第三十三話「びんわんぷらんなー」
ちょっとした休憩をはさんだ後――
二人は再度勉強の時間とすることにして、それぞれの学習に取り掛かった。
初めこそ集中できていた伊織。
だが先ほど、和栞の口から出た言葉を頭に思い浮かべては「モヤモヤとした気持ち」が湧いてくる。
思わず、自主学習の手を止められていることに気が付いた――
目の前の美少女とは「その場の成り行き」とはいえ、一か月で多くの思い出ができた。
そしてそれは彼女の性格がもたらす”誰にでも与えてしまう幸運”というべきものだと考えていた。
だが、言葉の節々から自分のことを信用して時間をともにしていることを「良し」としていると、彼女の口からはっきりと聞いてしまった。
伊織は和栞に「特別な意図があってのことではないだろう」と考えていただけあって、彼女から前向きな気持ちを受け取ることが増えるにつれ、その意味を、理由を、考えてしまう。
彼女はこちらが思っている以上に努力家――熱心に物事に取り組む姿勢で溢れている。
さらに自分が簡単に真似できないような世渡り術を身に付けている。
「好意」というより同世代の人間として「尊敬」できるのだ。
(そう……これは好意ではなく、尊敬だ)
伊織は心の中で反芻する。
だが、彼女たっての希望により、この部屋の出入りを許可されているが、勉強の環境づくりのためとはいえ、こちらとしても美少女と二人っきりで静かに勉強する状況に思うところがあった。
しかも、彼女の気まぐれで「これからも勉強をともにすることになってしまった」のだから――
今更、野暮な言い訳はできないような気がしていた。
いくら「色恋に縁のなかった」というより「興味を示さなかった」伊織にとっても、目の前にいる少女は容姿端麗で、魅力的に映ってしまう状況――相手は異性なので男女の仲の対象として意識せずにはいられない。
昨晩ふと、布団の中で考えていたような気持ちの湧き上がりがそこにはあった。
(でも、こんなの……意識しない方が無理だろ……)
目の前で物静かに勉強を進めている和栞はいたって平常心。
いつも通りの様子だから、無性にこちらが情けない気持ちを抱えるのであった。
友人の叶わない恋を応援する立場としても、その恋という病に罹ってしまうと取り返しのつかないもどかしい日々を送る羽目になってしまうことは、容易に想像ができている。まして高嶺の花と言ってもいい彼女は、引く手数多の存在であるので、彼女の信用を得ていると言えど、その先の「発展的な関係」になれる自信が今の自分にはない。
彼女を知れば知るほど、影の努力や考え方に触れてしまう。
人間として惚れているという気持ちは何も間違ったことでもないし、後ろめたさも何もない。
ただ一つ、伊織が危惧している事――
これから先、自分が出会ったことがないような感情に気が付いてしまうことだった。
伊織は、この尊敬からくる彼女への思いがいつの日か――
「恋仲になりたいといった陳腐なもの」に落ち着いてしまうのは勿体ないような気がしていた。
◇◆◇◆
時計は午後五時頃を指し――
和栞が赤ペンに持ち替えて、軽快な輪っかを作る音が鳴り止んできた頃。
彼女は顔を上げて背後にある壁掛け時計を見るなり、こちらに話しかけてくる。
「もう五時ですね。随分と集中できて取り組めた私は満足です。伊織君はいかがですか?」
「こっちもキリのいいところまで終わったよ」
「それは良かったです。明日から学校も始まりますし、今日はこの辺にしておきましょう?」
「そうだな」
春の連休も今日で最終日。
明日からまた学校生活に戻る。
「この春の連休はとても充実したものにできました」
「それは良かったな」
「はい、上出来です。やりたかったことが全部できましたので」
和栞は本人なりにこの連休を謳歌出来たようだ。
「終わりよければ、全て良しでした」
「終わりよければねぇ」
「今日はとても充実したものになりましたよ?」
何やら静かな笑みを浮かべている和栞を、ぼうっと見つめる伊織だった。
こんな静かな空間で勉強をしていただけの今日であったので、楽しみも何もないだろうにと思うが、彼女の笑みは何か他の満足も含んでいるようだった。
「今日で連休が終わるというのに、やけに晴れやかだな」
伊織が和栞の顔を観察しながら思ったことを口にした。
「伊織君は、連休って始まる前までは心待ちにしているのに、いざ始まってしまうと、もう充分だなぁって思う瞬間ありませんか?」
和栞は立ち上がって、窓辺に近づいていく。沈みかけている日に向かって背伸びをしながら伊織に穏やかな口調で問いかけた。
「俺は休めるなら、ずっと休みが良いんだが。その心はなんだ?」
「なんというのでしょうか? 寂しさですかね? 今回もせっかく新学期に仲良くなれた友人たちと離れてしまうので早く会いたいなって気持ちになったのですよ」
「学校が始まってしまえば、嫌でも毎日会うことになるだろうに」
何を言い出したかと思うと、要約すると友達と会えなくて寂しいと言い出したので、美少女のその心の清らかさが眩しい。
「そうですね。でも、最近は何の変化もなく毎日普通に過ごせることが一番の幸せに感じるようになりました。きっと実家に帰った時に家族みんなで過ごせたから、愛を受けて、綺麗な気持ちになれているのでしょうね。気恥ずかしいです」
勝手に語っておきながら、最後は自分の言葉に恥ずかしさを感じ、顔をほんのりと赤くしてしまう和栞だった。
「俺はそんな風に考えられないから、驚いてるわ」
「良い刺激になれば幸いですが?」
「ああ。少なくとも悪影響ではないから心配しないでほしい」
「伊織君も、家族や友達を大切に!ですね」
「なんだかんだ、友人には恵まれてるから申し分ないよ」
「ご家族はどうなのですか?」
「ぼちぼち」
伊織が苦しい言い訳をしたように思えた和栞だったので、怪訝な顔を伊織に向ける。
「その様子ですと、普段感謝を言葉で表現してませんね? 顔に書いてあります」
「うちの親はそんな事したら調子に乗ってしまうからな。特に母さんはもっと面倒くさくなると思う」
「女性に面倒くさいなんて言葉を使うものじゃありませんよ?」
躾をするような母親口調で彼女はこちらを問いただしてきた。
かといって伊織も簡単に引き下がることはできない。母親の扱いに関しては伊織の方が心得ているからだ。
「根掘り葉掘り聞いてくる母親だぞ? からかわれるに決まってる」
「ということは、お母様は伊織君のことが大好きなのですね!」
両親からは人並みに育ててもらい、大切にされている以上、その言葉に反感の気持ちはない。
なので、どこか納得した表情を向けてくる和栞に対して強く反論する気持ちが削がれてしまった。
「伊織君は、母の日は何かお考えですか?」
「何って、何もないけど」
世の中、この時期になると話題に上がる母の日だが、勝手に自分には関係のないものと捉えている伊織である。
伊織にとって母の日とは、父――雅也が、母である由香に対してありったけの感謝を伝える一方で、両親がいつも以上にベタベタする日になるという認識だったので、自分から何か改まって母親に感謝の気持ちを伝えるなどといった行事ではなかった。
毎年、そのベタベタの一日に巻き込まれたくないので、少しばかり呆れを交えて、二人を俯瞰で見守るのが恒例になっている。
なので自発的にこちらから何か母親に対して贈り物をするなど、和栞に言われるまでは、自分で考えたこともなかった。
「勿体ないです。聞き捨てなりません!」
和栞は伊織の言葉を聞くなり、ムッとした表情で伊織を短くまくし立ててきた。
どこか、まだ説教めいたものを感じる――
が、どうしても抜けきらない彼女の物腰の柔らかさとのギャップが妙に伊織は笑えてくる。
「と、怒られましても……」
「そうですねぇ……。今年は何かプレゼントしてみるとかどうでしょうか? 言葉に表すことも大切ですが、気軽に感謝を表すことができます。きっとお母様も喜ぶかと思いますよ?」
目の前の美少女は南波家のベタベタの渦に自分を巻き込んでしまうような提案をしてくる。
余計なお世話だと思いつつ、これまで彼女は折れたことがなかったので、この提案からも逃れることはできないのだろうなと察しがついたが。
彼女の言葉に後ろ向きな気持ちで話す。
「そういうことしたことがないから見当がなくて、既に詰んでるな」
「良い相談相手がいるじゃないですか?」
こちらへ近づいてくる和栞は不思議そうな顔をしている伊織に対して何やら企みがあるような顔である。
「どこに?」
「ここにです」
和栞は自分の胸に手を当てながら自信たっぷりな表情で伊織の目の前に立つ。
覗き込むようにしていた目線をこちらと同じ高さになるように屈み込み、協力を表明してきた。
ふわりと目の前に現れた甘い空気がこちらに届く。
至近距離で見てしまった顔は軽やかな笑みを浮かべており、触らずともわかる柔らかな肌が目の前にあるものだから、会話の内容を思わず忘れてしまうほどだった。
「女性の好みは理解しているつもりです」
「それは頼もしいことだな」
一瞬、見惚れるような和栞の美しさから目線を逸らすと、場を繋げるような当たり障りのない言葉で、彼女の圧力から逃れるように、我に返ろうとする伊織だった。
「本当にそう思っていますか? どこか他人事のように聞こえてしまいますが」
「プレゼントなんてしたことないから、想像ができない」
「伊織君、もしかして恥ずかしさをお感じで?」
「だってそうだろ。親に感謝をなんて、お涙頂戴のドキュメンタリーか、物語の話の中だけだと思ってたぞ」
「その考えは改めるべきでは? 私はお母さんに常々、感謝の言葉を伝えるようにしています。気持ちのいいものですよ?」
(どこまで行っても清らかな心の持ち主なこった……)
彼女の口から出てくる言葉には育ちの良さを感じている。
どうすればこんな邪気もない人間が出来上がるのか不思議でならない伊織だった。
「気恥ずかしさを消すにはいいアイデアがあります」
先ほどまで勉強をともにしていた正面に彼女は丁寧に座りなおすと真剣な表情を見せる。
「アイデア?」
「伊織君は私を自由に使っていただいて構いません」
「相談役としてだろう?」
「ええ。そのほかに、その気恥ずかしさを言い訳に変えてしまうのです」
「言い訳ねぇ」
「友人と母の日の話になったからプレゼントを用意しましたとお母様に言い訳出来ます。大義名分ってことです。人のせいにできれば伊織君も自然と気持ちを届けることができると思います。これで、恥ずかしがり屋さんな伊織君にはぴったりのプランをご用意できましたね」
この際、若干揶揄われているような物言いは咎めないでおく伊織だった。
「将来はプランナーにでもなったらどうだ。すぐに噂になるだろうに」
「何がですか?」
「いや、なんでもない」
今すぐに「はいそうですね」と首を縦に振りそうになる彼女の提案は他人に有無を言わさず、自分のペースに乗せてしまう。
今の伊織は和栞の能力にただただ感服してしまうだけだった。
だが、肝心の問題が解決していない伊織は助けを続けて乞うしかない。
「そんなに言うなら、何かしてみようと思うんだが、結局、何を渡せばいいんだ?」
伊織の心変わりに和栞も先ほど前の説教口調から穏やかなものへと変わっていく。
「偉いです。そうですね。お母様の好みから探れたりはしないのでしょうか?」
「それがわからないから困っているんだが」
「そうでしたね。ならば、来週、一緒にプレゼントを探しに行きましょう。私も丁度、買い物に行くところでしたので」
「勉強はいいのか?」
「言ったでしょう? 私も買い物のつもりだったのです。それに、大切なお友達に自分から煽り立てておいて放っておくなんてことはできません」
「それは心強い言葉だな。よろしく頼むよ、プランナーさん」
「はい。和栞ちゃんはよろしくお願いされましたよ。任せてください」
和栞がポンポンと胸を叩く優しい音が耳に届いて来て、どことなく安らぎを覚える伊織だった。
「伊織君のいいところが出てますね」
「なんだ? 改まって。何も出てこないぞ」
「いえ。なんでもないのですよ」
いつにもまして上機嫌でにこにことしている彼女は最初こそ、厄災をもたらすお転婆娘に思えたのだが、今の笑顔を見る限りでは、頼りがいのある表情を浮かべている。
何よりも伊織にとって今の和栞は頼もしかった――
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次回更新は8/20 8:00頃を予定しています。




