第十五話「右手の行方」
和栞は「長くなりますよ」との一言を残して書店内で神隠し状態。
広大な売り場面積からして、人探しは難しいのでここは潔く諦め、試し読み向けに休憩できる太っ腹なスペースでお供の一冊を眺めながら、本の虫と化していた。
文庫本が冒頭の山場を迎え、行と行を好奇心で次々と飛び回っていた伊織は、ふと自分のポケットから振動を感じる。
携帯を取り出して内容を確認すると、和栞からのメッセージが表示されていた。
「お待たせしてすみません。あと十分ほどでおわります。いかがですか?」
画面の左上の隅、時刻表示を確認すると、午後四時過ぎ。入店してから約二時間と言うところであった。
(やけにのんびり見てまわってたんだな)
和栞の念願。こちらも時間を忘れていたとはいえ、時間経過の早さには身の毛がよだつ。
「了解。店の外で待ち合わせで」
そそくさと和栞に返信して、椅子から立ち上がり、小休止のお供を元あった平積みへ戻す。書店の出口へと向かうのだった。
店を出た先の歩道で、待ち合わせに周囲の迷惑にならず、相手が迷いを生まない場所を陣取り、今日の依頼人との再会を待つことにした。
陽も落ちかけているせいか、陰に立っているせいか、日中に比べ、身体を撫でてくる風を冷たく感じた。
この季節は例年にない暖かさや、十年に一度と言った上空の寒気の流入で、日ごと、時間帯ごとに外気から与えられる体感温度が移う。
(もう少し着込んでくれば良かったかな)
朝とは真逆の感想を持ったので、少し笑えた。
程なくすると最近見慣れ始めた彼女がこちらにちょこちょこと駆け寄ってくるのが見えた。
和栞は、手に書店のロゴが掛かれた手提げの袋を持っている。数冊買い込んだような重みを華奢な手が非力に携えていた。
「すみません。本当に長くなってしまいました」
駆け寄ってくるなり、呼吸を整えながら和栞がこちらに申し訳なさそうな表情をして、詫びてきた。
もとより、彼女の口から「長くなるかもしれません」と聞いていたので、時間経過の長短に文句を垂れることもない。もっと長々と見て回ることもできるような広大な店を、初日から使いこなしていただろう和栞の姿は、余程買いたいものがはっきりしていたんだろうなと思った。
「こっちも時間を忘れてたくらいだから気にしなくていいよ。持とうか?」
その色白の華奢な手は、早くも袋の重みに耐えきれておらず、指先をほんのり赤く染めるまでになっている。
伊織は自身の手持ちも無かったので、手指の居心地が悪く、何気なく彼女に向かって問いかけたのだった。
「こういうことさらっとできちゃうのが伊織君の良いところですね。お言葉に甘えさせてください。ありがとうございます」
「手持無沙汰は落ち着かないだけだよ」
軽く彼女から荷物を受け取った。自分にとっては重さをさほど感じるような量でもなかった。
「では、私の手でも取ってみますか?」
全く、この子は。
素で言っているからして、恐ろしい。
「はい、これで右手は塞がりました」
伊織は右手を掲げて、買い物袋で手が塞がってしまった様子を強調する。
「左手が空いているじゃないですか」
「車道側を歩くのが男の務めだと、先人から古今東西の書物で学んだんだが」
「袋を左手に待ち換えればいいじゃないですか」
「右手が荷物を捕らえて離さないようだ……」
「もうっ」
さっと話題を終いにしようとする伊織に不服そうな顔を和栞は向けるが、どこ吹く風を装う伊織であった。
「随分と買い込んだようだけど、お目当てはあったの?」
中身までは窺おうとはしなかったが外観からわかる。
伊織が普段買わないような薄くて大きな雑誌がビニール袋に角を付けていた。
購入品は同じような大きさ、厚さの雑誌が数冊のようだ。
不服顔を向けていた和栞であったが、伊織の言葉を聞くと、思い出したかのように満足そうな顔を見せた。
「それはもう沢山。私は大満足です。広すぎて全ては回れませんでしたが、またの機会にしてあげますっ」
少なくともこの書店に出入りする人間としては、一番通い始めて日が浅いのにも関わらず、既に自分の庭と言わんばかりの決め顔をしているので、妙に可笑しく思う。
彼女の要望通りに案内したに過ぎなかったが、当人も心を満たせたようで、次回の対戦に向けて誇らしい顔を讃えていた。
「それはようございました。帰ろうか」
「はい。ありがとうございました。お散歩しながら帰りましょう」
同じ道を通って帰るにも案内人としての矜持が廃るので、今度は人通りもまばらになったであろう商店街を使おうと考えていた。
帰り道、元来た方角に向き直って伊織は歩き始めた。
宣言通り、車道側の歩道を歩き始める伊織のその背中に、穏やかな笑顔を向ける和栞であった。
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