第5章 深まる関係編 - 第8話「嵐、到来」
ジャジーと鳳が、家で魚捌き対決を始めようとしていた頃。
美月の足は、再び管理所の敷地を踏んでいた。
「ここに、私の記憶を解く鍵がある……!」
本人だけは妙に壮大な顔をしている。
だが実際に忘れているのは、ほんの数日前に聞いたばかりの話である。
美月が管理所の扉を潜ろうとする。
―――その時だった。
「……おい」
「んぇ?」
低い声に呼び止められ、足が止まる。
ちょうど出勤してきたらしい男が、扉の横に立っていた。
紫色の羽、褐色の肌。
黒い髪と、翡翠色の目。
「あ、岩塩天使……じゃなくて、派遣天使の……」
「誰が岩塩天使だ」
「フレーメンさん!」
「フレイフェルだ」
即座に訂正が飛ぶ。
「あ、はは……ていうか、えっと……お仕事お疲れ様です……」
美月が愛想笑いを浮かべる。
フレイフェルは、そんな美月を頭の先から足元まで一度だけ見た。
「お前は……馬鹿か?」
「挨拶より先に罵倒が来た!」
今日の美月は、つばの広い帽子に小さなさくらんぼの飾り。
服は淡い黄色だが、足元のサンダルには小粒の苺がふんだんに描かれている。
どれも、美月が選んだ時にはただ可愛いとしか思っていなかったものだ。
赤。 そして黄色を挟み、また赤。
「……」
フレイフェルが固まった。
眉間には皺が寄ったまま、口がごくわずかに開いている。
まるで、フレーメン反応を起こした猫のようだった。
「イァァなんか伏線回収みたいになっちゃった!」
美月が叫んだ。
「ていうか!え!?私なんか匂います!?」
「……ある意味匂うな」
「何ですか!?」
「騒動の匂いだ」
「何その匂い!」
その時。
美月の視界の端に、小さな花が入った。
赤い花。
美月は花を見る。
次に、フレイフェルを見る。
また花を見る。
フレイフェル。
赤い花。
フレイフェル。
赤い花。
そして。
脳内の奥底で圧縮保存されていた記憶が、突然解凍された。
『“赤”は身につけるな』
ピーン。
「あ゛!赤!ダメゼッタイ!」
「そんな忠告の仕方はしていない」
「すみませんごめんなさい」
「同じ意味の言葉を二回言うな」
「容赦ないなこの人!」
フレイフェルの眉間の皺が、一段深くなる。
「俺の忠告が無駄になった」
「それはほんとごめんなさい!」
今度は素直に頭を下げる。
「お前は自分の纏うものを見て、何も思わなかったのか」
「……さくらんぼ可愛いなぁ、とか……」
「……」
「……苺、可愛いなぁとか……」
「……」
「そんな感じです……」
「……」
沈黙。
そして、真顔のまま。
ふすー…。
フレイフェルの鼻から、短く息が抜けた。
美月の目が半目になる。
「今、真顔で笑いました?」
「……笑っていない」
ふすー……。
また抜けた。
「いやいやいや絶対笑ってますよね!?」
「笑っていない。馬鹿で阿呆だと思っただけだ」
「ウワァァ阿呆が追加処方された!」
美月が頭を抱える。
「うるさい。早く種族支援課へ行け」
「あぁぁそうだった!全速前進!」
「うるさい」
「ごめんなさいこれが私ですので!」
開き直るな。
そんな視線を背中に感じながら、美月は管理所の奥へ走っていった。
姿が扉の向こうへ消える。
「……っふ」
フレイフェルの口元が、ごくわずかに持ち上がった。
「……見ていて、飽きないな」
誰に聞かせるでもなく呟き。
彼もまた、管理所の中へ歩みを進めた。
一方。
美月は受付前まで一直線だった。
「写仝さんこんにちは!」
「美月さん、本日は――」
言い終える前に。
びゅんっ。
美月が写仝の横を、風のように通り過ぎた。
受付台の書類が数枚、ふわりと浮く。
「今日は種族支援課だけに用事があるので挨拶だけで!」
「館内は走行禁止です」
「ひぃん今日も正論の権化ー!」
遠ざかる声だけが廊下へ響く。
写仝は吹き飛びかけた書類を重ね直した。
「……本当に、騒がしい方ですね」
そう呟く声は、いつも通り淡々としていた。
そして美月は、そのまま種族支援課へ飛び込んだ。
「縁さぁん!聞きたいことがあるんですけど!」
窓口の向こうで、妖狐の耳がぴくりと動く。
「あらぁ〜!美月ちゃんじゃな――」
言葉が途切れた。
「え?どうしたんですか?」
美月が首を傾げる。
縁の狐耳が。
ぴんっと、真っ直ぐ立ち上がった。
「……待ってちょうだい」
いつもの柔らかな笑みが消える。
代わりに、その目がぎらりと光った。
「え……縁さん……?」
縁が、ゆっくり立ち上がる。
窓口の内側から出て、美月へ一歩。
また一歩。
じりじりと迫ってくる。
呼吸が、妙に荒い。
ふさふさの尻尾も、落ち着きなく左右へ揺れている。
「ちょっと待って!?縁さんどうし――」
言い終える前に。
縁の両手が、美月の肩をがしっと掴んだ。
「いやぁぁぁぁあん!♡美月ちゃんおめでとぉぉぉ!!♡」
縁の両腕が、美月の体をぎゅっと抱き締めた。
そのままぴょんぴょんと嬉しそうな様子で跳ねた。
「え!!何!?何が『おめでとう』なんですか!?」
「何って、こーこ♡ついてるじゃなぁい♡」
とん、と縁が指先で叩いたその場所は、美月の首筋。
先ほどまで訪れていた東の海。
あの津波を擬人化したかのような妖、東から受けた噛み跡だった。
縁の目が輝く。
「この潮の匂いに混じる甘い熱の香り!そして噛み跡!完っっっっ全に求愛じゃなぁい!♡」
縁はなおもふんす、と鼻を鳴らして興奮状態だ。
ゆっくりと揺れていた尾は今や、喜びを表す犬の尾の如く、ぶんぶんと振られている。
「ち、違います!」
即座に否定を飛ばす。
「これ本人未承認のままつけられた歯型スタンプなんです!」
「えぇ〜そうなのぉ?てっきりやっと海系妖怪と伴侶になってくれるのかと思ったのにぃ〜⋯」
縁の狐耳と尾がみるみる萎びれていく。
「匂いとかぬめり問題がある限り、なかなか契約者なんて現れないわよねぇ〜⋯⋯」
「あ!その件ですけど!」
美月は思い出したかのように声を張り上げた。
「全然臭くなかったですよ!」
「え!?ほんとぉ!?」
「はい!『何百年前の話だ!』とか『最低限のマナーくれぇ身についてるわ!』って怒られました!」
「じゃあそれはぁ?」
縁は再び美月の首筋にある噛み跡を指差す。
すると、美月の目が細まった。
「これは、本能が変わらないそうです」
「やぁんだぁ〜、そこはまだ文明の手が届かないところなのねぇ〜」
「届かないっていうか、多分扉に鍵穴がないです」
「求愛だけ強固なのねぇ〜。情報更新しなくちゃ♪」
縁はくるりと背を向け、窓口に踵を返す。
その時。
「っていうか!」
美月は縁の肩に勢いよく手を下ろした。
ぱんっ、と軽い音が鳴る。
「いひゃっ!?」
縁の肩と尾が跳ねる。
「私!違う話をしに来たんです!」
その言葉に、縁は体の向きを戻すと、目を瞬かせた。
そして、美月は意を決し、口を開く。
「赤!座敷わらしが赤を身につけるとどうなるのか、詳しく教えてください!」
第5章 深まる関係編 - 第8話
「嵐、到来」
→第5章 深まる関係編 - 第9話
「種族支援課担当+捜索監視課担当=内科」へ
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