第九十八話「指切り開錠と“ちゅ”」
「もう私は、伊織くんの彼女なんですから、少しくらい構いませんよ? いたずらしても、襲ってきても……」
和栞さんはニヤリと笑って横で、とんでもないことを言い始めた。
以前、彼女の身の危険を心配した自分が、安易に男性を家に招き入れることに対して注意したことがあった。
その際に彼女がこちらの説得を飲み込んだうえで結んだ指切り約束――「伊織が和栞の事を襲わない」という約束。
勿論、当時そんな気はさらさら無かったが、彼女に男性を家に招き入れる危険性を説いた後、こちらがこの部屋で居心地悪くならないための「意志表明」として彼女が提案して結んだもの。
「いやいや、マズいでしょ」
スキンシップ程度の触れ合いはこの際、棚に上げておくが、襲うことは絶対にない。
「襲ってくれないのですか?」
和栞さんは真剣な表情で真っすぐに聞いてくる。
「いやね、和栞さんに魅力がないわけじゃないよ? そこは充分理解してほしいんだけどさ、襲うって表現はどうかと思うよ? 和栞さんが嫌がったり困ったりすることは微塵もしたくない」
率直な意見を彼女にぶつけてみると、妙に恥ずかしがって彼女は言う。
「大切にしてくれるんですね、嬉しいです……」
和栞の頬が赤く染まっていくのに気がついた伊織は、次の言葉をつい忘れてしまった。
彼女が望まないことは絶対にしたくない。
こんな和栞さんの顔が見られるのだって、自分の特権。
自ら手放してしまうようなことを絶対にしたくないと、常々思っている。
「そりゃ、俺の初めての彼女さんですから、お互いに慣れない事ではありますが、最大限大切にさせていただきますので、そこは安心してくれれば……」
「ふふっ……うんっ」
彼女は口元に手を添えて、優しく笑ってくれた。
こちらの焦りが言葉尻から伝わってしまったのが悔しいが、嘘は全く言ってない。
「でも、伊織くんも男の子だし、お望みならば、私はどんなことだって受け止めてあげられるからねっ」
彼女が何を想像してこんな言葉をかけてくれるのか……。
「例えば?」
和栞さんは自分の口から説明することを想定していなかったのか、ぽかんと顔に書いてある。
そうかと思えば、顔を更に赤らめて。
「女の子にそんなこと言わせちゃ……だめです」
全く答えになっていない言葉が左耳から入ってきて、頭の中で乱反射を繰り返した後、右耳からそそくさと逃げて行った。
「良識の範囲内で考えとくよ……なんかごめん」
彼女が妙に恥ずかしがって俯いてしまうので、話題の擦り合わせが全くできなかった。
ゴホンと喉を鳴らして、空気を払いのけたい。
ところが、その音にびっくりさせてしまったのか、和栞さんの身体が揺れる。
「とりあえず、襲うってことはしない……のだけ、覚えていてくれたら……と!」
「ひゃ、はいっ!!」
彼女の声が裏返る。
ひどく緊張させてしまったようで本意ではなかった。
「言葉の定義で言うならば、襲うことはないけどさ、触れ合いたいとは思ってる。可愛い彼女さんなんだし……」
伊織は和栞の右手を優しく取る。
和栞は拒まず、全身の力が徐々に抜けていくのが、伊織にはわかった。
「伊織くんが大切にしてくれるのは充分に伝わりましたが……ゆびきりの“この部屋で襲わない約束”は、おじゃましますと一緒で……今日から無しにしよ? いや……?」
彼女が期待に満ちた表情で求めてくれているので、ここで首を横に振るわけにはいかなかった。
「じゃあ……そうしよう」
別に今から彼女を「どうこうする」わけではないが、それなりのスキンシップだって彼女としてみたいと思っているので、今となっては過去の約束は、必要のない足枷になってしまうかもしれない。
お互いに解いて、次に進んでもいいんだという喜びが、ふっと湧き上がってきた。
彼女は言う。
「指切りって……どうやったら、やめになる?」
確かに。考えてみたこともなかった。
「もう一回、指切りで上書きしちゃえばいいんじゃない?」
考えをそのまま、言ってみた。
彼女は静かに頷いてくれた。
「指切りって鍵がかかったみたいな感じがしませんか? がちゃこんっ…みたいな」
和栞さんがくすくす笑い出す。
「わかるかも。南京錠みたいな」
「じゃあ、解除? いや、鍵を開けたいし、開錠ですっ」
「指切り開錠だ?」
「そうっ! かいじょー、かいじょー!」
彼女は小指を絡めてくると、笑顔で難しい言葉を連呼する。
「了解。かいじょーで」
これで指切りは開錠されるらしい。
奥手だった自分が彼女に言いくるめられるままに結んだ約束が、まさか取り払われることになるとは思ってもみなかった。
伊織は少しの自信を胸に、和栞の楽しそうな笑顔を眺めていた。
しなやかで色白の小指が離れていくと、和栞さんは思いついたように、言い出す。
「伊織くん。試しに、チークキスの練習してみます?」
「え? なんて?」
(??? キスと言ったか? え……今からキスするの?)
伊織は和栞の言葉が理解できていなかった。
「海外で挨拶するときのやつです。友好のスキンシップ。お父さんが教えてくれました」
「あー、あれか、頬のやつか」
(あぁぁぁ……マジでびっくりした……)
そんな雰囲気でもないので余計に勘違いが訂正されて良かったと思った。
「そう! ほっぺたのやつです。でも、実際にキスするわけじゃないんですよ? “ちゅ”って音を出すだけです」
以前、咄嗟に落ちた左頬の和栞さんのキスを思い出した。
「え。ちょっと、はずい」
「え。だめです。こういうのから慣れていかないとっ」
きっとこういう触れ合いに不慣れな自分を気遣って、ゆっくり始めてくれようとしているのが伝わる。なんとなく、男として情けないような気もした。
「私たちは右の“ほっぺた”から始めましょう? その後、左のほっぺですっ」
「右っていうのは自分の右だよね?」
伊織は右頬に手を添えるように示すと、和栞は頷く。
ここでお互いの認識に間違いがあると、予期せず唇が触れ合ってしまうようなとんでもないことになる。
心の準備ができてない最高の光景が、最悪の光景としても頭を過った。
「そうです。こっちのあと……こっち」
和栞は右手の人差し指で、自身の右頬をつんつんと示した後、左手で同じように、左頬に同じことをする。
こういう何気ない所作ですら可愛らしいので、困ったものだ。
「私は左側で“ちゅ”ってするので、伊織くんもそうしてくださいね?」
和栞さんはそういうと、立ち上がり、自分の左側で姿勢を正して、準備している。
自分は今からこの子と、軽い挨拶のつもりで新しい文化を開拓してしまうらしい。
でも、このくらいから始められて良かったと安堵できた。自分も立ち上がる。
「じゃあ、はい」
正面の和栞さんが両手を優しく両肩に乗せてくる。
「伊織くんも、まねしてね」
自分も彼女の肩に手をかけ、少ししゃがんで彼女の身長にあわせる。
自分の手の平で、彼女の肩は包み込めてしまうくらい細身で華奢。
でも確かにそこに彼女が居る事を感じて嬉しい。
「やってみましょう! ではっ」
彼女の笑顔がいつもより近く、右目を通り過ぎ、視界から消えると、ふわりと薫る彼女の優しい匂いが鼻を掠める。
触れ合ってもないのに、彼女の体温を右の頬に感じる。
無駄に構えていた緊張が、人知れず、自分の心から溶けて、恵みに変わっていった。
一瞬、彼女の妖艶な表情、穏やかな目線が、目の前を右から左に通り過ぎて――
次は左の頬に優しさを感じた後、左耳の鼓膜が彼女の唇で作った甘美な音で揺れる。
気を取られて、自分でお返しするのを失念した。
「どうですか?」
「幸せ?」
「ふふっ。充電になりますねっ」
和栞さんは優しく、微笑むように笑ってくれた。
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