第2章 隠世の問題編 - 第6話「変化する日常」
管理所を出る頃、空は昼と呼ぶには遅く、夕方と呼ぶには早い日の落ち方をしていた。
「疲れた……」
家の扉を開けるなり、美月は靴を脱いでその場にへたり込む。
「役所見学しただけだろ」
「情報量が多い……在魂だの風聞だの境界だの、途中から社会科見学じゃなくて行政研修だったよ……」
後ろから入ってきたジャジーが翼を畳む。
そして。
「美月」
「うん?」
振り返る。
ジャジーは黙ったまま、美月の唇を指差した。
「忘れてねぇよな」
「な、何を…」
「キス」
「う……」
『場所は選ぶ』
『帰宅してから』
言った。
確かに、管理所ではジャジーにそう告げた。
逃げられない状況に、美月の言葉が詰まる。
ジャジーは一歩も引かない。
「管理所で『帰宅してから』っつっただろ」
「……言いました……」
「声ちっせぇな」
美月の視線が泳ぐ。
前回は、消えかけたジャジーを助けるためだった。
今は違う。
急いで補給しなければならないほど、彼の魔力は減っていない。
つまり。
ただ、キスをする。
「……1回だけだからね?」
「2回」
「交渉禁止!」
ジャジーが笑う。
美月は立ち上がり、少し背伸びをした。
が、届かない。
「屈んでよ!」
「悪ィ。必死なのが面白…じゃなくて可愛かった」
「可愛いって言えばなんでも許されると思うな!」
「バレたか」
「私のこと“ちんちくりん”って呼んでたのまだ覚えてるからね!」
「呼び名が違ぇことに怒んの、ちゃんと妖してんな」
「“ちんちくりん”は誰でも怒るわ!」
背伸びしていた踵を降ろし、美月は腕を組むとぷいっと顔を背ける。
「美月、悪かった」
「ふーんだ」
「お前はちんちくりんじゃねぇ」
「……」
「月見の団子だったな」
「昇格したのか降格したのか分かんない褒め方するな!」
ジャジーは首を傾げる。
「なんだよ。可愛いだろ」
「団子の可愛い要素なに!?」
「丸い。柔けぇ。美味ぇ」
「………」
「食い物版のお前じゃねぇか」
「今すぐ焼き鳥にするよ?」
「火はやめろ!」
すると、美月が笑う。
「ふふっ…!やっぱり火は苦手なんだ…!」
美月は腹を抱えている。
「誰だって丸焼きは嫌だろ!」
「私は団子にされたから」
「にしたって串刺しからの火炙りとかなんの罰だよ」
「私を団子と称したことによる侮辱罪としての罰」
「重すぎだろ!」
とうとう二人して笑った。
ひとしきり笑うと、ジャジーが腰を屈める。
「誂いたくなるくらいには可愛いぞ」
「出た。淫魔流の褒め方」
「淫魔流だろうがなんだろうが、“可愛い”は褒め言葉だろ」
「はいはい。そういうことにしときます」
そして、美月はジャジーに向き合うと、一瞬だけ躊躇う。
「早く」
「わかってるよ…!」
ゆっくりとジャジーの頬へ手を添えた。
ジャジーの羽がピクリと反応する。
そして、唇が重なった。
ほんの数秒。
そしてすぐに離れた美月の顔は、耳まで赤かった。
「……終了!」
「短ぇ」
「お菓子なら一口でも食べたでしょ!」
「味見にもならねぇ」
「知らない!」
短いキスに対して、ジャジーは不満そうだ。
なのにその顔は、妙に機嫌が良かった。
美月はそれに気づかないふりをして、畑へ逃げるように向かった。
「それより畑!」
昼間、災異治安対応課で聞いた話が頭に残っている。
火を扱う妖が、農地を荒らしている。
美月は畑の周囲を見回した。
巨大化した野菜はほとんど収穫済みだが、新しく植えたばかりの区画もある。
ジャジーも周囲を確認する。
「結界はあるんだろ」
「ある。でも火に強いか分かんない」
「なら水置いとけ。燃え移りそうな枯れ草も除けるぞ」
「おぉ……ちゃんと対策考えてる」
「なんだその顔」
「窓から侵入してきた淫魔が、防災意識を持ってることに感動してる」
「押し倒すぞ」
「そのギャグやめて!」
二人で畑の周囲を片付け、水を張った大きな桶を何個か置いた。
ジャジーは枯れ草を羽で落としている。
すると、ジャジーの翼が、美月の視界いっぱいに広がった。
「………」
昨日、自分を包んだ翼。
今日は、管理所で周囲の視線から自分を隠してくれた翼。
「……焼かれないでね」
空気に溶ける声量でぽそりと呟く。
「あ?」
「なんでもない!」
美月は勢いよく枯れ草を袋へ押し込んでいく。
ジャジーは少しだけ目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。
作業が終わる頃には、空はすっかり暗くなっていた。
「これで一応大丈夫かな」
「俺がいる時は見張っとく」
「ずっといるの?」
「いる」
「そういえば寝床問題平行線だよ?」
「お前んち」
「ほら!」
「翼畳む」
「サイズの問題だよ!」
結局その夜は、ジャジーが居間の床で寝ることとなった。
「これでいいだろ」
ジャジーは鳥脚を折りたたみ、体を丸めるようにしてしゃがむ。
「横にならないの?」
「ならねぇ」
翼腕の羽部分が、わずかに膨らんでいる。
「そこは鳥なんだ…」
「鳥とか言うな」
「……風邪ひかない?」
「上裸の淫魔に聞く質問じゃねぇ」
美月は小さく笑う。
「じゃあ、おやすみ、ジャジー」
「……おう。おやすみ、美月」
その夜は、何も起こらなかった。
翌朝。
美月はいつも通り起き、畑を確認し、朝食を済ませた。
今日も管理所へ向かう予定だった。
「今日は幼怪課担当さんいるかな?」
「行ってみりゃ分かんだろ」
「きっと優しそうな担当者さんなんだろうなぁ」
「お前、今フラグ立ったぞ」
「立たせてないよ!」
騒ぎながら二人は家を出る。
2人は扉を閉め、管理所へと向かった。
その背後で、熱気が畑の葉を揺らした。
昨日置いた水桶と、片付けた枯れ草。
新たに念入りに張り直された結界のその向こう。
誰もいなくなった畑の端に―――
―――赤い火が、灯った。
第2章 隠世の問題編 - 第6話
「変化する日常」- 完 -
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