたよ」
伊織はいつもの勉強会の定位置に腰掛けながら、二日間学校に来れなかった和栞に報告する。
進学校だから容赦なくテスト前にも授業が進むのだろうなと心していたのだが、意外と生徒想いだった各教科の担当教師たちは、テスト範囲の総復習を行うことが多かった。
「助かった~」
噛みしめるように心の声が漏れた和栞が椅子を引いて伊織の前に座る。
「そんなに安心しなくても、君なら追いつけるでしょ」
力の抜けた彼女の顔を見ると思わず笑ってしまった。
「でも、伊織君に教えてもらう範囲が狭まったと考えると残念ですね……」
神妙な面持ちで口から出てきた言葉にどんな反応をしていいのか困ってしまう。
彼女からの言葉を嬉しく思っていいものか。
「とりあえず、進んだ範囲伝えるから」
「はい! お願いしますっ」
とても昨日今日と体調を崩していたと思えない、いつもの彼女がそこには居た。
伊織は教科ごとに和栞に授業内容、特にテストへの出題が示唆された範囲を重点的に共有する。和栞は一言たりとも聞き逃さないように、真剣に聞き入った。
◇◆◇◆
「大体これでこの二日間の授業内容はおさらいできたと思う」
「ありがとうございます!」
和栞が満足そうな顔をしているので、力になれたのであれば伊織は本望だと感じていた。
「伊織君、ひとつだけいいですか?」
「ん?」
「今日の勉強会なのですが、私たちだけの秘密にしてくださいませんか?」
「今日も何も、誰もこのメンツで勉強してるなんて誰も知らないでしょ?」
面倒事を回避するためにも、クラスの友人たちはおろか、なんでも話す司にだって口を堅くしているので、流出源はない。
「そうなのですけどね。風邪ひいてるのに誰かと会ってるっておかしいじゃないですか。特に学校を休んでいる身分なので、よくないです」
「うーん。台風の日に遊びに出てるみたいな?」
「そう、言い得てます」
九州地方は、台風の通り道になることが多い。台風シーズンには気象状況を鑑みて学校が休みになることが多々ある。
妙なたとえ話にもかかわらず、賛同してくれる彼女の笑顔が嬉しかった。
「なので、私たちの今日の勉強会は秘密の勉強会ということで」
「わかった」
「ありがとうございます」
この時に感じた心の距離。近いようで、遠いような距離。
(今までは、疑問に感じなかった? いや、そんなことはない……)
何か、心の引っ掛かりがある。でも、言葉にしていいものなのかわからない。
「どうかしましたか?」
彼女が不安そうに、こちらを見つめてくる。でも、本望じゃない。
できるだけ、彼女には笑顔でいてほしい気がする。
欲張っているなんて、思われないだろうか?
いや、例え思われたとしても、もうどうでもいい話だった。
「あのさ。どうして君は、丁寧言葉で喋ってくれるの?」
ブックマークと評価にて応援のほどお願いします!
次回、明日更新です!




