第三話「遠くを見つめる少女が一人」
7/25は第一章の5話(休一話)まで投稿する予定です。休一話までお楽しみいただけると幸いです。
四月初週。その日、伊織は身体が自然と休息を終えるまでの間、惰眠を貪った後、土曜日昼半ばという遅めの時間に漫画の新刊を買いに家から離れた本屋へと足を運んでいた。
伊織は現物を手に入れる、手に取りたいという持論がある。
もっぱら、紙媒体だけでなく、電子書籍という各人のニーズに合った選択肢を用意されている昨今であるが、まだ妙に味気なく感じてしまうし、インターネットに通じることによって、自室にいながらも一瞬でお目当てを購入できてしまうことに対しても否定的な立場で、伊織は「日本人は情緒を大切にしてきたんだよ」との考えの持ち主であった。
自らの足で書店に赴くという面倒くささをも、その道中で楽しみな気持ちに浸っていることでさえも、心を愉快にさせるのだから、無くてはならない味わい深い時間として捉えていた。
目的の書店前に到着し、店内に入ると、お目当てのシリーズが立ち並ぶ一角で足を止め、新刊と書かれたフライヤーの下に平積みされた一冊を手に取った。
そのあとで、目星もなく店内を彷徨っては、書籍の種類に関係なく自身の探求心を満たす目新しさを求め、手にとっては元の場所へ返す動作を繰り返した。店内の細やかな変化にも気が付けるくらいに伊織はこの書店へ通っていた。
静かな店内とは対照的に、書店員たちが作成した、一枚のカード、ポップ、商品棚の一角たちはその愛や熱量を凝縮、発散している。
肩を引っ叩かれるような迷いのない推薦にまみれた雰囲気が予期せず購買欲を刺激してくるので、炎を焚きつけられる瞬間がたまにあったりするものだ。
結局、伊織は購入予定に無かった文庫本も加え、会計を済ませ、店外へ出る羽目になった。
◇◆◇◆
時計は、平日の下校の時間と遜色のない時間を差す。
外へ出るなり、西日は角膜を刺激してきた。
過ごしやすい外気を存分に肌で感じながら、伊織は帰宅の歩みを進め始める。
家までの帰り道の途中で時折、伊織の身体をかすめては通り過ぎる風は、この時期独特の景色を演出する。満面の笑みで新生活を見届けた桃色の花弁たちは、大気の流動に逆らうことなく、最後までこちらの目を楽しませるように可憐に散っていた。
その光景をぼんやりと眺め、伊織はどこかもの寂しさを感じ、今年の桜の見納めに丁度よさそうな場所を知っているので、寄り道をすることにした。
◇◆◇◆
広々とした公園には外周を桜が埋めているので、この時期には毎年朝から花見客の訪れも多く、賑わいを見せる。伊織が散歩する道沿いで、花見を楽しんでいるようだったグループは、主催と思わしき人物の注目を集める手鳴らしと、「宴もたけなわではありますが」という言葉を境に、皆で後片付けに取り掛かっていた。
一本一本の桜は近くから見れば、そのどれもが自分が主役と言わんばかりに、美しく咲いている。
それらを遠くから見れば景色の中に桃色の線を引き、まだ見えぬ遠く先の方まで、人々の関心を惹いているようだった。
今の目的は桜の見納めというところなので、すでに十分、達成できた伊織であったが、陽気に恵まれている中、公園に到着してからそそくさと退散してしまうには、まだ早い時間だったので、幼いころよくお世話になっていたアスレチック型の遊具と家族連れを横目に、公園の奥の方まで目的もなくこのまま歩くことにした。
手持無沙汰に桜並木を歩き、広場や遊歩道を歩いたその先の方。
地域の住人が時折口にする地獄階段が目の前に現れる。地獄という表現はもちろん比喩的に使われているが、なんとも適格な表現で、上るにも長く相当の覚悟が必要だ。
普段であれば、引き返すところだが、昼半ばまで寝ていたことも幸いしてか、身体の疲れなどつゆ知らず、気まぐれにこの階段を上った先にある高台を目的地としても良いなという、一時の血迷いが生まれた。
景色を見るには丁度良い高台があることは良く知っていたが、幼少の頃、連れてこられた両親を置いてきぼりにして、階段を駆け上がっては二人の疲れ顔を楽しんでいた記憶が強いので、頂上で自分がどう過ごしていたたかなどの記憶もなく、思い出せない。
じわりじわりと押し寄せてくる倦怠感と一緒に、長い階段をゆっくりと上っていく。まだその終わりは見えないが、先ほどの安直な決定とは裏腹で、いくら活気に満ち溢れている年頃の男子高校生と言えど、階段の連続は呼吸の乱れを生じさせ、鼓動が速まり、脚部への疲労が蓄積される。この時期には珍しく、額には汗が滲んでくるのも無理はない。
最後の段を上り終えたところで、爽やかな風が、運動を労ってくれたのか、身体を撫でて出迎えてくれた。遠くには今回の暇つぶしの終着点である高台が見えた。
◇◆◇◆
辺りは、先ほどまでとは様子も異なり、そよ風に揺られて、深い緑の葉を携えた木々がさざめいている。
賑わいはそこには無縁で、辺りに人の姿は全くなく、人々からは忘れ去られているような静けさが漂う。それもそのはずで、人々が毛嫌いするくらいまでには地獄階段は長い。
道端には階段前の広場と同様に、手入れの行き届いた花々が咲いている。
高台までの道のりは簡素なもので、休息を入れずとも進んでいけそうな緩やかな勾配が続いている。伊織は呼吸を整えながら、歩き始めた。
緩やかな勾配のその先にひとり。遠くの方をじっと見つめる少女が目に留まった。
少女までの距離はまだ近くない。
数十メートル先でその存在を認識できただけの距離だった。
まだ、こちらの様子に気が付いていないその少女は、長髪をそのままに流し、風に揺れる髪を軽く押さえながら、町が一望できる景色を独り占めしていた。
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