第十六話「和栞の日常と食事情」
「伊織君は手ぶらのようですが、お気に入りはなかったのですか?」
いくらでも時間を潰せる魅力的な書店とは言え、おいそれと財布を緩めるわけにはいかない。
今月は残りのなけなしの小遣いでやりくりをする必要がある。
「欲しいものなら先週買えたから今日は読むだけだったかな。これは何を買ったの?」
「そうですね、参考書やらファッション雑誌やら、レシピ本やらいっぱいです」
いかにも女子高生らしいラインナップの中に混じるレシピ本という一冊が気になる。
目の前にいる少女の学力はある程度高い。入学当初は遺憾なく発揮された中学範囲の学力は、この一か月で高校範囲にも適度に対応できているようで、困っている様子は見かけない。
彼女との会話の中で聞いた運動神経についても、自身は謙遜した言葉をこちらに寄越していたが、男女別の体育の授業終わりには教室では彼女が他の女子生徒に囲まれて、授業中のプレーに関心を寄せられる輪の中心にいたことも見かけていた。自分の目で見たわけではないが、おそらくこの定評に大きな狂いはないはずだ。
その彼女がさらに料理にまで精通しているらしい。
家庭的な一面も見せるものだから、伊織は忘れかけていた和栞のスペックの高さに、自身の平均的能力を比べてしまい、この場で改めて嘆きを入れそうになっていた。
感傷に浸りきる前に彼女の料理の御手前については、興味をそそられるものがあった。
「料理するんだ?」
「はい。意外でしたか?」
「いや、何でもできるのはなんとなく察しているけど」
「そうでないと生きていけませんし」
「生きていくだなんて大げさな話になってしまったな」
「いえ、その言葉通りの意味ですよ?」
まだ事態を飲み込めずにいた伊織であったが、会話を進めると和栞は人の生き死にを取りざたしてきて、若干真剣なまなざしでこちらを見てくる。
(その言葉通りの意味?)
内心考えるところであるが、彼女に憂いの顔色は見えない。
「ごめん。理解するには情報が少ないんだけど?」
素直な理解の不足を彼女に向けた。
「日々の食事は自炊しています」
「えっ? 自炊?」
大きな声が出てしまった。
「ええ。そんなに驚く事じゃないでしょうに」
小さく彼女が笑った。
まだ伊織の脳は和栞との会話に追いついていない。追いついていないというよりは、言葉を選びながらこの先を聞いた方がいいのかもしれないという、一種の安全装置が働いていた。
自炊する必要があるということは、彼女は家に帰るなり誰もいない環境で過ごしているのかとの想像に加え、嫌な予感が頭を過ってくるが、相変わらず彼女の顔はむしろ晴れやかなもの。
(聞いてもいいことなのか?)
伊織は和栞の表情から少しばかりの安心を読み取った。
彼女の口から、事の背景をご教示いただくことにする。
「月待さん、ご家族は?」
「今頃、私抜きでお買い物?団欒?と言ったところでしょうか?」
顔に出ないように安堵する伊織であった。身内はご健在のようだ。
だが、最悪を回避しているまでの話であったから、その先の話はうかがい知ることはできていない。
若干、失礼で配慮が足りていないことも重々承知で、伊織はその先を問うてみることにした。
今の状況のまま、話を進めてしまうと、何か大事な彼女の人となりを取りこぼしてしまう可能性を危惧したからだ。
帰路へ向かっていた足が思わず止まる。
「なんで、月待さん抜きなの?」
「春からこの町に引っ越してきたのは私だけで今は実家に住んでいないからです。学校の近くで一人暮らしをしてますよ? って言っても、この年で自立している訳ではないので、金銭的なところは両親に甘えているのですが」
「気分を害したら申し訳ないのだけど、何か実家を出たいほど、困る理由があるとかそういう話じゃないよね?」
注意深く、和栞の何らかの琴線に触れてしまわないように、なるべく穏やかに問いかけた伊織であった。
伊織が立ち止まったことに気が付かずに歩いていった和栞が、話相手の声がだんだんと遠くなることに気が付き、伊織の方を見る。
立ち止まって真剣な伊織のその顔を見た和栞は、目を丸くした。
こちらの様子をうかがうなり、口元がきゅっと上がり、いつもの穏やかな笑みを向けて口を開く。
「伊織君は心配性ですね。この笑顔を見れば家族仲も良好なのは伝わりませんか?」
先ほどまで温かい笑顔を向けていた彼女が、両手の人差し指で自分の頬をわざとらしく突き、ニコッっと無邪気な顔でこちらの緊張を解く。
すぐにその表情はいつもより一段と明るく、こちらの気負いを取っ払ってしまうような、ありったけの笑顔に変わっていった。
「私の実家から高校に通うには少々通学に時間がかかってしまうのです。進学校ということもあってこの学校に進学することは前々から家族と話していたのですが、毎日片道二時間を掛けなければならないのが大変で、時間も勿体なくて。いつも私の味方でいてくれる両親が私のわがままを聞いてくれて、晴れてこの春から未来の花嫁修業も兼ねて一人暮らし中ということです!」
伊織はほっと胸をなでおろして、開いてしまった距離を詰めた。
隣に並ぶと、和栞も誤解が解けたこちらの横顔を見上げる。
家庭の姿は千差万別でそれぞれと言うのも頷ける話だった。
だが、こんな幼気な少女を一人暮らしさせる様な、和栞の両親の心中を伊織は思いあぐねていた。
かわいい子には旅をさせよ。と、よく言ったものだが、将来自分にも娘ができた時に同じように、その子のためを思って、同じような行動ができる自信がない。率直に彼女の両親は寛大な人間であるようで、その親にこの子ありと言ったところなのだろうと、親の顔が見たくなってきた。
この際だからと伊織は、高校生での一人暮らしという稀有な経験進行中の和栞に色々聞いてみることにする。
「女の子の一人暮らしって危なくないの?」
「部屋はマンションの上階、エントランスには厳重なロックが掛かって防犯も完璧です。困ったことがあれば不動産の社長さんやその奥様にも親身に対応頂いているので、私は周りの方々に支えられて、今日も元気に生きています!」
確かに、彼女が言う通り、その小さな身体は不調を一切感じさせることがなく、健康優良な様子だった。肌艶も良く、血色にも申し分ない。
漆黒の長髪を纏う姿には気品があり、手入れが行き届いている。毛先一本にとっても伊織には和栞の生活に一切の乱れを感じさせていなかった。
「経験したことがないからわからないけど、普通そういう管理人とは挨拶を交わす程度のものじゃないの?」
「そうですか? 家財の組み立てや運び込みも手伝ってくださいましたし、お夕飯までごちそうになりましたよ?」
そんなことがあり得るのは彼女の困り顔を誰もみたいと思っていないからだろうと思う。
常に周囲に笑顔を振りまくその姿に、男女問わず当てられてしまうような魅力があるので誰も和栞を冷たく突き放すようなことはできない。
謙虚で驕らず、裏表のない人柄が見え隠れするので、周囲に救いの手を自然と差し伸べられてしまうのだろうと思った。
伊織は、現実にそんな人間がいていいのか?と思ってしまうが、和栞の普段からの行いを見ていると、なんとなく周囲が向けるその手助けや気持ちも汲めなくはないなと合点がいった。現に伊織自身も助けを求められ放っておけず、今日の案内人の役回りを了承したので、尚のことだった。
「流石、コミュニケーション能力のオバケだな……」
「オバケとは心外ですね」
和栞の頬がぷくっと膨らむ。
「妖怪?」
「もっとダメですねぇ?」
喝を入れてくる和栞は、良い言葉を見つけられずに考え込む伊織に対して、楽しそうに笑っていた。
「家族仲を心配されなくても、毎週日曜日は実家に戻っているので、安心してください。たまに寂しく感じることもありますけど、今のうちから家事を経験できるこの環境も気に入っていて、やっと慣れてきたので」
常に何かしらの前向きな目標を持ち、こちらにも伝わってくる彼女の志の高さたるや。本人を見ていても、なぜか勝手にこちらが清々しい気持ちになる。
どちらかと言えば、毎日をダラダラと過ごす事の多い伊織なので、身近に自分では到底考えられないような努力をしている人間がいると、感心する一方だった。
「凄いなあ、月待さんは。自分が一人暮らしなんて始めたらすぐにダメになってしまうと思う」
「身に染みて、両親のありがたみを感じられますよ?」
素直に両親への感謝の言葉を並べることのできる彼女を見ていると、この言葉も、軽く口から出たような思いではないだろう。普段から考えていなければ、咄嗟に出てくるような言葉ではないような気がした。
(見習うべきだな……)
伊織は我が振りを思い出し、苦笑いを浮かべるのであった。
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