第九十四話「告白。二つの点が線になるとき(前編)――第三章最終前話」
「とりあえず、屋台をふらふらしてみる? 多分、あと一時間くらいなら見て回れるかなって思うけど」
「はいっ!」
和栞は敬礼ポーズで伊織の言葉に同意を示すと、ピシッと背筋を正している。
こんなこと前にもあったな――
そう思えるのは、君と過ごした時間が大切な思い出として刻まれているからだ。
「ここは戦場だからね?」
「わかってます。これでもかっ! ってくらいにお腹に詰め込みますので!!」
「ん」
込み合う会場内で君を迷子にしては男が廃る。
伊織は和栞に手を差し出した。
「ありがとっ!」
華奢な色白の手が、優しく指を掴んでくる。
下駄は歩きにくいし、ゆっくり散策しなければ……と伊織は和栞の事だけを想い、気持ちを引き締めなおした。
「何が食べたい?」
屋台エリアで彼女に聞く。
「冷たいもの食べたい!」
和栞は伊織を見ながら、満面の笑みで答えた。
自分は酷暑と関係ないこの熱を冷めさせねば倒れてしまうと思っていたので異論はない。
「んじゃ……まずあれ。どう?」
「うん!」
彼女の手を引いて、かき氷の屋台へ進む。
「私はいちご味っ!」
彼女は初めからいちご味に決めていたみたいに言ってくる。
正直、彼女が何味のものを選ぶか、想像できたところがむず痒い。
「俺はブルーハワイにしようかな」
「私はねぇ? 練乳をどばぁ~っと、かけてもらいますっ」
「どばぁ~、ですか……」
「うん! どばぁ~ですっ!!!」
彼女が擬音で可愛く、可愛らしいことを言う。
そして、甘いものをたくさん入れるときの、ちょっと後ろめたい気分を一旦忘れて、欲望に素直な時の彼女の表現「どばぁ~」――これも前、お手製のクッキーを焼いてくれていた時に彼女の口から聞いた表現だった。
屋台に着く前から、とびきり甘めをご所望の彼女。
注文した後で、彼女は屋台のおじさんを口説き落として、練乳を他のお客さんの数割増しでかけて貰った。
まだ椅子に座って一休みできるくらいの人出で助かった。
彼女は、サービスされた練乳の滝を少しずつ崩しながら、嬉しそうに食べている。
「屋台のおじさんも涙目だ……」
「えっへへ」
笑って、得意げに舌を出す彼女。
いちご練乳で染まった、桃の色。
「ご厚意に甘えてみただけです……って」
彼女の視線が下を向き、自分の手元を泳ぎ……悪戯な顔でそういうと――
「隙ありっ!」
「へっ!?」
ブルーハワイのかき氷から、ひと掬いを盗まれた。
彼女がしゃりしゃり。
もぐもぐ。
「ふふっっ!! ちゃんと守ってないと、私の攻撃は避けられませんからね?」
べーっと出した舌に青色が乗る。
そのあと――
気の向くままポテトに唐揚げ……。
「ごぼてん! ごぼてん! ごぼてん!」
弾む足の彼女が見つけた、名物のごぼう天など……。
彼女の小柄な身体のどこにそんなものがそんな量、するすると入っていくかわからないと思いながら、祭りの屋台を充分に制覇、堪能できた。
「お腹いっぱいですねっ」
「本番はこれからなんだからね?」
「わかってますって!」
ぷくっと膨らました頬、むっとした表情でこちらを見る彼女。
はしゃぎすぎた気持ちを咎められる子供のような顔――「わかっているのならそれでいいか」と、伊織は少し呆れた笑みが出た。
彼女が手に持つのは、顔を隠してしまうほど大きな綿あめ。
柄を持ち、くるくると回して上機嫌で食べ歩く。
伊織は「可愛いお顔を隠してくれるなよ?」と綿あめに問いかける。
「はいっ」
彼女が一口分を千切って、口元に差し出してきた。
「ん」
こんなことに当てられているようじゃこれから先が思いやられるので素直に従った。
彼女の手から甘ったるい綿を貰う。
口に含むと、彼女が食べさせてくれた余韻に浸る暇もなく、溶けていく。
「んふふっ。はいっ!」
彼女は満足そうにもう一度、口元に構える。
また食べる。
「はいっ!」
「君の分がなくなっちゃうって」
餌付けされている気分。
悪い気は全くしなかったけど、彼女の天真爛漫で嫌味なしの行為が、心を蝕む。
自分が溶けてなくなってしまいそうなご褒美だった。
「ちょっと早いけど、花火の場所で待ってようか?」
「うん!」
明るい笑顔が返ってくる。
和栞の手を引いて人混みから抜けた伊織は時間を確認すると、和栞に気づかれないように、伝わってしまわないように、脈を落ち着けるように。
門司港の海風で深呼吸して、覚悟を決め、踏み出した。
◇◆◇◆
屋台のエリアを抜け、門司港レトロ観光線の線路に沿って、関門海峡方面へ北上する。
海沿いには観光に相応しい、古風でレンガ造りの建物と、外観と調和するように敷かれた遊歩道。陽が落ちてきて過ごしやすくなった街を二人でゆっくり歩く。
「どこに連れて行こうって言うんですか? まさか私、誘拐されちゃいます?」
人の流れに逆らって歩いているのだから、しだいに人気はなくなってきて、彼女の言いたいこともわかる。でも、くすくすと笑う彼女の顔を見て、本気で言ってないことを察した。
「ちょっと歩くけど、ごめんね」
「大丈夫ですよ? 景色もばっちりですしねっ」
可変式の青い跳ね橋。
その奥には本州と九州を隔てる小さな海峡。
対岸の下関からは街の光が薄っすらと見え始めている。
「綺麗ですねぇ……」
「ね」
横から「かたっ、かたっ」と港に響く下駄の音が、妙に涼しげで、耳に心地よい。
彼女が夜景を楽しんでくれているのであれば、この旅路にも意味はあったなと、想いを馳せた。
◇◆◇◆
海を左手に目的地に到着。午後七時の十五分前。
「あそこのベンチで見るよ。最高じゃない?」
「え!? すごい!!」
伊織が指さしたのはノーフォーク広場の海に面した二人掛けのベンチ。
波が広場の足元の壁面に打ち付け、目と鼻の先に海が広がる特等席。
視線の高さで視界を遮るものは何もない。
広場のすぐ背後には、日本の二島を結ぶ関門橋が、立派に架かっている。
「運も良かったね。普通、空いてなさそうじゃない?」
正直、ホッとしていた。
いくら会場から少し離れているとはいえ、空席になっている保証はなかったから。
「うん。取り合いになっちゃいそうっ」
彼女をベンチに座らせた。
「ごめんね。長かったでしょ?」
「ありがとう。大丈夫だからね? 謝るより楽しみましょ? ね?」
「うん」
いくら柔らかい下駄の鼻緒とはいえ、彼女の足を傷つけないか心配でならなかった。
でも、彼女がこちらを心配させないように、気を遣ってくれているのがわかって……。
途端に胸が苦しくなる。
伊織はゆっくり和栞の隣に腰かけた。
「あと三十分くらいで、まずは向こう側から上がるよ」
伊織が指さすのは対岸の下関側。
「すぐにこっち側からも上がって、同時に見れるんですよね?」
「そうそう」
「楽しみだなぁ……」
伊織に聞かせるでもない声が和栞から洩れた。
夜景をぼんやりと二人で眺める。
海の水面には夜景が反射して――
目で揺らぐ光を追っていると、直ぐに波に消されては、また生まれ――
わかっていたけど。
そんな様子を眺めていたところで何も進みやしない。
伊織は自分に課していた状況へ嘆きを入れた。
誰も助けてくれやしないのだ。
心に決めた場所にたどり着こうが、いきなり誰かが、告白へ背中を後押ししてくれるわけではなかった。
喉元まで出かかった、たった一言の言葉を、どんなふうに彼女に伝えればいいのか、その時どんな顔をして彼女を見つめればいいのか、全くわからない。
当たって砕けろとまでに思っていた告白を前に、夜風に流してしまいたい不安は消えず、打ち付ける波の音が、妙に心を急かしてくる。
しかも、空に花火が上がる前。
港の夜景に助けられ風情はあるが、もしこちらだけが勘違いして齷齪しているのであれば、今のうちに夢が覚めてほしい。
でも、言わなければ。
面と向かって伝えなければいけない事だって、ある――
そう。
彼女の為だなんて……言い訳だ――
体のいい言い訳だ。
自分で気がついたこの気持ちに迷いはない。
それを伝える為だけに、今から彼女に【好き】って言うんだ。
◇◆◇◆
「君に聞いてほしいことがある」
意を決して伊織は、和栞に話をきりだした。
「うん」
和栞は伊織の目をじっと見ると、一つ返事をした。
彼女のその真っすぐな視線。
瞳に映る輝きに一瞬、心が揺らいでしまったが、一度ならず二度までも――
話し始めようとした話題から逃げることは、もうできない。
「花火の前に……君に伝えたいことがある……」
今から話すと決めたのに。
何を考えて、何を伝えようとしていたか、上手く言葉にできない。
こんな状況、彼女に笑われてしまうかもしれない。
でも、彼女はきっと――
蔑ろにせず、全てを聞いてくれる。
そんな姿を見てきたから。
今は冷静に気持ちを静めていく。
一呼吸置きたかった伊織は、遠くで鳴る汽笛を許した。
すると、長い汽笛を聴き終えた後、和栞がゆっくり口を開く。
「はい。私はちゃんと聞いておきますから……。頑張って。……ね?」
彼女は聞いてくれると言ってくれた。
待ってくれている彼女は、こちらの顔を見て、その柔和な表情が緊張を溶かしてくれた。
まさか、誰も助けてくれないと思っていたこの場所で、彼女自身に助けられるとは思ってもみなかった。
最後まで伝えようか迷っていた。
なんで君を慕うようになったか……ということ。
君に感じた尊敬の念。
いつしか、同い年の君に、尊敬を感じていた。
そして、日を追うごとにそれは好意に変わっていった。
未来の事はわからないけど。
それでも、今そう思う気持ちを素直に君に伝えておきたいと思った。
告白に余計な長い言葉は、上手く伝えられる自信がない。
飾らず、今伝えたい言葉だけを、君にこの場所で明かそうと決めた。
伊織は和栞の顔を見て――
「俺は月待さんのことが好きです」
――と、ただ一言だけ、伝えた。
伊織が放った一言を前に、和栞は息を殺して呆然とした。
伊織は真っすぐに和栞を見る。
彼女に一言、伝えた瞬間。
和栞の瞳の奥で映る夜景に、大きな揺らぎが生まれた。
その揺らぎは、徐々に大きくなって――
彼女は、表情一つ変えずに、溢れるものに逆らわずに。
大粒のそれは、次から次へと瞳から溢れて、頬に綺麗な線をつけていった。
和栞の涙を見た伊織は、途端に襲ってくる不安に抗えずに――
「ごめん……困らせた」
口から――
喉から――
心から――伊織が吐き出した言葉を後悔する前に。
彼女は泣き顔すら綺麗で、自分は涙の彼女の事を愛おしく感じてしまうのだなと思いながら。
既に多くの好意を受け取っていると感じた彼女から。
和栞は涙に濡れる頬をそのままに微笑む。
彼女の表情は包み込まれそうなほど柔らかで慈しみに満ちていると思ったら、視線が外れ、甘い香りを漂わせて席を立つ。
伊織は驚きに胸が支配され、和栞の行く末を見守る――
和栞は弾む足で海峡を一望できる三メートル手前に駆けて行く。
大粒の涙は、ここまで届きもしない波しぶきのように舞っては、夜景に煌めいた。
柵に手をかけた彼女は勢いそのままに、海に落ちてしまいそうなくらい前のめりで、この街の海峡に向かって叫んでくれた。
「ありがと~~うっっ!!!!!!」
海に溶けていく大きな声。
夜空に吸い込まれていく感謝の言葉。
くるりと振り返った和栞は伊織に満面の笑みで言う。
「わたしも……伊織くんのこと! だ~~~いすきっっ!!!」
その瞬間、止まっていた世界に彩が、元気よく戻ってきた――
お読みいただきありがとうございました。
後編は10/10 18:00更新予定です。




