第三十七話「和栞さんとニコイチ」
和栞から突然、愛嬌の暴力を受けてしまった伊織は、内心冷や汗をかいた。
早くも初夏の訪れを感じている今日この頃。
和栞からの少しの悪戯で火照ったこの気持ちや体温がおさまるにはまだ時間がかかりそうだった。
「早速始めましょう。伊織君」
先ほどまで、顔を真っ赤にしていたというのに、彼女は切り替えも早いのか、涼しい顔をこちらに向けている。
「机、借りるぞ?」
「借りるだなんて。ご自由にどうぞ、ですよ」
「どうも」
今日で二回目の訪問だったが既に定位置と化してしまった食卓テーブルに陣取ると、和栞はなんの迷いもなく目の前に座った。
「コーヒーでいいですか?」
「気を遣わないでいいよ?」
「いえ、伊織君はお客様なので、お気になさらず」
律儀にウェルカムドリンクとは、至れり尽くせりだった。
「じゃあ……頂きます」
「ホットにしますか? アイスにしますか?」
「前には無かった選択肢だ」
「アイスコーヒーもレパートリーに加えたのです。これを機にいかがでしょうか?」
この子は、季節の変化に合わせて気配りを実行できるらしい。
(助かる……)
和栞に火傷しかけた伊織は、身体を冷ますには丁度良い相棒を手に入れられそうでほっとした。
「じゃあそれで。お願いします」
「かしこまりました。お待ちくださいね」
キッチンに準備しに行く和栞を見ながら伊織には思うところがあった。
(メイド? ……いや、新妻?)
ただ客用の飲み物を準備しに行ったまでの彼女を見ていると、良からぬ想像が膨らんでくる。
下心はないのだが、自分のために母親以外の女性が何かを用意してくれているという経験がなかった伊織にとって、この奇妙な光景を静観するにはまだ早かった。
和栞の手料理を食べたことのある伊織だが、あの時は頂く前提で予め、心構えをしていたので、普段起こり得ない特別なイベントの一部として捉えている。
だが、今はどのような状況なのだろう。
当たり前のように彼女は自分に対してもてなしてくれている。
伊織は和栞の献身的な姿に、無償の善意を垣間見た。
伊織はぼんやりと和栞を眺めたり視線を逸らしたりを繰り返していた。
彼女がこちらの視線に気が付いた。
「お気遣いなく、先に始めていてくださいね」
カウンター越しに彼女は微笑みかけてきたのが、妙にグッとくる。
普段、彼女が自分より高い位置で話すことは、彼女の背丈は華奢なのであまりない。
親の帰りを待つ雛鳥のような気分がした。
「そんなわけにもいきません」
一人でくだらないことを考えていた伊織は、自分に喝を入れるように姿勢を正し、思わず敬語で返答する。
「あらあら、ありがとうございます。ちょっと待っていてくださいね」
なおも和栞は丁寧な所作で用意を進めていた。
くだらない妄想が一通り落ち着いた頃――
カウンターに淡い青色掛かったステンレス製のタンブラーが置かれた。
カランと中に入っている氷が音を立てて揺れている。
口に含まずとも、こちらがいま求めている冷気を纏っているものであるということがわかった。
「上からですみません。どうぞ」
「ありがとう。いただくよ」
和栞が用意してくれたアイスコーヒーを伊織は手に取る。
コップ越しにも伝わってくる冷たさが、今の伊織には非常にありがたかった。
流石に、家主がまだ席にいないのに飲み物に口を付けるわけにもいかないので、彼女の方を見る。
カウンターキッチンで壁を一枚嚙んでいるので、何をしているのか伺うことはできないのだが、自分の飲み物を用意をしていた時のように、注ぐ水音と乾いた「パキッ」といった音が聞こえてきた。
和栞がキッチンから戻ってくる。
彼女は淡い桃色のタンブラーを手に持ち席に着いた。
コップの中身が自分のものと同じ色をしているので、何であるかすぐにわかる。
「今日はコーヒー? 珍しい」
「伊織君に影響されて。最近は勉強のお供にしているのですよ。カフェイン中毒まっしぐらです」
「まだこちら側に来るには早いぞ。コーヒー以外の飲み物からカフェインを摂取するようになれば君も一人前だ。精進したまえ」
「はい。心しておきます」
小さく笑う彼女が敬礼を向けて、真っすぐにこちらを見てくるので、なんだか愛らしい。
このまま、熱冷ましに走らないと、こちらとしても先ほどの妄想がぶり返してきそうだったので、早速用意してくれた飲み物で涼むことにした。
「いただきます」
「どうぞ」
伊織は、コーヒーを口に含んだ。
良く冷えているので、喉越しも申し分ない。
身体に冷流が走る――
「はぁ……」
「すっかりお寛ぎの様子で……」
にまにまと笑みを向ける彼女は、テーブルに肘をつき、頬杖するとしたり顔をこちらに向けてきた。
「満足そうだな」
「伊織君って顔に出やすいタイプですよね。ここから伊織君の寛ぐ顔を見ているのも悪くないですよ」
そっちこそ、よく顔に文字が書いてあるぞと言いたいところだったが、近い距離でじっと見つめられてしまうとこちらの調子も狂ってしまう。
もう一口――
鎮火を早めるために口にした。
「それより……。何か気が付くことはありませんか?」
和栞がタンブラーを見つめながら、目で合図してくる。
おそらく飲み物に秘密があるのだろう。
「ほう……」
「当ててみてください」
伊織は、コーヒーを口に含み、味わうように舌で転がす。
確かにピクニックの時や先日ここで飲んだ時と何か違う感覚がある。
「なんだろうな……。前に飲んだ時より濃い? いや、鼻に抜ける味? 風味自体がそもそも違うような気もするな……」
伊織が感じたことをゆっくり言葉にしていると、和栞の満足げな顔がさらに輝きを増してきた。
(正解……?)
顔を見ると伝わってくる嬉々とした表情が、正答を出せたことを物語っている。
勿体ぶっているのか、何なのか。
正解を焦らしてくる彼女は、笑みを堪えきれずに白い歯を見せる。
(やっぱり、滅茶苦茶、顔に書いてあるじゃん)
「正解?」
「さっきのが回答ですか?」
「ファイナルアンサー」
和栞は頬杖を解くと、両手を軽く握り、胸の前で小刻みに揺らし始める。
「じゃらららら~~~ららら~~~」
ドラムロールにしてはやや舌足らずな気もするが、楽しそうにしているので水を差す訳にもいかない。
「じゃんっ! 正解です!」
「わーい。やったー」
伊織は棒読みで正解を喜んでおくことにした。
「よく気が付きましたね」
「そう感じただけだよ」
「見事に正解です。実は豆を挽くようにしたのです!」
彼女が何やらキッチンの方を指さしている。
続くように視線をやると、指の先には見覚えのないコーヒーメーカーが鎮座していた。
「本格的だ……。この前お邪魔していた時には、気が付かなかったが?」
「最近、お出迎えしたのです。あの子で入れたコーヒーを伊織君に初めてお出ししたので、間違いじゃないですよ」
彼女の中では電化製品でも「お出迎えするもの」で、しかも「あの子」というからして、あのこじゃれた機械は人物に当たるらしい。
「この前、ここで飲んだやつは?」
「先日は、まだインスタントコーヒーでした。機械の使い方が良くわかっていなかったのでお客様に出せるようなものじゃなかったですし。なので、風味が違うというお言葉も、豆がそもそも違うので正解です。間違いないです」
気軽にコーヒーを口に運んだまでだったが、どうやら自分は彼女に試されていたようだ。
「濃い目が好きな伊織君の舌を唸らせるために、氷が解けてしまっても、濃い目の調整でお出ししております」
彼女のメイド役が戻ってきた。静かにこちらに一礼し、こだわりの味であるとこちらに説明してきた。
「やっぱり、濃くもあるんだな」
「ええ。伊織君は違いがわかる殿方なのですねぇ」
何やら含みを感じる彼女の物言いであったが、無粋するのは辞めておく。
「このクイズ、何ポイント?」
「二ポイントですかね?」
「最大何ポイントなの?」
「全部で三ポイントですね」
「もう一回飲む」
「ええ、ぜひチャレンジしてください」
軽い微笑みを向けられた気がしたが、その真意は図りかねた。
いつもより、入念にタンブラーの中を確認したり、口に含んでコーヒーと戯れたが一向に答えが出せない。
「ヒントは?」
段々、目の前にいる和栞の表情がこちらをあざ笑っているかのような笑みを浮かべてきたので、どうも悔しい気持ちが滲んでくる。タンブラーの中で和栞に対して助けを求めた四文字が反響した。
「味わってもわからない事ですかね?」
和栞はそう言い残すと自分のコーヒーを口にした。
「なるほど……。思った以上に濃いものになってますね。まだまだ勉強が必要です」
そんな独り言を漏らしながら、和栞は顔をしかめている。
「遊んでいる場合でもないので、制限時間は残り三十秒ですよ」
彼女の勝利は残り三十秒で決まるというのに、どこか他人事のような顔を向けている。
いつもの負けず嫌いの彼女であれば、今は誇らしいウイニングランの瞬間であるはずなのにどうしてそうも涼しそうな顔を浮かべているのかわからない。
「はい。終了です~」
彼女はこの団欒のひと時に終止符を打った。
「正解は何だったんだ?」
「そんな難しいことじゃないのですが、こればっかりは気が付けない伊織君が悪いです」
伊織はこのひと時で飲み干してしまったので、これ以上味の確かめようがない。
「濃さは丁度良かったし、味は美味かったし……」
「誉めても何も出てきませんよ」
「おもてなしの精神が伝わって嬉しかったなぁ……」
「そのお言葉をいただけただけで、引き分けという事にしておきます」
伊織の熱は落ち着いたのだが、和栞の色白の肌が少し赤みを帯びてきた。
(これは、もう少しで正解が聞けそうだな)
彼女はこちらの考えを汲み取ったのか、手元のタンブラーをさっと奪った――
「まだおかわりがありますので、準備しますね。私が返ってくるまでに勉強の準備をしていてください。いいですね!」
ペアタンブラーは桃色のカップが少し汗をかいていた――
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気が付かない伊織がさすがに悪いよ、それは(笑)
次回更新 8/24 8:00 です。
本作初のヒロイン視点。本話までの前日譚!お砂糖もりもり。お楽しみに!!




